こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「城郭建築が好きで、観光地ではつい立ち寄ってしまう。」
- 「狩野永徳を知っています。名前だけは。」
という方に向けて
将軍の邸宅、城郭建築のインテリア、そして狩野派を画像付きで解説していきます。
将軍の邸宅
足利義満の邸宅
▲鎌倉時代、金閣寺が建っている土地には西園寺という寺院と山荘があった
鎌倉時代から室町時代の将軍の邸宅は、貴族たちが所有していた領地や邸宅を受け継いで住まうことがありました。
現在の鹿苑寺(金閣寺)の建っている土地は、鎌倉時代の1224年頃には藤原公経(ふじわらのきんつね)という貴族の土地で、西園寺(さいおんじ)という寺院を建立し、山荘(北山第:きたやまだい)を営んでいました。
しかし西園寺公経(藤原公経が西園寺建立後、改名)は、後醍醐天皇暗殺の疑いで領地を全部没収された上で処刑されてしまい、その後の1397年に室町幕府の3代将軍足利義満が譲り受けました。
出典:Exhibition Kyushu National museum
▲足利義満は北山山荘(後の鹿苑寺)に金閣寺を建立し、優美で華やかな北山文化を開花させた
足利義満は手に入れたこの土地で改築と新築を行い、北山山荘(北山殿、北山第)という別荘を造り上げます。
北山山荘の規模は御所(足利家の邸宅)に匹敵し、政治中枢のすべてが集約され、公的な行事の場として用いる寝殿のほかに、日常生活に使用される様々な部屋が充実していました。
1399年には、金閣寺の初代建物(※)が完成したと推定されます。
(※当時の金閣寺は火事により焼失、現在の金閣寺は1955年に再建)
この北山山荘は足利義満の死後、遺言により禅寺(禅宗のお寺)とされ、義満の法号(戒名)「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられ、現在に至ります。
足利義政の邸宅
▲足利義政が金閣を模して造営した銀閣
室町幕府の8代将軍足利義政は、1482年より京都の東山に東山山荘(東山殿:ひがしやまどの)の造営を初めました。
東山山荘は義政の別荘であり、造営工事は義政の死の直前まで8年にもわたって続けられました。
義政自身は東山山荘の完成を待ちきれず、工事開始の翌年である1483年には東山山荘の敷地内に移り住み、書画や茶の湯に親しみながら、風流な隠遁生活を送っていました。
▲義政は北山文化を受け継ぎ、禅宗の影響をより強く受けた簡素で洗練された深みのある東山文化を開花させた
東山山荘の敷地内には大規模な建物(※)が建ち並び、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山山荘ほどではないですが、ある程度政治的機能も持っていました。
(※現存する当時の建物は、観音堂である銀閣と東求堂のみ。)
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1490年、死去した義政を弔うため東山山荘を禅寺に改め、義政の院号(戒名)である『慈照院殿』にちなみ、東山山荘は銀閣寺として有名な『慈照寺』と名付けられました。
なお、この慈照寺の造営自体が完了したのは義政死去後のことでした。
城郭(じょうかく)
代表的な城郭建築
出典:フォートラベル
▲織田信長が滋賀県に築いた『安土城』(1576年)
城郭とは、いわゆる『城』のことです。
そして城は、敵を防ぐために土や石で堅固に築いた建物や設備のことを指します。
多くの城郭が建築された安土・桃山時代は、ポルトガルやスペインとの貿易が始まった時期で、西洋文化から大きな刺激を受けた時代でもあり、代表的な城郭建築として、かの有名な織田信長が現在の滋賀県近江八幡市に築いた安土城があります。
出典:Medium
▲1992年のスペイン万博にて展示された『安土城天主』。最上部の5階6階を原寸大で復元した。
安土城は1576年に築城し、地下1階地上6階建て、天主の高さが約32メートルもあり、本格的な天守閣(てんしゅかく)(※)を持つ、極めて独創的なデザインの城郭建築でした。
※天守閣とは
城郭の中心にある建物『本丸』の高層にある櫓 (やぐら)のこと。
単に「天守」とも言う。
・接見(せっけん:偉い人同士で会う)
・物見(ものみ:遠くを見渡す)
・貯蔵(ちょぞう:食糧や武具の保管)
という機能がある。
他にも天守閣を持つ城郭として、大阪城、姫路城、伏見城などがあります。
▲1583年に築城された『大阪城』。現在の大阪城は江戸時代に再建されたもの。
▲1346年に築城された『姫路城』。『白鷺城(はくろじょう)』とも呼ばれ、当時の天守と櫓が現存している。
▲1592年に築城された『伏見城』。1619年に廃城後、天守は二条城に、その他の建物部分も解体され全国各地の城に吸収された。現在の伏見城は「伏見桃山城キャッスルランド」に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守。
これらの城内には書院造が用いられることが多く、その内部は金銀の箔を用いた狩野派(かのうは)の障壁画や、欄間や扉の蒔絵や鋳金金具などによって、豪壮、華麗な装飾が隙間なく施されていました。
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狩野派
出典:THE MET
▲室町時代の絵師 狩野元信の『琴棋書画図屏風』(16世紀中期)
狩野派(かのうは)とは日本絵画史上最大の画派で、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった画家のプロ集団です。
親や兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも稀であり類を見ないものでした。
狩野正信(かのうまさのぶ)
出典:Ohmi Gallery
▲狩野正信の1400年ごろの作品。無題であった為、オークションの際に『Birds,Trees,Flowers』と付けられた。
狩野派はまず、室町幕府の御用絵師となった狩野正信(かのうまさのぶ)(1434? – 1530)を始祖とします。
狩野正信は、水墨画を中心とする漢画(中国絵画)と大和絵(日本画)を使い分け、その現実的で平明な画風が好まれて、狩野派の基礎を築きました。
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狩野元信(かのうもとのぶ)
出典:世界の歴史まっぷ
▲狩野元信の『大仙院花鳥図』
狩野元信(かのうもとのぶ)(1476 – 1559)は室町時代の絵師で、狩野正信の子です。
父である正信の画風を継承するとともに、漢画(中国の絵画)の画法を整理しつつ大和絵(日本の絵画)の技法を取り入れ、書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立しました。
狩野永徳(かのうえいとく)
▲狩野永徳の『唐獅子図』
狩野永徳(かのうえいとく)(1543 – 1590)は安土桃山時代の絵師で、狩野元信の孫にあたります。
狩野永徳は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕えて、安土城や大坂城の障壁画を制作しました。
華麗でダイナミックな表現様式により、狩野派の黄金期をもたらした日本美術史上もっとも著名な画人の1人です。
狩野探幽(かのうたんゆう)
▲狩野探幽の『桐鳳凰図屛風(きりほうおうずびょうぶ)』は枠に対して余白が多く取られている。
狩野探幽(かのうたんゆう)(1602年 – 1674年)は江戸時代初期に活躍した絵師で、狩野永徳の孫にあたります。
京都から江戸に本拠を移し、江戸城、二条城などの障壁画制作を指揮しました。
狩野探幽の作風は、若い頃は祖父である永徳風の豪壮な画風でしたが、次第に水墨画などを主体とするようになり、枠を意識し余白をたっぷりと取った画風を生み出しました。
ナンタルカのまとめ
■将軍の邸宅
(1)鎌倉時代から室町時代の将軍の邸宅は、在来の貴族のものを受け継ぐところが多かった。足利義満の(①)では、公的な行事の場としても日常生活の場としても使用され、のちに(②)となり、金閣寺と呼ばれている。
(2)足利義政が室町時代に建てた(①)は、のちに(②)となり、最古の座敷飾りをもつ東求堂同仁斎は国宝に指定されている。
■城郭建築
この時代の代表的な城郭建築に織田信長が築いた(①)がある。この城郭の中心にある本丸の高層には(②)を備えていて、他にも大阪城、姫路城、伏見城にも(②)がある。
■狩野派
(①)は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、安土城や大坂城の『唐獅子図』に代表される様なダイナミックな作品を制作するなど、狩野派の黄金期をもたらした。
お疲れ様でした。
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次回もお楽しみに!
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