こんにちは、しけたむです!
この記事では
- 「ロマネスクについて何もわからないから、さくっと概要だけ知りたい。」
- 「そもそもロマネスクって、ローマとどんな関係があるの?」
という皆様へ向けて
ロマネスクの建築や装飾の特徴について画像で解説します。
ロマネスク文化
ロマネスクの起こり
▲ゲルマン人によるローマ略奪(455年頃の様子)『Distruzione』(1836)
4世期末の395年、キリスト教を採用した強大なローマ帝国は東西に分裂(※)し、東ローマ帝国と西ローマ帝国が誕生しました。
(※ゲルマン人という北ヨーロッパから来た民族が、フン族という中国方面から来た強敵に追われてローマ帝国の領土内に逃げ込んできて大混乱に陥った為。これを『ゲルマン人の大移動』という。)
出典:旅をする記
▲分裂したローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂。それぞれの位置は大体このあたり。
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とにかくめちゃくちゃに強くてゲルマン民族が手も足も出なかった最強の民族『フン族』。
なんとか逃げてきたゲルマン人たちは、ローマ帝国の領土内に入り大規模な略奪を行うなどしたため、ローマ皇帝は帝国の領土内にゲルマン人たちの国をつくることを認めざるを得なくなりました。
▲フン族を描いた19世期の歴史画。フン族は中国の「秦の始皇帝」を苦しめて『万里の長城』建設のきっかけとなった匈奴(きょうど)の子孫とする説がある。
これによりゲルマン人たちはローマ帝国内のそれぞれの場所に自分たちの国を建てたのですが、彼らが建国した場所はほとんど西ローマ帝国の領土内でしたwww
出典:旅をする記
▲逆に東ローマ帝国の領土はほとんど影響を受けなかった為、その後1000年以上繁栄した
476年、混乱に陥った西ローマ帝国は弱体化し、ゲルマン民族出身の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国は滅ぼされ、このオドアケルがイタリア王となりました。
▲西ローマ帝国に住んでいた人の多くは奴隷として売り飛ばされたり、強姦、虐殺された。破壊を逃れた建築は教会関係の施設だけだった。『ゲルマン民族によるローマ略奪』(455年)
東ローマ帝国が無事だった舞台裏ですが、東ローマ帝国は「軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止めていた」ということは当然あるのですが、実はいくつかのゲルマン部族に対して「西ローマ帝国へ行くように計らっていた」のでした。
こうして西ローマ帝国の消滅後、東ローマ帝国の皇帝が「唯一のローマ皇帝」として東西含む全ローマ帝国の統治権を握りました。
出典:たびこふれ
▲ゲルマン民族によって滅ぼされた西ローマ帝国の遺構は19世紀に発掘され、現在は『フォロ・ロマーノ』と呼ばれローマの有名な観光地となっている。
ゲルマン民族による西ローマ帝国の滅亡後、ローマ帝国でキリスト教が公認されるとキリスト教会は支配力を増し、各地でキリスト教会堂を建設しようとする動きがありました。
ゲルマン人は初め、西ローマ帝国の跡地に残っていた建築物を再利用して更なる発展を目指したのですが、もともと文明と触れてこなかったゲルマン人たちにとって、すでに完成されたローマ建築をそのまま受け継ぐことは不可能でした。
もともと西ローマ帝国に残っていた古典的教養のある建築家や技術に優れた職人はしだいに姿を消し、古代ローマ時代からの石切場も生産を停止したので、大きな石材を調達することすら出来なくなっていました。
▲スペインにある『サン・ペドロ・デ・ラ・ナーベ聖堂』は、680−711年頃に建設されたキリスト教聖堂。大きな石を採る技術が無かったため、石垣のような外観となっており、まだ小規模な建物しか造れなかった。ゲルマン人たちの苦心した様子が伝わってくる。
▲ 同じく『サン・ペドロ・デ・ラ・ナーベ聖堂』の柱に施された子どもが彫ったかのような彫刻。ゲルマン人たちは古代ローマ人たちの技術に見よう見まねで追いつこうと頑張った。
・・・結局、ローマ建築を参考にしながらも、ゲルマン民族たちのオリジナルの建築様式を創造・確立するまでに600年もの歳月がかかってしまいました。
時間はかかりましたが、11世紀から12世紀ごろに異民族であるゲルマン人たちが苦労してようやく完成させた建築様式が『ロマネスク(ローマ風のと言う意味)』なのです。
▼ローマ人と名乗り出したゲルマン人たちが目指した建築▼
ロマネスクの代表的建築
ピサ大聖堂
ピサ大聖堂はイタリアのトスカーナ州、ピサに位置する「ピサのドゥオモ広場」に建てられた、ピサの斜塔があることで有名なロマネスク時代を代表する建築物の一つです。
このピサのドゥオモ広場はピサのアルノ川の河畔に位置する広場で、1987年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されています。
また、広場にはピサ大聖堂の他に洗礼堂や墓所回廊、そして傾きで有名な鐘塔(通称:ピサの斜塔)があり、これら複数の建築物が集合体として全体的に統一された外観を呈していることから、通称「奇跡の広場」とも呼ばれています。
▲ピサ大聖堂のファサードは左右対象。色の違う大理石を交互に積み上げることによって、帯のような水平の縞模様になっている。
大聖堂の建設作業には多くの芸術家と建築家が携わり、1063年から1118年および1261年から1272年と2回に分けて建設されました。
大聖堂の建築には様々な建築技術や装飾手法が施されており、大聖堂を象徴する十字架型の平面形(ラテン十字形)は、合理主義の傑作とも言われています。
▼ラテン十字形って何だっけ?というかたはこちらから▼
出典:GEOCHACING
▲バシリカ式のラテン十字形を採用した平面プランのピサ大聖堂
出典;SHEFALETAYAL
▲ロマネスク建築は石造りなので、重い天井を支えるための厚くて大きな壁が必要だった。壁を頑丈にするために窓などの開口部は必然的に小さなものになっている。
▼窓を大きくする方法を発見したゴシック建築はこちらから▼
ロマネスク建築の装飾
ヴォールト天井
▲肋骨という意味を持つ「リブ」がアーチ状に架けられたリブ・ヴォールト天井『フォントヴロー修道院』(1119年)フランス
ヴォールトとは「アーチを並行に押し出したかまぼこ型(トンネル型)の形状」のことで、古代ローマ帝国で発展し、コロッセオや公共建築などに使用されていました。
ロマネスク建築では大きなヴォールト天井と、それを支えるための厚い壁と小さな開口部が特徴です。
▲円筒ヴォールトはヴォールトの最も単純な形態で、トンネルのような形状をしている。フランスの『サン・セルナン教会』(11−13世期建造)
ロマネスクではトンネル状のアーチである円筒ヴォールトを発展させて、側面からの採光がしやすい、円筒ヴォールトを十字にクロスさせた交差ヴォールトが用いられました。
出典:Serch UW
▲円筒ヴォールトが交差したヴォールト天井を持つイギリスの『ウスター大聖堂』(11世期)
円筒ヴォールトや交差ヴォールトは古代ローマ建築でも使われましたが、ロマネスクでは技術不足によりヴォールトはやや不安定でした。
そこで肋骨という意味を持つ「リブ」と呼ばれる突起をアーチ状に架け、その上にレンガや石を積むリブ・ヴォールトという天井が開発されたのです。
出典:ミカオ建築館
▲ロマネスクとゴシックはともにリブ・ヴォールトがあるが、「アーチの形状」が異なる
リブヴォールトは不安定だったヴォールトを安定させるという効果以外にも、施工が容易になる、天井が崩れにくくなる、崩れても修繕がしやすいという利点があります。
時代が流れてゴシック期になると、このリブ・ヴォールトが発展してさらに大きな荷重に耐えることができるようになり、教会建築はどんどん巨大化してゆくこととなります。
▼ロマネスクが進化したゴシック建築はこちらから▼
アーケード
出典:TABIZINE
▲11世期に建築されたスペインにある『サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院』のアーケード装飾
アーケードは柱で支えられる連続したアーチやヴォールトのことで、またそれを用いた通路や歩道を指す言葉でもあります。
ロマネスク建築の一般的な装飾として多用されました。
アーチやヴォールトが横に連続しただけのシンプルな装飾である「アーケード装飾」は、ロマネスクに初めて用いられたというわけではなく、古代から用いられてきた基本的な装飾で、古代ローマ建築において発展を遂げました。
出典:WIKIDATA
▲『コロッセオ』はローマ帝国が西暦80年に建てた円形闘技場で、建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場。火山灰を利用したローマン・コンクリート製で5万人から8万人が収容できた。
アーケード装飾はバシリカ式教会や修道院に用いられ、やがて開口部では無い、壁の表面に装飾としてアーケードを配置した『ブラインド・アーケード』も出現しました。
▲スペインにある『サンタ・マリア・ラ・レアル・デ・サル参事会教会』は12世期に建築された教会で、初期のブラインド・アーケード装飾が見られる。
出典:Structurae
▲ピサ大聖堂のブラインド・アーケード。正面ファサードのアーケードはブラインドでは無い。
タペストリー
出典:Britannica
▲1066年のノルマン征服を描いた刺繡が施されたタペストリー。フランスのバイユー大聖堂で見つかった為『バイユーのタペストリー』と呼ばれる。(1070年代製織)
タペストリーは壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種で、「タピスリー(フランス語)」とも呼ばれます。
日本では、つづれ織り(平織の一種、太い横糸で縦糸を包み込むことで縦糸を見えなくして横糸だけで絵柄を表現する織物)に相当し、クッションカバーや絨毯(じゅうたん)などにも使用されている織り方です。
ヨーロッパへは、11世紀に十字軍(じゅうじぐん)(※)が東方の産物として手織り絨毯(じゅうたん)を持ち帰ったのがタペストリーの始まりとされています。
(※十字軍とは、ヨーロッパ各地のキリスト教徒たちが、中東地域にあった聖都エルサレムをイスラム教徒から奪還するために送った遠征軍のことです。)
アジア方面から略奪してきた美しく華やかな手織り絨緞(じゅうたん)を靴で踏むのは忍びないと思い壁に掛けたところ「なかなかいけてるじゃん!」と好評で、部屋の装飾になるだけでなく、壁の隙間風を防いで断熱効果が得られることから、その後も壁に掛けて使用されるようになりました。
ここからヨーロッパでの需要が高まり、ヨーロッパ内で生産できるつづれ織りのタペストリーが生まれました。
出典:Wga
▲大天使長ミカエルが描かれたタペストリー(12世期中から後期)
出典:Wga
▲『The Concord of Church and State(政教分離原則)』(12世紀後期)
装飾的なタペストリーが中世ヨーロッパで隆盛を極めたのは、持ち運びができることが大きな理由のひとつであり、王や貴族たちは屋敷やヴィラ(別荘)、旅先などへタペストリーを丸めて持ち運び、到着すると壁に掛けて楽しみました。
また、キリスト教会では特別な日などに聖書での一場面が描かれたタペストリーを取り出して飾ったり、寒い冬の時期は防寒用として熱を逃がさないために城の部屋の壁にタペストリーを飾ることもあり、このような理由からタペストリーは絵画以上に貴重な工芸品だったのです。
ナンタルカのまとめ
■ロマネスクの起こり
ゲルマン民族による(①)の滅亡後、ローマ教会を中心としたキリスト教会が支配力を増した。11世紀から12世紀ごろのキリスト教を中心とした西ヨーロッパの建築、装飾の様式を(②)という。
■ロマネスクの代表的建築
イタリアのトスカーナ州に建てられた(①)はロマネスク時代を代表する建築物の一つで、1987年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。
■ロマネスク建築の装飾
(1)古代ローマで用いられたトンネル状のアーチである(①)ヴォールトや、ヴォールトを十字にクロスさせた(②)ヴォールトが用いられた。さらに(③)ヴォールトと呼ばれる肋骨を意味する突起をアーチ状に架けた天井が開発され、これには不安定だったヴォールトを安定させるという効果以外にも、施工が容易になる、天井が崩れにくくなる、崩れても修繕がしやすいという利点があった。
(2)(①)は柱で支えられる連続したアーチやヴォールトのことで、またそれを用いた通路や歩道を指す言葉でもあり、ロマネスク建築に多用された。また、壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種である(②)は、11世紀に十字軍が東方の産物として持ち帰ったのが始まりとされ、王や貴族たちを中心に広まった。
お疲れ様でした。
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