こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「中田英寿が購入した、椅子の中に薔薇の花が埋め込まれた椅子について知りたい。」
- 「ちょっと変わったデザインの家具に興味がある。」
とお考えの皆様に向けて、
世界で活躍した有名な日本のモダンデザイナー倉俣史朗を画像で解説します。
倉俣史朗(くらまたしろう)
出典:Pinterest
倉俣史朗(くらまたしろう)(1934年 – 1991年)は日本のインテリアデザイナーで、空間デザイン、家具デザインの分野でエキセントリックな作品を次々に発表して世界を驚かせた人物です。
1934年に東京で生まれた倉俣史朗は、22歳で東京都渋谷区にあるデザイン専門学校「桑沢デザイン研究所」のリビングデザイン科を卒業しました。
卒業後、株式会社三愛の宣伝課に在籍して店舗設計やショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わり、30歳になってからは株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍を置きました。
翌年、31歳になった倉俣史朗は念願の個人事務所「クラマタデザイン事務所」を設立し、1967年頃からグラフィックデザイナー「横尾忠則(よこおただのり)」とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児(ちょうじ)として注目を浴びはじめます。
出典:小宮山書店
▲2人の親交は生涯続き、倉俣史朗亡き後の1996年に催された展示会「倉俣史朗の世界」のポスターは横尾忠則が作成している。
1969年、35歳になった倉俣史朗はなんと自らの作品を持って憧れだったイタリアのジオ・ポンティに直接会いに行き、ドムス誌に掲載してもらえるようお願いをしました。
出典:ELLE
▲建築・インテリア雑誌『domus (ドムス)』の創刊者であり初代編集長のジオ・ポンティ
▼ジオ・ポンティはこちらで紹介しています▼
ジオ・ポンティは当時まだ若かった倉俣史朗に会い、彼の作品に感動し褒め称えました。
掲載の話はとんとん拍子で進み、翌年の1970年に念願だったドムス誌に作品が掲載された倉俣史朗は、その後も幾度となくドムス誌で紹介されています。
出典:domusweb
▲ドムスに掲載された倉俣史朗がデザインした紳士服メーカー「エドワーズ」のショールーム(1970年)
1970年、日本万博博覧会(EXPO’70) に参加した倉俣史朗は、『変形の家具』などユニークな収納家具を多く発表しました。
出典:Wright
▲アクリル樹脂で作られた引き出し収納『変形の家具/Furniture in Irregular Forms』(1970年)
出典:ikarus
▲同じくアクリル樹脂で作られた回転型収納『Revolving Cabinet』(1970年)
Glass chair(硝子の椅子)
出典:Pinterest
Glass chair(硝子の椅子)とは倉俣史朗が1976年に発表した、全てガラスのみで構成されたチェアです。
当時、ガラス同士の接着方法はまだまだ限られていて、乳白色をしたシリコン樹脂で接着するくらいしか方法がなく、美しい仕上がりにすることは出来ませんでした。
そんな中、新しい接着技術(UV硬化型接着剤)が開発されて、接着面に接着剤が見えない美しい仕上がりが可能になったのです。
出典:名作家具とデザインの話
▲UV硬化型接着剤は、塗布した接着剤に紫外線をあてることにより硬化する接着剤。限定40脚制作された硝子の椅子は、富山県美術館や大阪の国立国際美術館に所蔵されている。
倉俣史朗の良い意味でぶっ飛んだデザインを支えてきたのは、ガラス・アクリルの職人である東京・西麻布にある『三保谷(みほや)硝子店』(創業明治42年)の3代目「三保谷友彦(みほや ともひこ)」でした。
出典:淵上正幸の日々建築漬け
▲倉俣史朗に出会ってガラス職人の三代目として生きていくことを決めた三保谷友彦は、倉俣史朗のことを親分と崇めて慕っていた
1960年代末に出会った三保谷のサポート無くして、硝子の椅子の完成はもちろん、倉俣史朗が追い求めたデザインの実現はありえませんでした。
三保谷硝子店はその後も倉俣史朗を支え続け、現在もガラスという素材の可能性を追求して、建築、インテリア、アートなど幅広い分野のトップクリエイターのものづくりをサポートしています。
K-SERIES(オバQ)
出典:design shop
K-SERIES(ケーシリーズ)は、1972年に倉俣史朗によってデザインされた特徴的なデザインの照明で「オバQ」という愛称で親しまれています。
藤子不二雄による国民的アニメ「オバケのQ太郎」のオバQを彷彿とさせるそのデザインは、ハンカチをつまんだようなドレープ(布をたらしたときに出る、ゆるやかなたるみ)を持った乳白色のアクリルで作られています。
出典:METROCROS
▲ハンカチと同じ大きさからソファの隣に置けるものまでサイズは全部で3種類
正方形のアクリル板を照明の支柱にかぶせ、4人の職人が四方から囲んでドレープを整え、空気を吹き付けて冷やして固定させる、という独特な製法も、硝子職人・三保谷さんの協力によるものでした。
出典:CASABRUTUS
▲2016年に販売開始したハンカチサイズは、ハンカチを手にK-seriesのデザインを語る倉俣史朗本人を撮影したこのスナップ写真を元に再現されたもの
アクリル板をドレープ状に整える製作工程では、現在でも倉俣史朗の息子である倉俣一郎氏がわざわざ立ち会って仕上がりを確認しているほどのこだわりぶりです。
現在は照明メーカー「Yamagiwa(ヤマギワ)」より販売されています。
1981年、47歳となっていた倉俣史朗は、イタリアの建築家でありポストモダンデザイナー の「エットレ・ソットサス」から、多国籍デザイナー集団である『メンフィス』の創設メンバーに招待されました。
出典:mohd
▲倉俣史朗をメンフィスに招待したイタリア人建築家「エットレ・ソットサス」は、ジオ・ポンティらと戦後イタリアンデザインの評価を高めた人物の1人。
▲ソットサスの結成したメンフィスのデザインコレクション。イタリアを中心に世界の建築やデザイン業界に大きな影響を及ぼしたが、同時に「装飾的で奇抜過ぎ」という批判を浴びて、ソットサスが建築の仕事で忙しくなったこともあり、1988年に解散した。
▼ポストモダンデザイナー集団「メンフィス」はこちらから▼
倉俣史朗の他には、建築家でありデザイナーの磯崎新(いそざきあらた)もメンフィスに招待されていて、1981年9月に行われた世界の家具デザインの祭典『ミラノ・サローネ』でそれぞれ出展を行い、高い評価を受けて世界に衝撃を与えました。
出典:Pinterest
▲倉俣史朗がメンフィスの展示会で発表した『Ritz desk』(1981)は、デスク天板にタモ材が使用され、日本の伝統工芸である漆塗りが施されている。デスク状には収納が付属され、開閉が可能。
▼メンフィスに所属していた磯崎新はこちらから▼
80年代は倉俣史朗の全盛期とも呼べる時代で、工場で大量に廃棄されていたガラスの破片を人工大理石に混ぜた「スターピース」と呼ばれる新素材を開発したり、
出典:SOMEWHERE
▲誰もがどこかで見たことがあるような素材の「スターピース」は家具や雑貨など幅広い用途で使用されている。倉俣史朗が開発したことはほとんど知られていない。
出典:MEMPHIS
▲倉俣史朗がメンフィスのコレクションとして、スターピースを使用してデザインしたテーブル『KYOTO』(1983年)
エキスパンドメタル(いわゆる金網材)を使った「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」や、アクリル樹脂の中に薔薇の花を埋め込んだ「ミス・ブランチ」といった最高傑作を、次々と世に送り出しました。
How High the Moon(ハウ・ハイ・ザ・ムーン)
出典:Pen
How High the Moon(ハウ・ハイ・ザ・ムーン)は、倉俣史朗が1986年に発表したスチールの薄板に切れ目を入れて引き伸ばした「エキスパンドメタル(金網材)」を使用した革新的な作品で、工業製品としての力強さと透明感のある繊細さを併せ持つ稀有な作品として、倉俣史朗の代表作となっています。
エキスパンドメタルという素材はあまり聞き慣れないかもしれませんが、建築業界では建築現場の足場や、よく見かけるものだと道路のフェンスなどに一般的に用いられる素材で、当時は家具の仕上げ材として使うなんてことは考えられていませんでした。(今でも一般的には使用しませんが、、、)
出典:神鋼建材工業
▲道路脇にあるエキスパンドメタルで作られたフェンス
発表当時は、長崎県に本社をもつ内装施工会社「イシマル」と広島県の「寺田鉄工所」が製作し、1997年までは日本のインテリアショップ「IDEE(イデー)」でも販売されてました。
海外ではスイスの家具メーカー「Vitra(ヴィトラ)」も生産・販売を手がけていましたが2009年に生産が終了し、現在はクラマタデザイン事務所監修のもと「ギャラリー田村ジョー」により、復刻・再販されていて、インテリアショップ「SEMPRE(センプレ)」にて受注生産を受け付けています。
出典:ALL ABOUT
▲ハウ・ハイ・ザ・ムーンはソファもある。倉俣の作品は家具というよりアートと呼べるような作品が多い。
ミス・ブランチ
ミス・ブランチは1988年に発表された作品で、液体のアクリル樹脂の中に薔薇の造花を流し込むという、かつて無い方法で製作されたチェアです。
アメリカの劇作家「テネシー・ウイリアムズ」の戯曲、『欲望という名の電車』(1947年)に登場するヒロイン「ミス・ブランチ・デュボワ」が着ていた薔薇模様の衣裳からインスピレーションを受けてデザインされました。
当時、文房具で有名な「コクヨ」でプロトタイプが作られ、その後倉俣の作品を多く手掛けてきた内装施工会社「イシマル」で製品化されましたが、全て手作りだったため56脚しか生産されず、200万円という価格で発売されました。
出典:建築とアートを巡る
▲薔薇を選ぶのも困難を極め、アクリルに色が移ってしまうなどなかなか思い通りには行かなかったが、倉俣史朗が何気なく選んだ安物の造花が一番しっくりきたのだそう。
かなりの高額となってしまったミス・ブランチでしたが、海外オークション『サザビーズ』では1000万以上の値がつき、ピーク時には5000万円を超えていたとも言われています。
現在ではニューヨーク近代美術館(MoMA)やヴィトラ・デザインミュージアム、サンフランシスコ近代美術館、パリ装飾美術館などの美術館に永久コレクションされていて、元サッカー日本代表『中田英寿(なかたひでとし)』も倉俣史朗の大ファンでミス・ブランチを購入し、自宅に飾っているそうです。
あまりの独創性ゆえ「クラマタ・ショック」という言葉まで誕生させた倉俣史朗は、1991年に急性心不全で亡くなった後も、あらゆるデザイナーや建築家に影響を与え続けています。
出典:SCP
ナンタルカのまとめ
■倉俣史朗とは
倉俣史朗は日本のインテリアデザイナーで、空間デザイン、家具デザインの分野でエキセントリックな作品を次々に発表して世界を驚かせた人物で、イタリアの多国籍デザイナー集団(①)にも所属していたことでも有名。代表作には1976年に発表した全てガラスで構成されたチェア(②)、1986年に発表したスチールの薄板に切れ目を入れ引き伸ばしたエキスパンドメタルを使用した革新的な作品(③)、1988年に発表された液体のアクリル樹脂の中に薔薇の造花を流し込んだ(④)など個性的な作品が多い。
お疲れ様でした。
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