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【昭和〜現代のインテリア②】戦後の住宅事情と活躍した建築家はここだけ覚えればOK

戦後 住宅 UR 団地

 

こんにちは、しけたむです!

この記事では

  • 「戦後って、どんな住宅が建てられていたの?」
  • 「戦後に活躍した建築家について知りたい。」

とお考えの皆様に向けて、

戦後の住宅や建築家について画像付きで解説していきます。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
戦争が終わって住むところもままならない状況から、人々は少しずつ復興の道を歩んでいきますにゃ。より良い暮らしを求めて活躍した建築家の活躍を紹介いたしますにゃあ〜

 

 

戦後の住生活

戦後 住宅 UR 団地出展:UR都市機構

▲昭和30年代に建てられた東京の赤羽台団地

 

1945年に太平洋戦争が終結し、日本は焼け野原からの復興を目指します。

集合住宅と戸建住宅の変化をそれぞれ見ていきましょう。

 

戦後の集合住宅

公営住宅 51C型 団地出典:Twitter

▲戦後日本の集合住宅のモデルとなった公営住宅標準設計51c型の集合住宅

 

まず住宅不足の解消策として日本住宅公団(にほんじゅうたくこうだん)が1955年に設立されました。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
日本住宅公団は、今だと『UR都市機構(独立行政法人都市再生機構)』という名前でおなじみですにゃあ〜

 

日本住宅公団とは、住宅に困窮する勤労者のために住宅及び宅地の供給を行うことを目的とした公団です。

 

公団によって建てられた集合住宅(公団住宅)には、それまで食事と就寝を同じ畳の部屋で行っていた生活から

食寝分離(しょくしんぶんり)

という、「食べる部屋と寝る部屋を分離する」とした2DK(2部屋+Dining Kitchen)プランで、その後のダイニングキッチン普及の原点となりました。

日本住宅公団 公営51C型標準設計 間取り出典:リノまま

▲台所(Dining)と食事室(Kitchen)が一体になったDKに居室を2部屋加えた2DKプラン

 

この2DKプランを採用した住宅はDK型住宅と呼ばれ人気を博します。

 

食寝分離は、建築学者でもあり都市計画家でもある西山夘三(にしやまうぞう)によって唱えられました。

 

西山夘三(にしやまうぞう)

西山夘三出展:京都建築事務所

▲若い頃は漫画家を志望していたという西山夘三は、公共建築を中心に幾多もの設計活動を行った

 

西山 夘三(にしやまうぞう)(1911年 – 1994年)は大阪出身の建築家で、住宅問題を科学的に研究する基礎を築いた人物です。

 

西山は1930年に京都帝国大学建築学科(現在の京都大学)に入学し、先述の藤井厚二(聴竹居の項目参照)西山の指導教授を担当していました。

1933年、卒業後は大学院へと進みますが軍からの応召(おうしょう)で火薬製造工場などの軍事施設の設計などに関わることとなり、応召解除後は大衆住宅の研究を始め、第二次世界大戦後の1947年には庶民住宅の研究で工学博士となります。

西山夘三 スケッチ出典:美術手帖

▲西山夘三は人の住み方を徹底的に調査し、得意のイラストで膨大なスケッチを残した

 

同年、西山は『これからのすまい』を出版し、この本の中で当時の庶民が住宅内で食事の場所と寝る場所を区分している生活実態を明らかにしました

これからのすまい出典:ヤフオク

▲西山夘三の『これからのすまい』は現在もネットなどで入手可能

 

これを「食寝分離」として、この住み方の法則が後に公営住宅の標準設計「51C型(ごじゅういちしーがた)」などに採用されて、現代まで引き継がれているDK型の間取り(2DK、3DKなど)が誕生したといわれています。

 

また、西山夘三は就寝分離(しゅうしんぶんり)という「親と子の就寝空間を分ける」という概念も提唱して住宅計画理論を確立した西山夘三は、日本における住宅研究の権威となりました。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
公団住宅のDK型住宅で特に人気のあった2DKプランは51C型と呼ばれたにゃ!1951年に登場したことと、「A(16坪)」、「B(14坪)」、C(12坪)」の3つのプランでCプランが人気あったことから有名になったんにゃあ

 

戦後の戸建住宅

最小限住居(さいしょうげんじゅうきょ)

最小限住宅 増沢洵(ますざわまこと)出典:Pinterest

▲建築面積9坪の『最小限住居』は本当に必要なものだけが揃ったコンパクトなデザイン

 

最小限住居(さいしょうげんじゅうきょ)の正式名称は『吹き抜けのある家−最小限住居』で、建築家である増沢洵(ますざわまこと)が1952年(昭和27年)に東京都渋谷区大山町に建てた自邸です。

 

建築面積わずか29.75㎡(9坪)、延べ床面積49.58㎡(15坪)の狭小住宅で日本建築史において戦後経済の発展期に建てられた実験的狭小住宅の歴史的代表作です。

増沢洵出展:アクトホーム

▲東京帝国大学工学部で建築を学んだ後、アントニン・レーモンド(後述)に師事した増沢洵

 

増沢 洵(1925年 – 1990年)は東京都生まれの建築家で、1947年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業すると、同年アントニン・レーモンドの設計事務所に入所しました。

 

レーモンド事務所の所員だった1952年、27歳だった増沢は当時なかなか当選しない金融公庫(政府が出資してつくった金融機関)の融資に当選したため、自邸『吹き抜けのある家−最小限住居』の設計を開始します。

最小限住居の設計期間は2ヶ月で、工事はたった3ヶ月で竣工させました。

 

最小限のスペースで開放感を出すため、当時としては珍しい吹き抜け』を効果的に用いているのが特徴的です。

戦後の住宅史の中で特筆秀作の声も高く、19527月号の建築雑誌「新建築」には「最小限住居の試作」の名称で記事が掲載されました。

最小限住居 増沢出典:LIXIL

▲『最小限住居』の吹き抜けからダイニングとキッチンを見下ろす。当時はまだ平屋(一階建の建物)の住宅が多く、二階建てでしかも吹き抜けという空間構成は珍しかった。

 

当時から注文住宅は「富裕層の所有するもの」とされていたなか、若い夫婦でも手に入れることができるようにと安くて、良質、居心地の良い、シンプルな住まいをつくろうと考えたのが『吹き抜けのある家−最小限住居』でした。

 

1950年代にはこのような狭小住宅が実験的にいくつか作られましたが、その代表が増沢洵の『吹き抜けのある家−最小限住居』池辺陽(いけべきよし)立体最小限住宅とされ、増沢は住宅デザイン史に輝かしい足跡を残しました。

 

立体最小限住宅(りったいさいしょうげんじゅうたく)

立体最小限住宅出典:能ある鷹h氏

▲池辺陽が1950年に設計した『立体最小限住宅No.3』の南側外観

 

立体最小限住宅(りったいさいしょうげんじゅうたく)とは、1950年に建築家の池辺陽(いけべきよし)によって発表された「15坪」という狭小住宅で、狭小性の克服を目指した住宅シリーズです。

 

池辺陽(1920年 – 1979年)は韓国生まれの建築家で、長く東京大学教授として工業化という方向から建築をとらえた作品を残し、戦後すぐの住宅問題に対して1950年に立体最小限住宅を発表し、以降シリーズ化(No.1-No.95)して1978年まで建てられました。

池辺清出展:建築士試験過去問解説サイト

▲池辺清は戦後すぐの資材が少ない中での住宅建築をテーマにした日本を代表する建築家

 

池辺陽は1920年に内務省の官僚を父に持ち、韓国釜山で生まれました。

22歳で東京帝国大学工学部建築学科を卒業して、同大学大学院に進学します。

大学院を卒業後は坂倉建築研究所に入所、ル・コルビュジェの建築事務所で学んだ建築家の坂倉順三(さかくらじゅんぞう)に師事して戦災復興都市計画に尽力しました。

 

1950年に立体最小限住居No.3を発表した池辺は、当時の法律で定められた15坪という面積制限のなかで、畳などの日本の伝統的な要素、スタイルを廃して

「平面の機能分化を尊重し、空間の節約、断面による独立性の確保に務めた。」

という設計によって、その後の日本の住宅設計に大きな影響を与えました。

立体最小限住宅 池辺陽

▲玄関を入るとすぐにダイニングキッチン空間があり(写真右下)、リビングとロフトに十分な採光をとるための大きな南窓(写真左上)や、天井まで続く書棚(写真右上)など狭小住宅とは思わせない工夫が散りばめられている。

 

1954年には立体最小限住宅No.17が完成し、池辺陽の自邸として利用されました。

立体最小限住宅 17 池辺 自邸出典:住まいとインテリアプラン

▲工業製品で構成された外観は60年以上前とは思えない未来的なデザイン。工業的な外観とは逆に、室内は自然がいっぱいのインテリアになっている。

 

池辺 立体最小限住宅No.17出典:SUGA ATELIER

▲家族3人で暮らす池辺(本人)の自邸。室内には直接地面からゴムの木が生え茂る。

 

フクロウと池辺陽出典:SUGA ATELIER

▲『立体最小限住宅No.17』で放し飼いにされていた池辺陽のペットのフクロウ

 

斎藤助教授の家(さいとうじょきょうじゅのいえ)

清家清 斎藤助教授の家出典:けんちく劇写資料室

▲テラス、廊下、リビングダイニングを連続させた開放的な空間とし、可動の家具を配置した、状況に応じて変更できる間取り。既存の基礎を用いて、一部が浮いたような外観に。

 

斎藤助教授の家は、1952年に建築家の清家清(せいけきよし)によって東京都大田区に建てられた寝殿造を思わせるような、高床式で水平的な広がりを持つ建築です。

 

ドイツのワイマール(ヴァイマル)にある国立芸術学校『バウハウス』の創設者であるヴァルター・グロピウスが訪日した際にこの建築は必ず見たいと訪れ

日本建築の伝統と近代技術の幸福な結婚である

と称え、絶賛しました。

 

▼バウハウス、グロピウスはコチラの記事にて▼

バウハウス BAUHAUS
バウハウスとは何か。建築家の代表作や家具デザインの特徴を画像で解説この記事ではバウハウスについてわかりやすく解説しています。ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、マルセル・ブロイヤーなど巨匠が多く登場する記事です。インテリアコーディネーターの復習や、試験勉強の参考にお役立てください。...

 

清家清の最初期の作品であり、寝殿造りを思わせる高床式で水平的な広がりを持つ構成で床面積は19坪、横幅が9mに対して、奥行きは4.8mと横に細い間取りとなっています。

斎藤助教授の家 Prof.K出典:ZERO=abunDANCE

ユニバーサルスペース(※)を連想させる、建具を開け放った姿。戦後の復興期に日本的な伝統美と西洋的モダニズムの美学を見事に一致させた日本建築の未来を先取りした革命的な建築だった。

 

『ユニバーサルスペース』とはモダニズム建築の理念の一つで、内部空間をひとつの使い方に限定せず、建具などを開けたり閉めたりすることによって自由に使えるようにした空間のことで、ドイツの偉大な建築家ミース・ファン・デル・ローエによって提唱されました。

 

▼近代建築の3大巨匠の物語はこちらから▼

バウハウス BAUHAUS
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2017年には東京国立近代美術館にて企画展「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」が開催され、斎藤助教授の家の原寸大モデルが展示されました。

斎藤助教授の家 1 斎藤助教授の家 2斎藤助教授の家 3出典:zeitgeist

▲実際に入って体感できる企画展はローマとロンドンでも催され人気を博した

 

清家 清(せいけきよし)(1918年 – 2005年)は京都の建築家で、戦後すぐに「森邸(1951年)」を発表し、同じ50年代に発表された池辺陽の「立体最小限住宅」増沢洵の「最小限住居」と共に、戦後間もない日本の建築業界に機能的な都市型住宅のプロトタイプを提案し、住宅を通して新しい生活像を提示した人物です。

清家清出展:note

▲ネスカフェCMに出演した清家清。”違いのわかる男”として建築家という職業を世に印象付けた。実はタモリ倶楽部にも出演経験あり。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ヴァルター・グロピウスは『斎藤助教授の家』に惚れ込み、清家清さんをドイツの自宅に招いたりしたにゃ!その後ふたりは一緒に働くこととなるんですにゃあ

 

ナンタルカのまとめ

ナンタルカのまとめ

 

ナンタルカ
ナンタルカ
今回の記事で絶対におさえておきたいポイントですにゃ!

 

まとめ小テスト

 

■戦後の住生活

戦後、住宅不足の解消策として、(①)(現・独立行政法人都市再生機構)が1955年に設立された。公団により建てられた集合住宅(公団住宅)には、西山夘三が唱えた(②)という欧米的な生活思想が取り入れられ、51C型と呼ばれる2DKプランを採用した(③)が供給された。一方、戸建て住宅では、増沢洵の(④)、池辺陽の(⑤)、清家清の(斎藤助教授の家)などの試みが展開された。

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①日本住宅公団 ②食寝分離 ③DK型住宅 ④最小限住居 ⑤立体最小限住宅

 

お疲れ様でした。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

わからないことや分かりにくい箇所があれば、ぜひお問い合わせよりご連絡ください!

 

次回もお楽しみに!

 

▼次回、昭和の高度経済成長期に活躍した建築家!▼

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