インテリアコーディネーター資格

【明治・大正時代のインテリア】明治・大正時代の建築や生活について画像で解説します【日本のインテリアの歴史⑧】

三菱一号館 明治 建築

 

 

こんにちは、しけたむです!

 

この記事では

 

 

  • 「幕末から明治にかけての歴史や世界観が好きだ。」
  • 「歴史は苦手だけど、インテリアコーディネーター資格は取りたい!」

 

 

という人のために

 

明治・大正時代の建築や生活について写真付きで解説していきます。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
近代のインテリアは人物名も、建築の名前も一気にたくさん出てくるにゃ!でも写真を見ながらゆっくり一緒に覚えていきましょうにゃー

 

 

 

 

 

西洋化が一気に進んだ明治時代

明治時代 文明開化出典:Wikiwand

▲3代歌川広重「東京名所之内 銀座通煉瓦造 鉄道馬車往復図」(1882年)

 

 

 

江戸時代は260年も続きましたが、江戸幕府最後の将軍『徳川慶喜(よしのぶ)』

1867年に政権を朝廷にかえし、江戸時代が終わりました。

 

 

 

この江戸幕府が朝廷に政権を返したことを大政奉還(たいせいほうかん)と言います。

 

 

 

 

そして時代は明治へ。

 

 

 

新政府は西洋から新しい文化を積極的に取り入れ、世界に追いつくために

 

 

西洋のものがカッコいい

 

 

と言わんばかりに建築も文化も食事も何もかもを西洋から取り入れて、近代化を目指しました。

 

 

このように制度や習慣が一気に変わったことを文明開化と呼んでいます。

 

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
明治時代になると、ちょんまげや刀、和服が消えて「日本のものがダサく、西洋のものなら何でもカッコいい」という考えが広まっていたんだにゃあー

 

明治時代の代表的な建築と建築家

 

 

建築の分野では、海外から外国人建築家を大勢招き、

 

公共建築や資産家の邸宅などに西洋の技術を本格的に取り入れた

 

洋風建築が数多く建設されました。

 

 

 

グラバー邸

長崎県 グラバー邸出典:スカイチケット

 

 

日本での『住宅における』最初の洋風建築が、1863年長崎県に建築されたグラバー邸です。

 

 

 

幕末に来日した英国商人『トーマス・ブレーク・グラバー』の邸宅で、日本人の大工たちにより建てられました。

 

 

トーマス・ブレーク・グラバー出展:DORIC COLUMNS

▲グラバーは貿易会社『グラバー商会』を長崎で設立。武器の売買、製茶工場建設、炭鉱開発などの様々な事業を行った。

 

グラバー邸 19世紀出展:DORIC COLUMNS

▲建設当時のグラバー邸(1863年)。グラバー邸の周辺エリアにはイギリス人が多く住んでいた為『ブリティッシュヒル』と呼ばれていた。

 

 

 

現存する最古の洋風木造建築で、特徴は扇型の屋根瓦葺きレンガの煙突洋風の大型窓や、アーチ型のドア広く開放的なベランダ、などです。

 

 

グラバー邸出典:Sumally

▲1863年に建築された、日本最古の木造洋館建築。その後増築・改築が行われ、明治中ごろに現在の姿になったとされる。

 

 

 

1957年に一般公開が始まり、その後周辺の洋館建築を集め、現在では一帯をグラバー園として長崎市を代表する観光地となっています。

 

 

 

2015年には『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業』の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録されました。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
グラバー邸の設計者は、日本人なのか外国人なのか、実はよく分かっていないにゃ!建築様式もコロニアル(植民地)様式を取り入れながらも、和風の要素がミックスされた不思議な建築なんですにゃあ〜

 

 

▼コロニアル様式はこちらの記事にてご紹介▼

フェデラル様式 住宅
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ジョサイア・コンドル

ジョサイア・コンドル出展:Japan travel

▲ジョサイア・コンドル(写真中央)と妻のくめ(写真左)と娘のヘレン(写真右)

 

 

1952年、ジョサイア・コンドルはロンドンのケニントンに生まれました。

 

 

コンドルの親戚が建築家であった為、住み込みで建築を習いながらロンドン大学でも建築学について学び、大学卒業後、コンドルが25歳の時に工部大学校(現在の東京大学工学部)の建築学教授として来日し、明治政府関連の重要な建築に数多く携わります。

 

 

 

 

鹿鳴館(後述)を設計後、民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計し、67歳で亡くなるまで日本で暮らし続け、明治以後の日本建築界の基礎を築きました。

 

 

 

辰野金吾(たつのきんご)片山東熊(かたやまとうくま)といった日本を代表する建築家たちもコンドル先生の教え子です。(後述)

 

 

鹿鳴館(ろくめいかん)

鹿鳴館出展:Wikimedia commons

 

 

鹿鳴館はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによって設計され、1883年に現在の東京都千代田区に建築されました。

 

 

 

 

ジョサイア・コンドルは、1880年に鹿鳴館の設計を依頼され、1881年に建築工事が開始されます。

 

 

コンドルは当初、フランスのルネサンス様式のデザインイメージで設計を進めますが、日本建築の要素をデザインに取り入れたいという願望もあったのですが、却下されてしまいます。

 

 

▼ルネサンス様式はこちらの記事にてご紹介▼

https://interior-no-nantalca.com/renaissance-interior/

 

 

 

鹿鳴館の敷地内では松の木石灯籠池を使った庭園だけが唯一和風となりました。

 

 

 

鹿鳴館は国賓や外国人外交官などの接待外国との社交場舞踏会の場として使われましたが、1941年に取り壊されてしまいます。

 

 

鹿鳴館 舞踏会 浮世絵出展:Wikiwand

▲当時の鹿鳴館での舞踏会の様子を描いた浮世絵『貴顕舞踏の略図』(1888年)楊洲周延

 

 

鹿鳴館で舞踏会を催されてはいましたが、当時の日本の政府高官やその夫人でも、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケット、そして舞踏会での踊り方などをよく知っている人はいません

 

 

 

その為、西欧諸国の外交官達はうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、こうした慣れない作法に苦心する日本人を見て「滑稽だ」などと嘲笑していた、と当時の書面や日記に記されています。

 

 

ニコライ堂

ジョサイア・コンドル ニコライ堂 千代田区出典:東京とりっぷ

▲建設当時のニコライ堂(1891年)

 

 

ジョサイア・コンドルが実施設計を担当したニコライ堂は、東京都千代田区に現存する大聖堂です。

 

 

正式名称は『東京復活大聖堂』で、1891年に竣工しました。

 

 

 

日本に教えを広め、この教会を建てたロシア人宣教師、聖ニコライの名から、通称で『ニコライ堂』と呼ばれています。

 

 

 

正面にそびえる鐘楼、白がまぶしい壁、特徴的な石の装飾、緑青の色鮮やかなドームなど、ビザンチン様式の建築として日本最大の大きさを誇ります。

 

 

 

▼ビザンチン様式はこちらの記事にてご紹介▼

イスラム文化 スペイン アルハンブラ宮殿
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1923年、関東大震災で大きな被害を受けましたが、修復を経て現在に至ります。

 

 

ニコライ堂 復活 1929年出展:SHIMZ

▲関東大震災後、1929年に修復が完了した当時のニコライ堂

 

 

 

1962年、国の重要文化財に『日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)』の名で指定されました。

 

 

ニコライ堂出典:フォートラベル

▲補強や修復を繰り返しながら現存するニコライ堂

 

 

三菱一号館(みつびしいちごうかん)

三菱一号館 ジョサイア・コンドル出典:三菱一号館美術館

 

 

 

ジョサイア・コンドルが設計を担当した三菱一号館は、1894年に日本初のオフィスビルとして現在の東京都千代田区丸の内に建設されました。

 

 

煉瓦造り(れんがづくり)の建築物としては当時最大規模で、丸の内は三菱一号館に続いて、次第に赤煉瓦建築が多く立ち並ぶようになります。

 

 

 

しかし煉瓦建築は耐震性に難があった為、関東大震災で大きな被害を受け、さらに追い討ちをかけるかのように第二次世界大戦でも多くの煉瓦建築が破壊、焼失されてしまいました。

 

 

 

戦後はアメリカ式の新しいオフィスビルが立ち並ぶようになり、赤煉瓦の建築はひとつひとつ街から姿を消してゆき、日本初のオフィスビルだった三菱一号館も、老朽化により1968年に解体されました。

 

 

 

現在は三菱地所により、美術館として復元されています。

 

 

三菱一号館 美術館出展:トリップノート

▲2010年に開館した『三菱一号館美術館』

 

 

 

辰野金吾(たつのきんご)

 

辰野金吾出展:佐賀新聞

 

 

辰野金吾は1854年に肥前国(現在の佐賀県)に生まれ、工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生(※1)として入学し、建築について学びました。

(※1:後述の片山東熊は工部大学校の同期にあたる)

 

 

 

1877年に工部大学校の教授に就任したジョサイア・コンドルに師事し、工部大学校を主席で卒業した後、コンドルの卒業校であるロンドン大学へ留学し、さらに建築への造詣を高めます。

 

 

 

帰国後、1886年に辰野建築事務所を設立し、同時にコンドルと同じように工部大学校の教授となり、1902年に退職するまで多くの優れた建築家を養成しました。

 

 

 

 

辰野建築事務所が設計した作品は、東京駅日本銀行を含め、228件にも及び、明治・大正の建築界を席巻した辰野金吾は『日本近代建築の父』とも呼ばれます。

 

 

 

彼の建築は関東大震災でもびくともしないほど頑丈であった為、建築仲間たちからは親しみを込めて『辰野堅固(たつのけんこ)』というニックネームで呼ばれることもありました。

 

 

 

また、辰野が得意とした東京駅に代表されるような赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインは、西洋のヴィクトリアン・ゴシック様式に影響を受けたもので、辰野式建築として知られます。

 

 

明治から大正にかけて多くの建築家がこの辰野式建築を模倣しました。

 

 

 

▼辰野金吾が影響を受けたヴィクトリアン様式とは▼

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東京駅

東京駅 明治時代出展:old Tokyo

 

 

東京駅を建築するにあたり、ドイツから鉄道建設を指導している技術者を呼び寄せ、駅の位置や規模、構内の配置が決められました。

 

 

駅舎は辰野金吾が設計し、レンガと鉄筋を使用した洋風建築として、1914年に開業しました。

 

 

 

辰野は英国留学の経験があるため、ロンドンのターミナル駅を参考にしたとも言われています。

 

 

東京駅 大広間出展:old Tokyo

▲東京駅の大広間(1915年)

 

東京駅 改札口出展:old Tokyo

▲東京駅の改札口(1915年)

 

 

太平洋戦争末期の1945年、東京大空襲では丸の内駅舎の降車口に焼夷弾が着弾し、大火災を引き起こしました。

 

 

これによりレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われました。

 

 

 

しかし、1945年の終戦直後にさっそく修復計画が立案され、1947年に東京駅創建当初のデザインに変更を加えて修復工事が行われました。

 

 

東京駅 1997年出展:Pekeponさん

▲創建当初の姿に変更を加えて修復された東京駅丸の内駅舎(1997年)

 

 

 

2000年には丸の内駅舎を創建当初の姿に復元する方針がまとめられ、500億円をかけて2007年に着工、2012年に完成しました。

 

 

東京駅 現在出展:TABI CHANNEL

▲2012年の復元工事後、現在の東京駅丸の内口駅舎の様子

 

 

日本銀行

日本銀行 出展:日本銀行

▲日本銀行本店を上空から。建物のカタチが『円』となっている。

 

 

日本銀行本店は、辰野金吾の設計で1896年に竣工しました。

 

 

1891年に発生した濃尾地震の教訓から、建物上部を軽量化するために上層階ほど外壁を薄くして軽量化を図り、耐震性を高めています。

 

 

外壁には石材が使用されており、地階と1階には花崗岩、2階以上は安山岩が使用されています。

 

 

1974年に国の重要文化財に指定され、東京の建築遺産50選にも指定されています。

 

 

 

片山東熊(かたやまとうくま)

 

片山東熊

 

 

片山東熊は1854年生まれの山口県を代表する建築家で、辰野金吾と同じ工部大学校の第1期生であり、ジョサイア・コンドルの教え子のひとりです。

 

 

 

彼の代表作である赤坂離宮(旧東宮御所(現・迎賓館)のは、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定されました。

 

 

 

片山東熊は職務として、県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行うなど、精力的に活動しました。

 

 

 

 

ちなみに片山東熊は長州藩士で、戊辰戦争の時には高杉晋作によって組織された奇兵隊に所属していた過去があります。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
赤坂離宮は明治天皇から「贅沢過ぎる」というお叱りがあったほど、豪華で華麗な建築大ったんだにゃ。ちなみに東宮御所(とうぐうごしょ)とは、皇太子のお住まいのことですにゃ〜

 

 

迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所)

赤坂離宮 迎賓館出展:Flicker

 

 

東京の元赤坂にある現在の迎賓館赤坂離宮の建物は、東宮御所として1909年に、片山東熊の設計により建設されました。

 

 

特徴はバロック様式という正面から見るとシンメトリーの外観で、正面玄関の中心性を強調しています。

 

 

▼バロック様式はこちらの記事でご紹介▼

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しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんど無かったようです。

 

 

片山東熊 赤坂離宮出典:ことりっぷ

▲豪華絢爛な正面玄関はフランスのヴェルサイユ宮殿を参考に設計された

 

 

日本が独自の文化を守りながらの西洋化富国強兵に突き進んでいた時代を象徴して、天皇を『武勲の者』という印象を表現するために、正面玄関の真上の屋根飾りや内装の模様などに鎧武者の意匠があるなど、建物全体に日本風の意匠が混じった装飾になっています。

 

 

迎賓館 赤坂離宮 武者出展:The mainichi

▲正面玄関の真上、シンメトリーに配置された鎧武者の装飾

 

 

嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も東宮御所から赤坂離宮と改められました。

 

 

 

戦後になると赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官(1948–60年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用されました。

 

 

 

 

1967年には、国際関係が緊密化して外国の賓客を迎えることが多くなり、またそれまで迎賓館として使用していた旧朝香宮(あさかのみや)邸では手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、赤坂離宮を改修して新しい迎賓館として利用することとなりました。

 

 

 

▼迎賓館として使用されていた『旧朝香宮邸』についてはこちらの記事にて紹介しています▼

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こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、現在の迎賓館が完成します。

 

 

2009年には旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定され、明治以降の文化財としては初の国宝となりました。

 

 

赤坂離宮出典:赤坂経済新聞

▲表敬訪問や首脳会談などの行事が行われている『朝日の間』

 

 

 

擬洋風建築とは?

旧開智学校(きゅうかいちがっこう)

 

擬洋風建築 旧開智学校(きゅうかいちがっこう)出典:北陸・信越観光ナビ

 

 

明治時代、政府が官庁や学校の建築に西洋式のエッセンスをどんどん加えていって

 

伝統的な和風のスタイルに新しい洋風のスタイルをなぞらえた建築が生まれました。

 

 

これを『擬洋風建築(ぎようふうけんちく)』と呼びます。

 

 

 

その代表例が1876年に長野県松本市に建築された、この旧開智学校です。

 

元々は小学校として使用されていましたが、現在は国宝に指定され博物館となっています。

 

 

設計施工は地元出身の大工棟梁、立石清重さんです。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ

とっても勉強熱心な立石さんは旧開智学校の建築の時、横浜に行って洋風建築のデッサンを取って、建築の参考にされたそうだにゃー

 

 

 

明治宮殿(めいじきゅうでん)

 

和洋折衷様式 明治宮殿 外観

和洋折衷様式 明治宮殿 内観出典:探検コム

 

 

 

外観は和風、内装は洋風という和洋折衷様式を取り入れたのは、かつて皇居に存在した『明治宮殿』(1888年竣工)です。

 

 

大日本帝国憲法発布はこの明治宮殿で行われています。

 

 

 

当時はジョサイア・コンドルの設計により石造りの建築として計画されましたが、予算の関係で京都御所を模した和風の外観と洋風の内装を持ちあわせた和洋折衷様式の木造建築となりました。

 

 

1945年5月の空襲により全焼しますが、現在の新宮殿はこの明治宮殿の跡地に1968年に建設されています。

 

新宮殿 長和殿出展:高橋しゅう

▲1968年に建設された新宮殿『長和殿』。皇室の儀式・行事や天皇陛下がご公務をされる場所。

 

 

明治時代の暮らし

明治 横浜 出展:Pinterest

▲1880年の横浜市伊勢佐木町の大通りの様子。手前には『ガス灯』が見える。

 

 

 

明治時代に入ると横浜や銀座には『ガス灯』が灯り、明るく街を照らし始めます。

 

 

文明開化とはいったものの、華麗で華やかな洋風建築が採用されるのは官庁や富豪の邸宅のみ

 

 

庶民の住宅は文明開化だろうが、明治になろうがやっぱりまだまだ民家に住んでいました。

 

 

 

 

また、マッチがこの時期に輸入され、家事がずいぶん楽になったそうです。

 

政府もマッチを国内製造業として奨励し、一大産業に成長しました。

 

明治時代 マッチ工場 神戸出展:神戸な生活

▲神戸のマッチ工場。ベルトコンベアーから流れてくるマッチ箱にラベルを貼る工程。

 

 

 

 

明治時代の後期になってくると、今でいう応接間が都市部の富裕層を中心に見られるようになりました。

 

 

応接間 外交官の家出展:ほしのつぶやき

▲横浜山手地区に建てられた『外交官の家』(1910)のヴィクトリアン様式の応接間

 

 

応接間の登場で家族の生活は和室で、来客用の応接間は洋室で、という

和洋折衷スタイルが浸透しはじめます。

 

 

 

家具については当時ヨーロッパで普及していたヴィクトリアン様式の家具が輸入されたり、国内で模倣して製造されました。

 

 

 

▼ヴィクトリアン様式については『世界のインテリアの歴史』でも紹介しています▼

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また、庶民の食事の場にはちゃぶ台が使用されるようになりました。

 

 

テレビアニメ『サザエさん』で夕食を食べてるシーン分かりますでしょうか?

あのようなイメージです。

 

 

 

それまでの食事方法は一人一膳という家父長制(かふちょうせい)スタイルだったのが、

 

一家団欒(いっかだんらん)スタイルの食事へと変化しました。

 

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
床に座って食事をするスタイルは、令和になった現代でも変わらず見られるにゃ!ちゃぶ台は丸いカタチのものが多く、脚や天板が折り畳み出来るものも多いですにゃー

 

 

大正時代の生活と建築

大正時代 暮らし 生活出展:Japan wonder travel blog

 

 

 

大正時代に入ると、

 

西洋の暮らしに日本も追いつこう!

 

 

と、生活の近代化を目指す動きがあちこちで起こりました。

 

 

 

生活改善運動

生活改善運動 大正時代出展:水戸市大場町

▲火鉢を使った生活からの脱却と、電気を囲んだ団欒の生活を勧める『生活改善展覧会』のポスター

 

 

 

当時流行していた雑誌『婦人の友』や、

 

旧文部省が設立した『生活改善同盟』が

 

 

西洋の衣食住の暮らしぶりや作法などを紹介し、強力に近代化を推進しました。

 

 

 

この近代化推進運動のことを『生活改善運動』といいます。

 

 

大正時代 生活改善運動 1出典:国立科学博物館

▲国立科学博物館の前身である東京教育博物館で開催した『生活改善展覧会』のポスター

 

 

 

今少し文化設備に親しめ』と書かれています。

 

近代的な設備の使い方を覚えましょうね、ということですね。

 

 

大正時代 生活改善運動 2出典:国立科学博物館

▲国立科学博物館の前身である東京教育博物館で開催した『生活改善展覧会』のポスター

 

 

 

家庭の改良は先づ台所設備から』と書かれています。

 

 

今までの炊事場では、かまどや流しも床に置かれていて座って作業をしていました。

 

 

 

大正時代になると、都市部では電気、ガス、水道などの設備が普及し、

 

座り流し』から『立ち流し』へと、台所の改善が進められました。

 

 

 

中廊下型住宅

 

 

住宅の間取りでは、中廊下型住宅の登場が生活改善運動の趣旨を反映しています。

 

 

この住宅は中廊下によって家族の生活空間と、水回り、使用人の生活空間が分けられ、

ここは『応接間』、ここは『子供部屋』、ここは『居間』などの明確な用途の使い分けがされるようになりました。

 

中廊下型住宅 間取り出典:ひかリノベブログ

 

 

しかし仕切りといっても襖が一般的だったので、音も漏れますし、

 

プライバシーがしっかり保たれるようなものではありませんでした。

 

 

 

また、上の間取りのように玄関の脇に独立した洋風の応接間を設ける間取り様式を

 

文化住宅』と呼ばれ、トレンドになりました。

 

 

 

旧帝国ホテル本館

フランク・ロイド・ライト 帝国ホテル出典:日本旅マガジン

▲旧帝国ホテル本館の外観。京都宇治の平等院鳳凰堂がモチーフとなっている。(諸説あり)

 

旧帝国ホテル本館 ライト館出典:花椿

▲旧帝国ホテル本館のロビー。栃木県の大谷石と愛知県常滑の煉瓦とテラコッタが使用されている。

 

 

 

1923年(大正12年)に完成した、旧帝国ホテル本館です。

 

 

20世期を代表する世界的建築家『フランク・ロイド・ライト』が設計したことから

 

ライト館』という通称でも有名です。

 

 

 

▼近代建築の3大巨匠『フランク・ロイド・ライト』についてはこちらで紹介しています▼

落水荘 カウフマン邸
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開業日当日の1923年9月1日に関東大震災に見舞われましたが、災害も乗り越え、

 

大正から昭和にかけて社交の中心としてジャズやダンス、

 

演劇などのエンターテイメント文化の発信地となり、

 

多くの海外からの来賓にも利用されました。

 

 

 

ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム式暖房を採用し、

 

鉄筋コンクリート造で耐震防火にも配慮するなどの最新鋭の設備を誇っていました。

 

(ちなみに関東大震災でも全壊を免れています。)

 

 

大谷石(栃木県宇都宮市のもの)とレンガテラコッタ(愛知県常滑市のもの)が多用され、横に伸びる水平のラインを強調したデザイン(プレイリースタイルとなっています。

 

 

 

また、ロビーの柱に使用されている大谷石には幾何学模様の彫刻が施されています。

 

 

旧帝国ホテル本館 ライト館出典:LIXIL文化部

▲テラコッタと大谷石を組み合わせた柱『光の籠柱(かごばしら)』。内部が照明になっている。

 

 

帝国ホテル スクラッチタイル ライト出典:LIXIL文化部

▲縦に細い溝の模様がつけられた黄色いスクラッチタイル(スダレ煉瓦)。愛知県常滑市にて製造。

 

 

 

 

テラコッタはイタリア語で『焼いた土』を意味する言葉で、オレンジ色をした焼き物です。

 

 

陶器や植物の鉢にも使われますし、タイル状にして建築材料としても使われています。

 

 

テラコッタ出典:HORTI /テラコッタ

 

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
大正11年の7月、ライト館の完成前にライトは帰ってしまったんにゃ!でも一番弟子の遠藤新(えんどうあらた)さんの指導の元、完成に至りましたんにゃ!

 

 

 

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お疲れ様でした。

 

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

わからないことや分かりにくい箇所があれば、ぜひお問い合わせよりご連絡ください!

 

 

次回もお楽しみに!

 

 

 

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