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【茶室のインテリア】千利休で有名な侘茶の歴史と茶室の建築について画像を使って解説します【日本のインテリアの歴史⑤】

千利休 侘茶

 

 

こんにちは、しけたむです。

 

 

この記事では

 

  • 「お茶といえば千利休くらいしか知りません、、、。」
  • 「茶室のインテリアに関わる用語を画像で確認したい。」

 

 

という人のために

 

分かりやすく画像付きで解説していきます。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
安土桃山時代のインテリアは茶室に関わる用語について理解できればOKだにゃ!

 

 

 

そもそもお茶っていつから日本へ?

 

 

みなさんも毎日飲んでいるかもしれないお

 

 

諸説ありますが

奈良・平安時代に最澄(さいちょう)空海(くうかい)などの留学僧が

中国の唐からお茶の種子を持ち帰ったのが、日本のお茶の歴史の始まりとされています。

 

最澄と空海

出典:伊藤園/おーいお茶HISTORY

 

 

平安初期(815年)の『日本後記』には、茶に関する記述が見られます。

 

当然ですが、当時のお茶は超貴重で限られた人のみしか口にできませんでした。

 

 

 

 

鎌倉初期(1191年)に臨済宗の開祖であるとってもえらい僧である栄西(えいさい)

中国の宋から帰国する際、日本にお茶を持って帰ってきて栽培を始めました。

 

 

 

これが日本ではじめてのお茶栽培と言われています。

 

栄西出典:伊藤園/おーいお茶HISTORY

 

 

栄西はお茶にたいそうハマってしまったようで、お茶の効用から製法などについて著した

喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を執筆しました。

 

 

 

これは、日本最古のお茶関連の書といわれています。

 

喫茶養生記(きっさようじょうき)

出典:伊藤園/おーいお茶HISTORY

 

 

この喫茶養生記はお茶好きの僧侶や武士たちのバイブル的存在となり

寺院などで喫茶の習慣が生まれました。

 

 

 

侘び茶、村田珠光により創始される

 

 

室町時代になると、『茶の産地を当てる』という今でいう『利き茶』のような競技会が

書院の広間や会所でワイワイと行われていました。

 

 

 

このようなお遊びみたいな状況になってしまった傾向に疑問を持った

村田珠光(むらたじゅこう)は、禅宗の点茶(抹茶を点(た)てること)や

喫茶の作法を提唱しました。

 

 

 

これが、現代の茶道の起源である侘び茶の創始とされています。

 

 

高くて豪華なものではなく

簡素簡略の境地である『わび』の精神を重んじた茶の様式です。

 

村田珠光出典:Pinterest/村田珠光

▲1423年奈良に生まれる。11歳で浄土宗称名寺に入り、出家した。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
この村田珠光さんが焼いた茶碗、『珠光茶碗』は、かの有名な千利休も大ファンで若かった頃によく茶会で使っていだんだにゃー

 

 

村田珠光は僧であった為、後継ぎが居なかったので

興福寺というお寺で雑務を行なっていた宗珠(そうじゅ)という男の子を養子にしました。

 

 

 

1502年、村田珠光さんが80歳で他界するまで

この宗珠侘び茶のなんたるかを叩き込みます。

 

 

 

 

そして、時代は流れ、、、

 

 

侘び茶、武野紹鷗によって深められる

 

 

室町時代後期、村田珠光の『跡目(あとめ)』として立派に成長した宗珠。

 

 

彼は武野紹鷗(たけのじょうおう)という男を弟子としました。

 

 

 

武野紹鷗はもともと堺の豪商(武器とか動物の皮を扱っていたそうです)で、

『5・7・5・7・7の長短句を交互に複数人で連ねて詠み、ひとつの歌にしていく』

という『連歌』の先生をしていました。

 

 

 

その後、武野紹鷗は出家して僧となり、宗珠より茶の教えを賜りました。

 

 

 

武野紹鷗は54歳という若さで亡くなりましたが、

千利休をはじめ優秀な弟子を多く輩出し、侘び茶の完成に大きく寄与しました。

武野紹鷗出典:堺観光ガイド

▲1502年に大和国(現在の奈良県)に生まれ、堺へ移り住み皮革商として財を成した

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
武野紹鷗の影響は凄まじかったにゃ!千利休は「茶の術は紹鷗、道は珠光より(教わりました)」と語っていて、それにより武野紹鷗の評価が一気に上がったんにゃー

 

 

侘び茶、千利休によって完成される

 

 

みなさんご存知、お茶界では『茶聖』とも呼ばれるおじいさま。

 

意外なことに、千利休は身長180cm以上ある大男だったそうです。

 

千利休出典:さかい利晶の杜

 

 

千利休は1522年に堺に生まれ、実家は倉庫業を営んでおり、主に商人たちに倉庫を貸していました。

 

そして、17歳という若さで茶を習い始めます。

 

 

 

様々な師がいましたが、やがて武野紹鷗と出会い、弟子として茶を学びました。

 

 

ちなみに利休は、茶を習いながらも商人としても大成功しており、莫大な財を築いています。

 

 

 

 

その後、利休さんの住む堺が織田信長の支配によって直轄地となっていく過程で

織田信長に召し抱えられることとなります。

 

 

 

本能寺の変の後は、豊臣秀吉に仕えます。

 

 

この時、利休は60歳です。

 

 

 

この年の8月に、利休は秀吉に茶室を作るように命じられます。

 

 

そして翌年3月、現存する唯一の利休プロデュースの茶室である

妙喜庵の待庵(みょうきあんのたいあん)(後述)を完成させました。

 

 

わずか2畳という極小の茶室で、現在は国宝に指定されています。

妙喜庵 待庵 千利休出展:森美術館

▲わずか2畳という広さの妙喜庵待庵(ものつくり大学によるCG)

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
利休さんは秀吉さんに待庵の建築を命じられた時、「迷惑なることを秀吉から頼まれた」とグチってたらしいにゃwww

 

 

 

その後、利休さんは豊臣秀吉の北野大茶会を開催したり黄金の茶室を作らされたりしましたが、心の内では

 

茶の本道は仏教の精神を表現することにある

 

と考え、小規模な草庵(粗末で小さな家)での茶会を重視してました。

 

 

 

このため、利休さんの茶は『草庵の茶』ともよばれます。

 

 

 

利休さん、70歳の年。

 

 

豊臣秀吉の最側近にまで上り詰めるも、突然、秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられます。

 

 

 

多くの弟子たちが利休さんを助けるために奔走しましたが、助けることは出来ず

秀吉の命令を受けた側近の上杉景勝の軍勢が出動するなど、大騒ぎになりました。

 

 

 

秀吉さんが利休さんにブチギレた理由は諸説ありますが、よく分かっていません、、、

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
利休さんは『60歳までは先人の茶を踏襲し、61歳からようやく独自の茶を始めた』と語ったにゃ。70歳で亡くなるまでの10年間が侘び茶の完成期だったということにゃー

 

 

国宝!三大茶室!

 

・千利休の『待庵(たいあん)

 

・織田有楽斎の『如庵(じょあん)

 

・小堀遠州の『密庵(みったん)

 

 

 

この三つの茶室は国宝に指定され、三代茶室と呼ばれます。

 

 

 

茶室のことは『数寄屋(すきや)』ともよばれ

その建築はのちの数寄屋造りに大きな影響を与えました。

 

 

待庵(たいあん)

出典:小林工芸

 

1582年、千利休のプロデュースにより建築された妙喜庵の待庵は国宝であり、

現存する最古の草庵茶室です。

 

 

畳の2畳敷で、採光のために連子窓(れんじまど)下地窓が設けられ、床(とこ)は、内面の角の柱や天井の縁を壁で塗り隠した室床(むろどこ)となっています。

 

 

連子窓(れんじまど)

妙喜庵待庵出典:日本全国紅葉名所時期情報2021

 

 

細い木や竹などを一定の間隔で並べた窓のこと。

 

上の写真中央上が連子窓です。

 

採光、通風、防犯を目的としています。

 

 

 

下地窓

下地窓 待庵出展:岩崎建築研究室

 

 

茶室の土壁の一部を塗り残し、装飾として下地の格子状の竹を露出させた窓のこと。

 

 

上の写真をよく見るとL型の引っ掛けが見えます。

 

 

ここに障子を引っ掛けて、取り付けることができます。

 

 

このような障子を掛け障子といいます。

 

 

 

室床(むろどこ)

妙喜庵待庵 室床出展:Pinterest

▲妙喜庵待庵の室床

 

 

床の間の形式のひとつで、床の間の内面の角(かど)の柱や天井の縁(ふち)(※)を壁で塗り隠して、見えなくした床のことです。

(※雲板(くもいた)と呼びます。)

 

 

京都 天龍寺 床の間出展:しけたむ

▲一般的な床の間は、床の間の内面の角の柱や天井の縁の雲板が見えています。京都『天龍寺』より

 

 

 

 

ちなみに洞床(ほらどこ)とは、床の間の形式のひとつで、床の前面の一方に袖壁をつけ、落掛け(おとしがけ)と袖壁の壁止めの柱がなく、袖壁と上部の小壁、床の内部の壁を塗り回しとした床の間のことです。

 

洞床出展:KLASIC

 

ナンタルカ
ナンタルカ
言葉で説明するとちょっと意味不明にゃんですが、こちらの写真のように洞窟の入り口みたいになっている床の間のことだにゃあ

 

如庵(じょあん)

妙喜庵待庵

 

 

1618年に織田信長の弟(‼︎)である

織田有楽斎(おだうらくさい)』によって建造された国宝の茶室です。

 

 

 

如庵の間取りは「二畳半台目(だいめ)」、つまり通常の畳2畳+半畳+台目畳(後述)という広さです。

 

台目畳は通常の畳の大きさの4分の3の大きさなので、この大きさで換算すれば、約3.25畳の広さということになります。

 

 

 

また如庵の開口部には、連子窓有楽窓(うらくまど)が設けられています。

 

 

有楽窓は連子窓より、もっと隙間なく竹を配して光をかすかに通すようにした窓です。

 

如庵 室内 有楽窓出典:WINDOW RESERCH INSTITUDE

▲二畳半台目の広さの室内。写真正面の壁の窓には2カ所に有楽窓が使用されている。

 

 

 

もともと京都府の建仁寺に建てられた如庵ですが、現在は愛知県犬山市に移設されました。

 

移設には電車を使って、解体せず行なったとか。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
この如庵という茶室の名前は、織田有楽斎さんのクリスチャンネームの「Joan」または「Johan」から名付けられたんだにゃ!

 

 

密庵(みったん)

 

 

密庵と書いてみったんと読む、という初見殺しの国宝茶室です。

 

 

大名茶人であり、建築家でもあった小堀遠州

京都の臨済宗大徳寺派大本山大徳寺に立てたと言われています。

 

 

 

完全に非公開の茶室で、期間限定の公開も行っていないため

『日本で最も見るのが難しい建造物』のひとつです。

 

 

小堀遠州出典:遠州流茶道/『小堀遠州』

 

 

茶室のエレメント

 

 

草庵風の茶室で特徴的で必出のキーワードを集めました。

 

ここで完璧に覚えてしまいましょう。

 

 

躙口(にじりぐち)

躙口 明々庵出展:明々庵

▲1779年に建てられた松江市『明々庵』の躙口

 

 

一般の客が出入りする幅1尺9寸5分、高さ2尺2寸5分を基本的なサイズとする

とっても小さな茶室への出入り口のことです。

(1尺は30cm、1寸は3cmです。

 

 

 

小さな室内を広く見せるための工夫、と言われます。

 

 

 

特別で高貴なお客様を通す際には頭を下げさせるわけにはいきませんので、

立ったまま出入りできる貴人口(きにんぐち)が用意されました。

 

貴人口 躙口 茶室出典:梶本銘木店

▲正面にある大きな入り口が『貴人口』。その左下の小さな入り口が『躙口』。

 

 

土壁(つちかべ)

茶室 土壁出典:iemiru

 

 

草庵茶室の壁は一般的に土壁で塗られています。

 

 

仕上げ(上塗り)用の土色により、聚落(じゅらく)壁錆(さび)壁など様々な種類があります。

 

 

 

床面から高さ30−60cmほどのところまで和紙を貼ることもありました。

 

 

これを腰貼りと呼びます。

 

 

 

関西で多く見られ、意匠だけではなく壁の足元を保護する意味合いがあります。

 

腰貼り出典:金澤町家改修ものがたり/腰貼り

▲朱い土壁に腰貼りで足元を保護している例

 

 

 

台目畳(だいめだたみ)

台目畳▲奥に見える畳が台目畳

 

 

茶室で使われる畳のことで、普通の畳の約4分の3の大きさの畳のことです。

 

 

 

普通の畳にこの台目畳を加えた部屋の大きさを

二畳台目(二畳+台目畳)、三畳台目(三畳+台目畳)などと呼びます。

 

 

 

手前畳(てまえだたみ)、亭主畳(ていしゅだたみ)

茶室の名称

出典:東建コーポレーション株式会社/茶室資料集

 

 

手前畳とは、茶室で主人が点茶をする場所の畳のこと。

 

 

茶道具が置かれ、道具畳亭主畳とも呼ばれます。

 

 

 

風炉(ふろ)

 

風炉

出典:精選版 日本国語大辞典 /風炉

風炉出典:きょうとウェルカム

 

 

風炉茶を沸かす炉のことで、「茶炉」や「涼炉(りょうろ)」とも言われます。

 

 

元々は中国で使用されていた野外で火をおこすために考えられた携帯湯沸かし器でした。

 

 

古くなったり、使い終わった後は廃棄されるのが慣例だったので、手の掛かった彫刻や造形を施された風炉はほとんどありませんでした。

 

 

 

江戸時代に日本に煎茶法が伝わったときに風炉も一緒に伝来しましたが、渡来品であることと、素焼きという素朴さが茶人達の心を捕らえて、珍重されるようになりました。

 

 

その後、中国本土でも凝ったデザインの風炉が生産されるようになり、また日本でも注文に応じて装飾に富んだ風炉が生産されるようになりました。

 

 

 

台子(だいす)

茶室 台子 茶道具出典:水の茶の湯の徒然/台子

 

侘び茶で用いられる茶道具を置く台のこと。

 

風炉や茶碗が置かれました。

 

 

掛け込み天井(かけこみてんじょう)

掛け込み天井(かけこみてんじょう)出典:和比×茶美/茶室

 

 

掛け込み天井は、傾斜となっている部分に天井を貼らず、梁や垂木が見えるように仕上げた化粧屋根裏勾配天井と、天井の高さが均一になっている平天井を組み合わせた天井のことで、茶室などで用いられます。

 

 

千利休が考案して完成させた天井と言われています。

 

 

葦簀(よしず)天井

葦簀天井 よしず天井出典:STYLE HAUS

 

 

葦簀天井とは、葦簀(よしず)を使った天井のこと。

 

 

葦簀(よしず)とは、イネ科の多年草である『葦(あし)』の茎で作ったすだれのことで、古くから利用されてきました。

葦簀 葦 あし出典:Rebus Market

▲北海道から沖縄まで、広い地域の河川や湖沼の水際に生育している

 

 

この葦簀(よしず)の『葦』と、葦(あし)の『葦』は同じ字ですが、読み方が違います。

 

 

これはもともと同じ植物を意味する言葉なのですが、『あし』という呼び名は『悪し』に通じるため、『よし(良し)』と言い換えられたものです。

 

 

『日本書紀』を参考にすると、およそ平安時代ごろまでは『あし』と呼ばれていたようです。

 

 

 

関西地方のようにお金を意味する『お足』という言葉がある地域は、『あし』という言葉が良い意味として残っていることもあります。

 

 

 

葦簀天井は、現代では和室だけではなく様々な場所使用されています。

 

 

 

露地(ろじ)

露地 飛び石 蹲 つくばい出典:enaga

▲露地とは茶庭(ちゃてい)とも呼ばれる茶室に付随する庭園のこと。手前には蹲踞、右には飛び石が見える。

 

 

露地とは茶室の庭のことで、待ち合わせに場所として使用した待合(まちあい)、露地を渡り歩く足場とするために、飛び飛びに配置された飛び石

 

待合 腰掛待合出典:Aterier HOLONICA

▲待合は茶会で客が待ち合わせ、身支度を整えるための施設。寄付(よりつき)、袴付(はかまつけ)、一宿(ひとやどり)、腰掛待合(こしかけまちあい)とも称された。

 

 

手を清めるための手水鉢(ちょうずばち)が置かれた蹲踞(つくばい)や、

 

蹲 つくばい 龍安寺出典:スマイルフェイス

▲京都龍安寺にある蹲踞『知足の蹲踞』。手水鉢には『吾唯足知(われ ただたるを 知る)』と刻まれている。「金持ちでも満足できない人はできないし、貧乏でも感謝の心を持てば満足できる」という意味。

 

 

便所である雪隠(せっちん)石灯籠(いしどうろう)などで構成されました。

 

石灯籠 露地 茶室出典:造形礼讃

▲灯りの火が消えないように籠をした石灯籠。光源には油やロウソクが用いられた。

 

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
村田さん、武野さん、千さんの侘び茶の精神は、令和の時代にも変わらずに息づいているんだにゃー!

 

 

 

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お疲れ様でした!

 

 

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

 

次回もお楽しみに!

 

 

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