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【明治〜大正時代のインテリア・前編】明治時代の建築家と代表作品とは?擬洋風建築も画像でまとめて解説します【日本のインテリアの歴史⑧】

グラバー邸 長崎

 

 

こんにちは、しけたむです!

 

この記事では

 

 

  • 「幕末から明治にかけての歴史や世界観が好きだ。」
  • 「歴史は苦手だけど、インテリアコーディネーター資格は取りたい!」

 

 

という人のために

 

明治時代の建築や代表作、擬似洋風建築について写真付きで解説していきます。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
近代のインテリアは人物名も、建築の名前も一気にたくさん出てくるにゃ!とりあえず写真を見ながらゆっくり一緒に覚えていきますにゃあ〜

 

 

 

 

 

西洋化が一気に進んだ明治時代

明治時代 文明開化出典:Wikiwand

▲三代歌川広重「東京名所之内 銀座通煉瓦造 鉄道馬車往復図」(1882年)

 

 

 

江戸時代は約260年も続きましたが、江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜(よしのぶ)」

1867年に政権を朝廷にかえし、江戸時代が終わりました。

 

 

 

 

この江戸幕府が朝廷に政権を返したことを大政奉還(たいせいほうかん)と言います。

 

 

 

 

そして時代は明治へ。

 

 

 

 

 

新政府は西洋から新しい文化を積極的に取り入れ、世界に追いつくために

 

 

「西洋のものがなんかカッコいいぞ」

 

 

と言わんばかりに建築も文化も食事も何もかもを西洋から取り入れて、近代化を目指しました。

 

 

 

 

 

このように制度や習慣が一気に変わったことを文明開化と呼んでいます。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
明治時代になると、ちょんまげや刀、和服が消えて「日本のものがダサく、西洋のものなら何でもカッコいい」という考えが広まっていったんですにゃあ〜

 

 

明治時代の代表的な建築と建築家

明治時代 江戸橋出典:Japaaan

▲明治7(1874)年竣工の日本初の郵便局『江戸橋郵便局』。日本従来の木造建築に西洋建築の技巧を加えた建物で、横浜居留地の外国人から建築を学んだ日本人の建築家が設計した。

 

 

 

建築の分野では、海外から外国人建築家を大勢招き

 

公共建築や資産家の邸宅などに西洋の技術を本格的に取り入れた

 

洋風建築や、日本建築に洋風建築のエッセンスを加えた

 

擬洋風建築が数多く建設されました。

 

 

 

グラバー邸

長崎県 グラバー邸出典:スカイチケット

 

 

日本での住宅』における最初の洋風木造建築

1863年長崎県の南山手町に建築されたグラバー邸です。

 

 

 

 

 

幕末に来日した英国商人『トーマス・ブレーク・グラバー』の邸宅で、日本人の大工たちにより建てられました。

トーマス・ブレーク・グラバー出展:DORIC COLUMNS

▲グラバーは貿易会社『グラバー商会』を長崎で設立。武器の売買、製茶工場建設、炭鉱開発などの様々な事業を行った。フリーメーソンの一員というのは有名なはなし。

 

 

グラバー邸 19世紀出展:DORIC COLUMNS

▲建設当時のグラバー邸(1863年)。グラバー邸の周辺エリアにはイギリス人が多く住んでいた為『ブリティッシュヒル』と呼ばれていた。

 

 

 

現存する最古の洋風木造建築で、特徴は扇型の屋根瓦葺きレンガの煙突洋風の大型窓や、アーチ型のドア広く開放的なベランダ、などです。

グラバー邸 長崎▲特徴的な煉瓦造りの煙突と弓形に張り出した白い窓が特徴的な外観

 

グラバー邸出典:Sumally

▲1863年に建築された、日本最古の木造洋館建築。その後増築・改築が行われ、明治中ごろに現在の姿になったとされる。

 

 

1957年に一般公開が始まり、その後周辺の洋館建築を集め、現在では一帯をグラバー園として長崎市を代表する観光地となっています。

 

 

 

 

2015年には『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業』の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録されました。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
グラバー邸の設計者は、日本人なのか外国人なのか、実はよく分かっていないにゃ!建築様式もコロニアル(植民地)様式を取り入れながらも、和風の要素がミックスされた不思議な建築なんですにゃあ〜

 

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ジョサイア・コンドル

ジョサイア・コンドル出展:Japan travel

▲ジョサイア・コンドル(写真中央)と妻のくめ(写真左)と娘のヘレン(写真右)

 

 

1952年、ジョサイア・コンドルはロンドンのケニントンに生まれました。

 

 

 

 

ジョサイア・コンドルの親戚が建築家であった為、住み込みで建築を習いながらロンドン大学でも建築学について学び、大学卒業後、コンドルが25歳の時に工部大学校(現在の東京大学工学部)の建築学教授として来日し、明治政府関連の重要な建築に数多く携わります。

 

 

 

 

 

鹿鳴館(後述)を設計後、民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計。67歳で亡くなるまで日本で暮らし続け、明治以後の日本建築界の基礎を築きました。

 

 

 

 

辰野金吾(たつのきんご)片山東熊(かたやまとうくま)といった日本を代表する建築家たちもコンドル先生の教え子です。(後述)

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ジョサイア・コンドルは「コンドル先生」と呼ばれて慕われていたという記録が残っていますんにゃ。コンドル先生の建築作品をご紹介いたしますにゃあ〜

 

 

鹿鳴館(ろくめいかん)

鹿鳴館出展:Wikimedia commons

 

鹿鳴館はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによって設計され、1883年に現在の東京都千代田区に建築されました。

 

 

 

 

ジョサイア・コンドルは1880年に鹿鳴館の設計を依頼され、1881年に建築工事が開始されます。

 

 

 

コンドルは当初、フランスのルネサンス様式のデザインイメージで設計を進めますが、日本建築の要素をデザインに取り入れたいという願望もあったのですが、却下されてしまいます。

 

 

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鹿鳴館の敷地内では松の木石灯籠池を使った庭園だけが唯一和風となりました。

 

 

 

 

鹿鳴館は国賓や外国人外交官などの接待外国との社交場舞踏会の場として使われましたが、1941年に取り壊されてしまいます。

鹿鳴館 舞踏会 浮世絵出展:Wikiwand

▲当時の鹿鳴館での舞踏会の様子を描いた浮世絵『貴顕舞踏の略図』(1888年)楊洲周延

 

 

鹿鳴館で舞踏会を催されてはいましたが、当時の日本の政府高官やその夫人でも、じつは西欧式舞踏会におけるマナーやエチケット、そして舞踏会での踊り方などを詳しく知っている人はほとんどいませんでした

 

 

 

 

その為、西欧諸国の外交官達はうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、こうした慣れない作法に苦心する日本人を見て「滑稽だ」などと嘲笑していた、と当時の書面や日記に記されています。

 

 

 

ニコライ堂

ジョサイア・コンドル ニコライ堂 千代田区出典:東京とりっぷ

▲建設当時のニコライ堂(1891年)

 

 

ニコライ堂とは1891年にジョサイア・コンドルによって設計された東京都千代田区に現存する大聖堂で、正式名称は『東京復活大聖堂』といいます。

 

 

 

 

日本に布教活動を行ったロシア人宣教師「聖ニコライ」の名から、通称でニコライ堂と呼ばれています。

 

 

 

 

正面にそびえる鐘楼、白くてまぶしい壁、特徴的な石の装飾、緑青の色鮮やかなドームなど、ビザンチン様式の建築として日本最大の大きさを誇ります。

 

 

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1923年、関東大震災で大きな被害を受けましたが、修復を経て現在に至ります。

ニコライ堂 復活 1929年出展:SHIMZ

▲関東大震災後、1929年に修復が完了した当時のニコライ堂

 

 

1962年、国の重要文化財に『日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)』の名で指定されました。

ニコライ堂出典:フォートラベル

▲補強や修復を繰り返しながら現存するニコライ堂

 

 

三菱一号館(みつびしいちごうかん)

三菱一号館 ジョサイア・コンドル出典:三菱一号館美術館

 

 

ジョサイア・コンドルが設計を担当した三菱一号館は、1894年に日本初のオフィスビルとして現在の東京都千代田区丸の内に建設されました。

 

 

 

 

煉瓦造り(れんがづくり)の建築物としては当時最大規模で、丸の内は三菱一号館に続いて、次第に赤煉瓦建築が多く立ち並ぶようになります。

 

 

 

 

しかし煉瓦建築は耐震性に難があった為、関東大震災で大きな被害を受け、さらに追い討ちをかけるかのように第二次世界大戦でも多くの煉瓦建築が破壊、焼失されてしまいました。

 

 

 

 

戦後はアメリカ式の新しいオフィスビルが立ち並ぶようになり、赤煉瓦の建築はひとつひとつ街から姿を消してゆき、日本初のオフィスビルだった三菱一号館も、老朽化により1968年に解体されました。

 

 

 

 

現在は三菱地所により、美術館として復元されています。

三菱一号館 美術館出展:トリップノート

▲2010年に開館した『三菱一号館美術館』

 

 

 

辰野金吾(たつのきんご)

辰野金吾出展:佐賀新聞

 

 

辰野金吾は1854年に肥前国(現在の佐賀県)に生まれ、工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生(※1)として入学し、建築について学びました。

(※1:後述の片山東熊は工部大学校の同期にあたる)

 

 

 

 

1877年に工部大学校の教授に就任したジョサイア・コンドルに師事し、工部大学校を主席で卒業した後、コンドルの卒業校であるロンドン大学へ留学し、さらに建築の研究を続けます。

 

 

 

 

帰国後、1886年に辰野建築事務所を設立し、同時にコンドルと同じように工部大学校の教授となり、1902年に退職するまで多くの優れた建築家を育成しました。

 

 

 

 

辰野建築事務所が設計した作品は、東京駅日本銀行を含め、228件にも及び、明治・大正の建築界を席巻した辰野金吾は『日本近代建築の父』とも呼ばれます。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
辰野金吾さんの建築は、関東大震災でもびくともしないほど頑丈だったにゃ。だから建築仲間たちから親しみを込めて「辰野堅固(たつのけんこ)さん」っていうニックネームで呼ばれていたんだにゃあ〜

 

 

 

また、辰野が得意とした東京駅に代表されるような赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインは、西洋のヴィクトリアン・ゴシック様式に影響を受けたもので、辰野式建築として知られます。

東京駅 辰野金吾出典:週刊Car&レジャー

▲1910年代後半の東京駅前の様子。東京駅の赤煉瓦と白い石のコンビネーションが『辰野式建築』

 

 

明治から大正にかけて、多くの建築家がこの辰野式建築を模倣しました。

 

 

▼辰野金吾が影響を受けたヴィクトリアン様式とは▼

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東京駅

東京駅 明治時代出展:old Tokyo

 

東京駅を建築するにあたりドイツから鉄道建設を指導している技術者を呼び寄せ、駅の位置や規模、構内の配置が決められました。

 

 

 

 

駅舎は辰野金吾が設計し、レンガと鉄筋を使用した洋風建築として1908年に建設が開始され、6年後の1914年に開業しました。

 

 

 

 

 

辰野は英国留学の経験があるため、東京駅のデザインはロンドンのターミナル駅を参考にしたとも言われています。

東京駅 大広間出展:old Tokyo

▲東京駅の大広間(1915年)

 

東京駅 改札口出展:old Tokyo

▲東京駅の改札口(1915年)

 

 

太平洋戦争末期の1945年、東京大空襲では丸の内駅舎の降車口に焼夷弾が着弾し、大火災を引き起こします。

 

 

 

 

この火災により、レンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われてしまいました。

 

 

 

 

 

しかし、1945年の終戦直後にさっそく修復計画が立案されると、1947年に東京駅創建当初のデザインに変更を加えて修復工事が行われました。

 

 

 

 

戦後のため修復工事にかける予算がほとんど無く、当初のデザインと比べるとドームも無くなりかなり簡易型のデザインとなっています。

東京駅 1997年出展:Pekeponさん

▲創建当初の姿に変更を加えて修復された東京駅丸の内駅舎(1997年)

 

 

 

2000年には丸の内駅舎を創建当初の姿に復元する方針がまとめられ、500億円をかけて2007年に着工、2012年に完成しました。

東京駅 現在出展:TABI CHANNEL

▲2012年の復元工事後、現在の東京駅丸の内口駅舎の様子

 

 

日本銀行

日本銀行 出展:日本銀行

▲日本銀行本店を上空から見ると、建物のカタチが『円』となっている

 

 

日本銀行本店は、辰野金吾の設計で1896年に竣工しました。

 

 

 

1891年に岐阜県で発生した濃尾地震の教訓から、建物上部を軽量化するために上層階ほど外壁を薄くして軽量化を図り、耐震性を高めています。

 

 

 

 

 

外壁には石材が使用されており、地階と1階には花崗岩(かこうがん)、2階以上は安山岩(あんざんがん)が使い分けられるというデザインの工夫がされました。

日本銀行 本店 花崗岩 安山岩出典:掌の風景

▲1階の花崗岩は2階の安山岩よりやや重く、建物上部を軽量化するための貼り分けでもある。

 

 

日本銀行本店は1974年に国の重要文化財に指定され、東京の建築遺産50選にも指定されています。

 

 

 

片山東熊(かたやまとうくま)

片山東熊

 

片山東熊とは1854年生まれの山口県出身の建築家で、辰野金吾と同じ工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)の第1期生であり、ジョサイア・コンドルの教え子のひとりです。

 

 

 

 

 

彼の代表作である赤坂離宮(旧東宮御所(現・迎賓館)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定されました。

 

 

 

 

 

片山東熊は職務として、県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行うなど、精力的に活動しました。

 

 

 

 

 

ちなみに片山東熊は長州藩士で、戊辰戦争の時には高杉晋作によって組織された『奇兵隊』と呼ばれる戦闘部隊に所属していた過去があります。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
赤坂離宮は明治天皇から「ちょっと贅沢過ぎるぞ」というお叱りがあったほど、豪華で華麗な建築だったんですにゃ。ちなみに東宮御所(とうぐうごしょ)とは、皇太子のお住まいのことですにゃ〜

 

 

迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所)

赤坂離宮 迎賓館出展:Flicker

 

 

東京の元赤坂にある迎賓館(げいひんかん)赤坂離宮は、東宮御所(とうぐうごしょ)として1909年に、片山東熊の設計により建設されました。

 

 

 

 

 

絵画のような華やかさを特徴とするネオ・バロック様式と呼ばれる建築様式を採用し、シンメトリーとなった外観で正面玄関の中心性を強調しています。

 

 

▼バロック様式はこちらの記事でご紹介▼

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国家としての威厳や貫禄を世界に示すため、諸外国の王宮に負けじと建築期間は10年以上に及び、建築費用は現在の価値で500億円を超えたといわれています。

 

 

 

 

 

当初の建築予算の約2倍となってしまった理由の一つに、欧米トップクラスの装飾品や家具調度品などを輸入し完璧な建築物を実現したことが挙げられます。

東宮御所 赤阪 室内 調度品出典:ココログ

▲豪華絢爛な室内装飾と家具。大鏡の下に置かれている家具はフランスのヴェルサイユ宮殿所蔵の家具と酷似している。

 

ヴェルサイユ宮殿 フランス出典:ココログ

▲フランスの家具作家Reisnerが1780年代にベルサイユ宮殿に納品されたもの。赤坂離宮とヴェルサイユ宮殿の家具を同じ作家が制作したものかどうかは不明。

 

 

 

また日本が独自の文化を守りながらの西洋化富国強兵に突き進んでいた時代を象徴して、天皇を『武勲の者』という印象を表現するために、正面玄関の真上の屋根飾りや内装の模様などに鎧武者の意匠があるなど、建物全体に日本風の意匠が混じった装飾になっています。

迎賓館 赤坂離宮 武者出展:The mainichi

▲正面玄関の真上、シンメトリーに配置された鎧武者の装飾

 

 

 

しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんど無かったようです。

片山東熊 赤坂離宮出典:ことりっぷ

▲豪華絢爛な正面玄関はフランスのヴェルサイユ宮殿を参考に設計された

 

 

嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮(皇居や王宮とは離れて設けられた宮殿のこと)として扱われることとなり、その名称も東宮御所から赤坂離宮と改められました。

 

 

 

 

 

戦後になると赤坂離宮の敷地や建物は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官(1948–60年)、裁判官弾劾裁判所(1948–70年)、内閣憲法調査会(1956-60年)、東京オリンピック組織委員会(1961–65年)などに使用されます。

 

 

 

 

 

1967年には外国からのお客様を迎えることが多くなり、またそれまで迎賓館として使用していた旧朝香宮(あさかのみや)邸では手狭で随行員が同宿できないといった支障があったため、赤坂離宮を改修して新しい迎賓館として利用することとなりました。

朝香宮邸(現在の都立庭園美術館)出典:Wikipedia

▲迎賓館として使用されていた『旧朝香宮邸』は、もともとは昭和天皇の皇后様の叔父である鳩彦王(やすひこおう)の私邸として1933年に建てられた。現在も内部の見学可能!

 

 

▼手狭となってしまった『旧朝香宮邸』くわしくはこちらにて▼

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こうして5年の歳月と108億円(工費101億円、内装費7億円)をかけて、現在の迎賓館が完成したのでした。

 

 

 

 

 

2009年には旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)として国宝に指定され、明治以降の文化財としては初の国宝となりました。

赤坂離宮出典:赤坂経済新聞

▲表敬訪問や首脳会談などの行事が行われている『朝日の間』

 

 

 

擬洋風建築とは?

擬洋風建築出典:日本の美術 No.446 25ページ(オリジナルはThe Far East掲載の写真)

▲ 幕末の日本にやってきた外国人商人たちは海外で慣れ親しんだ生活様式を営もうと外国人居留地でもベランダのある建築を日本人大工に希望した。周辺で入手できる材料で建設したため、大きな瓦葺き屋根にベランダのある異様な建物が出現した。『フランス軍駐屯所』(1864年)

 

 

 

擬洋風(ぎようふう)建築とは、幕末から明治時代にかけて政府が官庁や公共建築を中心に欧米風のエッセンス(ときには中国風のエッセンスも)をどんどん加えて、伝統的な和風のスタイルに新しい洋風のスタイルをミックスした建築のことです。

 

 

 

 

 

日本人の大工が見よう見まねで設計・施工したことと、そもそも洋風建築で必要な材料の確保が日本では難しかったので完璧な洋風建築のコピーとまではいかず、明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は明治10年前後にピークを迎え、明治20年以降には消滅していて、その時期は文明開化とちょうど重なっています。

擬洋風建築 築地ホテル館出典:日本の美術 No.446 29ページ(オリジナルはThe Far East掲載の写真)

▲日本人の大工がアメリカ人建築技師に西洋建築を学んで建築した築地ホテル館』(1868年) 旧幕府時代に計画された外国人向けホテルで全面に瓦を貼った「なまこ壁」を張り巡らし、中央に三重の塔塔が設けられた。擬洋風建築の始点となったこの建物は、たちまち東京の新名所となった。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
日本を代表するような迎賓館や造幣局などの重要な施設はお雇い外国人(ジョサイア・コンドルなど)によって本格的な洋風建築として設計されたにゃ!でも外国人に払う設計料も高額だったから、マイナーな官庁舎や地方の施設は日本人大工さんが頑張って洋風を真似して建てたんですにゃあ〜

 

 

旧開智学校(きゅうかいちがっこう)

擬洋風建築 旧開智学校(きゅうかいちがっこう)出典:北陸・信越観光ナビ

 

旧開智学校(きゅうかいちがっこう)とは、1876年(明治9年)に長野県松本市に建てられ、その後同市内の開智に移築された明治時代初期の擬洋風建築の木造校舎です。

 

 

 

 

 

文明開化時代の小学校建築を代表する建物として広く知られていて、2019年に近代の学校建築としては初めて国宝に指定されました。

旧開智学校 近影出典:toremorの旅手帳

▲旧開智学校の近影。中華風味が漂う異形の外観をしているが、近代学校建築としてはじめての国宝。

 

 

旧開智学校は木造2階建、屋根は瓦が敷かれた寄棟造、外壁には漆喰が塗られていて、建物正面玄関には龍や雲の彫刻がはめこまれています。

 

 

 

 

破風下には2体のこどもの天使のようなものが「開智学校」の看板を掲げていて、このような彫刻は室内に至る所にあり、目立つ場所には高価な輸入品の色ガラスが使われていました。

旧開智学校 室内出典:信州上諏訪温泉浜の湯

▲室内の洋風の照明周りにはめ込まれた彫刻と、窓には色ガラスがある。計2500枚の色ガラスが使用された校舎は「ギヤマン学校」の愛称で呼ばれた。

 

 

設計・施工は地元出身の大工棟梁、立石清重さんという方で、仕事熱心な立石さんは旧開智学校の建築の際に、わざわざ横浜にでかけて洋風建築の手書きデッサンをメモに取って旧開智学校の設計・施工の参考にしました。

立石 メモ 旧開智学校出典:Wikimedia Commons

▲現存する立石清重のスケッチメモ。当時の建築の様子を伝えるものとして非常に貴重な資料。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
擬洋風建築は棟梁が横浜に見学に出かけたという伝えが残っていてもただの噂で証拠が残っていない、ということが多いにゃ!でも立石さんは横浜のメモスケッチ集がしっかり残ってて、どの建物を参考にしたかが分かってるってことでも旧開智学校は擬洋風建築の中でも重要な存在なんですにゃあ〜

 

 

 

明治宮殿(めいじきゅうでん)

和洋折衷様式 明治宮殿 外観出典:探検コム

▲ 明治宮殿正殿(謁見所)

 

外観は和風、内装は洋風という和洋折衷様式を取り入れたのは、かつて皇居に存在した明治宮殿(1888年竣工)です。

 

 

 

 

 

大日本帝国憲法発布はこの明治宮殿で行われています。

大日本帝国憲法 発布出典:日本史語呂合わせの教科書

▲1889年(明治22年)2月11日、明治宮殿で発布された大日本帝国憲法

 

和洋折衷様式 明治宮殿 内観出典:探検コム

▲ 大日本帝国憲法が発布された明治宮殿正殿(謁見所)の広さはなんと160畳!

 

 

当時はジョサイア・コンドルの設計により石造りの建築として計画されましたが、予算の関係で京都御所を模した和風の外観と洋風の内装を持ちあわせた和洋折衷様式の木造建築となりました。

明治宮殿出典:Wikimedia Commons

▲明治宮殿の豊明殿は食事をとる場所。天井は折り上げ格天井となっていて、カラー写真は残っていないが極彩色に塗られていた。

 

 

ジョサイア・コンドルの石造り案が却下され、明治宮殿そのものの設計は終戦まで皇室建築の造営や維持・管理を受け持った内匠寮(ないしょうりょう・たくみりょう)という部局が行うことになります。

 

 

 

 

この内匠寮にいたのがコンドルの弟子である片山東熊で、彼は明治宮殿の装飾を調査するために1886年から1887年までドイツ出張を行なって、帰国後は内匠寮のトップまで上りつめました。

 

 

 

 

明治宮殿は1945年5月の空襲により全焼してしまいますが、現在の新宮殿はこの明治宮殿の跡地に1968年に建設されています。

新宮殿 長和殿出展:高橋しゅう

▲1968年に建設された新宮殿『長和殿』。皇室の儀式・行事や天皇陛下がご公務をされる場所。

 

 

▼新宮殿の基本設計を担当した建築家「吉村順三」はこちら▼

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お疲れ様でした。

 

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

わからないことや分かりにくい箇所があれば、ぜひお問い合わせよりご連絡ください!

 

 

次回、明治・大正時代の後編もお楽しみに!

 

 

 

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