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【昭和〜現代のインテリア】昭和から現代の建築、家具、住生活はこれだけ覚えればOK【日本のインテリアの歴史⑨】

斎藤助教授の家 昭和 建築

 

 

こんにちは、しけたむです!

 

この記事では

 

 

  • 「歴史上の人物名や建築物の暗記は苦手です。」
  • 「インテリアだけじゃなく、近代建築や建築家についても興味がある。」

 

 

という方々に向けて、

 

昭和から現代の建築や建築家について画像付きで解説していきます。

 

 

とりあえずインテリアコーディネーター試験では、この範囲だけ覚えればOKです!

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
昭和に入るとそれ以前の時代より、覚える建築家や名称とかも多くなってきて混乱するかもにゃ!一回で覚えようとしないで、二、三周すれば頭にも入ってくるから心配ないにゃー

 

 

 

 

 

 

昭和の代表的建築物

 

 

大正時代末期の1923年に発生した未曾有の大災害、関東大震災

多くの建物を倒壊・焼失させました。

 

 

 

しかし皮肉なことに、そのことがきっかけとなり耐震性の高い鉄筋コンクリート造の耐震建築物が立ち並ぶこととなります。

 

 

 

震災の復興期に建設された同潤会アパート東京中央郵便局はその代表的な建築物であり、当時としてはまったく新しいデザインセンスを持った先進的な建物として新しい時代の象徴となりました。

 

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
昭和初期の近代建築の分野で活躍したのは堀口捨己(ほりぐちすてみ)谷口吉郎(たにぐちよしろう)山口文象(やまぐちぶんぞう)らが有名だにゃ!数寄屋造を近代的に昇華させた吉田五十八(よしだいそや)は寺院などの設計も行ってますにゃあー

 

 

同潤会(どうじゅんかい)アパート

 

同潤会アパート 青山出典:goo BLOG/同潤会青山アパートメント

同潤会アパート 上野出典:青山物産株式会社/同潤会上野下アパートメント

 

 

 

同潤会アパートと聞くと、現在の表参道ヒルズに建っていた

同潤会青山アパートメント』をイメージされる方多いのではないでしょうか。

 

 

 

 

そもそも同潤会アパートとは『財団法人同潤会』が大正末期から昭和初期にかけて東京・横浜の各地に建設した鉄筋コンクリート造集合住宅の総称です。

 

 

 

 

ちなみに、この財団法人同潤会は関東大震災の復興支援のために設立された団体で、戦時中に解散しました。

 

 

 

現在、16か所あった同潤会アパートは老朽化による耐震性の問題から、全て取り壊され姿を消しています。

 

 

 

同潤館 表参道ヒルズ出展:表参道ヒルズ

▲現在の表参道ヒルズ。旧同潤会青山アパートの景観は『同潤館』として再生した。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
現在の表参道ヒルズに同潤会アパートの一部が残っているように見えますが、これは世界的な建築家である安藤忠雄(あんどうただお)さんの設計により『外観を忠実に再現』して建て直されているんにゃー!忠実過ぎて、ナンタルカは同潤会アパートの一部を壊さず残したのかと思ったにゃー

 

 

 

聴竹居(ちょうちくきょ)

 

藤井厚二 聴竹居聴竹居出典:竹中工務店/聴竹居

聴竹居出典:jimosumu

 

 

 

聴竹居は1928年に京都府大山崎町に建てられた、広島県出身の設計士である

藤井厚二(ふじいこうじ)の自邸です。

 

 

藤井厚二出展:TOTO通信

▲東京大学卒業後、まだ社員数人の中小企業であった竹中工務店に初の建築家として入社した藤井厚二

 

 

 

 

日本の気候風土と西洋的な空間構成を融合させた近代住宅建築の傑作のひとつで、ここから日本の『木造モダニズム』がスタートしました。

 

 

 

特徴的な日本の気候風土に合わせて自然の力を巧みに利用することで、環境共生を図る

という環境共生住宅の原点とも言われる建物です。

 

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
環境共生住宅は、地球にも、家を建てる周辺の環境にも配慮して、住みやすい住環境を整えましょー!という考え方の住宅だにゃ!

 

 

土浦亀城邸(つちうらかめきてい)

土浦亀城 自邸出典:TOTO通信

 

土浦亀城邸 室内 インテリア出展:Architecture Tokyo

 

 

 

 

モダニズム建築家として活躍した土浦亀城の自邸もとても有名な建築作品です。

 

 

1935年、東京都品川区に竣工し、現在は東京都有形文化財に指定されています。

 

 

土浦亀城出展:TOTO通信

▲フランク・ロイド・ライトの助手として活躍した土浦亀城

 

 

 

土浦亀城は、帝国ホテル本館の建設に携わっていた遠藤新(えんどうあらた)の紹介でドラフトマン(※1)としてフランク・ロイド・ライトの助手をしていました。

(※1:設計図のうち詳細図面を書く人のこと。)

 

 

 

帝国ホテル本館の建設の途中、建設費がかさみ過ぎて設計の任を解かれてしまったライトがアメリカに帰国することになるのですが、その際にアメリカに誘われたのが土浦亀城でした。

 

 

 

▼帝国ホテル本館について、???ならこちらから▼

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東京帝国大学工学部建築学科を卒業した土浦亀城は、1923年の26歳の時、妻と娘と共に渡米し、ライトの別荘兼事務所であったタリアセンに入所しました。

 

 

土浦亀城 タリアセン出展:UN DIA

▲タリアセンで過ごすフランク・ロイド・ライト(左)と土浦亀城夫妻(中央暖炉両脇)

 

 

 

▼フランク・ロイド・ライトやタリアセンについては、こちらから詳しく学べます▼

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タリアセンで3年間を過ごした土浦は1926年に帰国し、大倉土木(現・大成建設)に勤めながら住宅の設計を開始しました。

 

 

初期の設計には師匠であるライトの影響が色濃く出ていましたが、1930年後半からはライトの作風とは異なるホワイトキューブに大きなガラス窓を使った、いわゆるバウハウススタイルと呼ばれるモダニズム風の作風が見られるようになります。

 

 

▼バウハウスはこちらの記事にてご紹介▼

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帰国後、多くの建築を手掛けた土浦亀城でしたが、その集大成ともいえるのがこの土浦亀城邸です。

 

 

ホワイトキューブに大きなガラス窓というモダンなデザインは、当時としては斬新で都市住宅の先駆けとなりました。

 

 

土浦亀城邸 リビング 階段出展:OKOLO

▲土浦亀城邸のリビング。階段を上がるとギャラリーや書斎がある。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ

とっても有名な日本画家の横山大観(よこやまたいかん)は、土浦亀城の叔父なんだにゃ!

 

 

昭和の家具・工芸

 

 

昭和という激動の時代の中、家具や工芸のデザインにおいても様々な組織が誕生しました。

 

戦争の影響を受けながら行われた、様々な活動を見ていきましょう。

 

 

木のめ舎(きのめしゃ)

森谷延雄 木のめ舎

 

 

木のめ舎は、1927年に森谷延雄(もりやのぶお)によって結成されたデザイングループです。

 

 

 

当時の日本では、家具やインテリアの分野でも近代的な生活の提案を強く行われていて

海外への憧れや羨望を強く持っていた時代でした。

 

 

 

そんな中、独自の表現主義的なスタイルで知られるインテリア・家具デザイナーの森谷は

家具デザインの美的効果』を求め、芸術として家具デザインを始めました。

 

 

 

上の写真の家具などを見ても100年近く過去に作られたようには全く見えない、斬新で完成されたデザインです。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
家具やインテリアは機能性だけではダメで、美しさも機能性もどちらも必要です!ということなんだにゃー

 

 

型而工房(けいじこうぼう)

形而工房 蔵田周忠出典:monomono

豊口克平の代表作『スポークチェア』。イギリスのウィンザーチェアがモチーフとなっている。

 

 

 

1928年、建築家の蔵田周忠(くらたちかただ)を中心に結成された

デザイン研究・制作団体を型而工房といいます。

 

 

 

蔵田周忠出展:つれづれ可喜庵

▲蔵田周忠は海外の建築を日本に精力的に紹介し、建築史の書籍も執筆した。

 

 

 

型而工房は当時日本デザイン界が関心を寄せていた『ドイツ工作連盟』や『バウハウス』の思想を強く受けていて合理主義的、機能主義的デザインの実践を目指しました。

 

 

 

▼ドイツ工作連盟はコチラの記事にてご紹介▼

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この時代は、まだ家具職人たちが一般的に尺貫法(しゃっかんほう)(※1)を使用していた中、世界共通の基準に従いメートル法を採用しました。

 

(※1:現在、寸法の単位は1cm、1mが当たり前ですよね。でも尺貫法はcmとかではなく、1尺(=30cm)1寸(=3cm)という単位を使用してました。一寸法師なんかも、それですね。)

 

 

 

また当時、日本の家屋や家具では一般的でなかったブナ、楢(ナラ)などの入手しやすく、安価な木材を規格化して使用し、『低コストで大量生産が可能な設計を目指しました。

 

 

 

 

このように形而工房は、数々の先駆的な実践を試み、日本の近代デザインの発展に大きく貢献したのです。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
蔵田周忠(くらたちかただ)の教え子でもあった豊口克平(とよぐちかつへい)型而工房に参加し、その理念を受け継いだ多くの家具を生み出したんにゃ!特に上の写真のチェア、『スポークチェア』はデザインも座り心地も一級品の名作なんだにゃー

 

 

▼スポークチェアのモチーフになったイギリスの『ウィンザーチェア』はこちらで紹介▼

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工芸指導所(こうげいしどうしょ)

工芸指導所出典:Twitter /TSUKAPONG

 

 

 

工芸指導所は、1928年仙台に当時の商工省(現在の経済産業省の前身)によって創設されました。

 

 

日本初の国立のデザイン指導機関で、日本固有の金工、木工、漆工、その他各種工芸産業の育成と輸出振興を目指しました。

 

 

 

世界的なデザイナーであるブルーノ・タウトシャルロット・ペリアンを招いて指導を行なってもらったことからも、工芸指導所に対する期待の高さが感じ取れます。

(▲写真中央の外国人がブルーノ・タウト)

 

 

 

▼ブルーノ・タウトはこちらの記事でご紹介▼

ドイツ工作連盟
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所員には剣持勇(けんもちいさむ)豊口克平(とよぐちかつへい)などの有名デザイナーがいました。

 

 

 

民芸運動

民芸運動出典:Discover Japan

 

 

 

民芸運動とは、美術品ではなく庶民の日用品である『民衆的工芸(=民芸)』にこそ美があるとする考えに基づく運動です。

 

 

 

 

工業化が進み、生活様式がどんどん西洋化する状況に危機感を抱いた思想家の

 

柳宗悦(やなぎむねよし)』が中心となり、1925年に提唱されました。

(▲柳宗悦は写真右から3番目)

 

 

 

柳宗悦は若き日に、イギリスの思想家であるウィリアム・モリスの提唱した美術工芸運動である『アーツ・アンド・クラフト』の影響を受けていると言われています。

 

 

 

ちなみにこのアーツ・アンド・クラフト運動をざっくり簡単に説明しますと、

 

『産業革命の結果として安価で粗悪な製品が世にたくさん出回ってしまったので、それをやめて、職人さんがひとつひとつ手作りで仕上げる質の良い美術品や工芸品を広めましょう!』

 

という運動です。

 

 

▼アーツ・アンド・クラフツについてはこちらから▼

ミュシャ
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美術界において評価のされていない日本各地にある日用品や、庶民が制作している民衆的工芸品の中に真の美しさを見出し、世に発信・紹介していく、という民芸運動は21世期の現在でも続いています、、、

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
「民芸品売り場」「民芸調の家具」など、当たり前に使われる「民芸」という言葉は、柳宗悦さんが作って使い始めた言葉、つまり造語なんにゃー

 

 

戦後の住生活

戦後 住宅 UR 団地出展:UR都市機構

▲昭和30年代の東京の赤羽台団地

 

 

 

太平洋戦争が終結し、日本は焼け野原からの復興を目指します。

 

集合住宅と戸建住宅の変化をそれぞれ見ていきましょう。

 

 

戦後の集合住宅

日本住宅公団 集合住宅 団地出典:建計

▲戦後日本の集合住宅のモデルとなった公営住宅標準設計51c型の集合住宅。

 

 

 

まず住宅不足の解消策として日本住宅公団(現在の独立行政法人都市再生機構)が1955年に設立されました。

 

 

 

 

住宅に困窮する勤労者のために、住宅及び宅地の供給を行うことを目的とした公団です。

 

 

 

公団によって建てられた集合住宅(公団住宅)には、それまで食事と就寝を同じ畳の部屋で行っていた生活から

食寝分離(しょくしんぶんり)

という、「食べる部屋と寝る部屋を分離する」とした2DK(2部屋+Dining Kitchen)プランで、その後のダイニングキッチン普及の原点となりました。

 

 

日本住宅公団 公営51C型標準設計 間取り出典:リノまま

▲台所(Dining)と食事室(Kitchen)が一体になったDKに居室を2部屋加えた2DKプラン

 

 

 

この2DKプランを採用した住宅は『DK型住宅』と呼ばれ、人気を博しました。

 

 

食寝分離は、建築学者でもあり都市計画家でもある西山夘三(にしやまうぞう)によって唱えられました。

 

 

西山夘三出展:京都建築事務所

▲若い頃は漫画家を志望していた西山夘三。人々に寄り添い、幾多もの設計活動を行う。

 

 

 

ちなみに大阪出身の西山夘三は京都帝国大学建築学科(現在の京都大学)に入学し、先述の藤井厚二(聴竹居の項目参照)が西山の指導教授を担当していました。

 

 

 

 

また、西山によって唱えられた『就寝分離(しゅうしんぶんり)』「親と子の就寝空間を分ける」という概念です。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
公団住宅のDK型住宅で、特に人気のあった2DKプランを『51C 型(ごじゅういちしーがた)』と呼ばれたにゃ!1951年に登場したことと、A(16坪)、B(14坪)、C(12坪)の3つのプランでCが人気あったことから有名になったんにゃー

 

 

 

戦後の戸建住宅

最小限住宅(さいしょうげんじゅうたく)

最小限住宅 増沢洵(ますざわまこと)出典:Pinterest

▲建築面積9坪の『最小限住宅』。右側の間取りを拡大して確認してください。

 

 

 

建築家である増沢洵(ますざわまこと)が1952年に小田急線東北沢駅近くに建てた自邸です。

 

 

増沢洵出展:アクトホーム

▲東京帝国大学工学部で建築を学んだ後、アントニン・レーモンド(後述)に師事した増沢洵。

 

 

 

建築面積、わずか29.75㎡(9坪!)、延べ床面積49.58㎡(15坪)の狭小住宅で

日本建築史において戦後経済の発展期に建てられた実験的狭小住宅の歴史的代表作です。

 

 

 

建物は2階建てで、開放感を出すために用いた吹き抜けが特徴的です。

 

 

 

 

立体最小限住宅(りったいさいしょうげんじゅうたく)

立体最小限住宅 池辺陽

 

 

建築家の池辺陽(いけべきよし)は、戦後すぐの住宅問題に対して1950年に立体最小限住宅を発表しました。

 

 

池辺清出展:建築士試験過去問解説サイト

▲池辺清は戦後すぐの資材が少ない中での住宅建築をテーマにした日本を代表する建築家。

 

 

 

約15坪の空間に狭小住宅とは思わせない工夫が散りばめられています。

 

ちなみに玄関を開けるとすぐにダイニングテーブルです。

 

 

 

勾配屋根の吹き抜けがあり、ロフトになっている場所を寝室として利用しています。

 

 

 

斎藤助教授の家(さいとうじょきょうじゅのいえ)

清家清 斎藤助教授の家出典:けんちく劇写資料室

斎藤助教授の家 Prof.K出典:ZERO=abunDANCE

 

 

 

建築家の清家清(せいけきよし)によって1952年、東京都大田区に建てられました。

 

 

床面積は約19坪、寝殿造を思わせるような、高床式で水平的な広がりを持つ建築です。

 

 

横幅が9mに対して、奥行きは4.8mと、横に細い間取りとなっています。

 

 

 

清家清

出展:note

▲ネスカフェCMに出演した清家清。”違いのわかる男”として建築家という職業を世に印象付けた。実はタモリ倶楽部にも出演経験あり。

 

 

 

 

バウハウスの創設者、ヴァルター・グロピウスが訪日した際にこの建築は必ず見たいと訪れ

 

日本建築の伝統と近代技術の幸福な結婚である

 

と称え、絶賛しました。

 

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ヴァルター・グロピウスさんは『斎藤助教授の家』に惚れ込み、清家清さんをドイツの自宅に招いたりしたにゃ!その後ふたりは一緒に働くこととなるんだにゃー

 

 

▼バウハウス、ヴァルター・グロピウスはコチラの記事にて紹介しています▼

デ・ステイル
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建築家の活躍

 

 

高度経済成長期に入ると日本建築業界は好況になり、偉大な建築家が数多く現れました。

 

日本を代表する建築家は、コーディネーターとして必ず覚えておきたいところです。

 

 

吉村順三(よしむらじゅんぞう)

吉村順三出典:Pinterest /Takeshi yoshimura

 

 

日本の伝統建築とモダンな生活様式を融合した住空間を数多く手がけた建築家。

 

 

東京の呉服商の家に生まれた吉村順三は、1931年に東京美術学校建築家を卒業し、アントニン・レイモンド(レーモンド)の事務所に勤務しました。

 

 

 

ちなみにアントニン・レイモンドはチェコ出身の建築家で

フランク・ロイド・ライトの弟子として、帝国ホテル(ライト館)の建設の際に来日した建築家です。

 

 

アントニン・レーモンド出展:AMC

▲増沢洵、前川國男(後述)、ジョージ・ナカシマなどの建築家もアントニン・レーモンドに学んだ。

 

 

 

 

吉村順三は数多くの建築家を育て、皇居の新宮殿の建設にも関わりました。

 

 

その他の代表作として、

 

〈国際文化会館住宅〉(東京,1955年)、自邸〈南台町の家〉(東京,1957年)、〈軽井沢の山荘〉(1962年)、〈ポカンティコヒルの家〉(ニューヨーク,1974年)のほか、八ヶ岳高原音楽堂(長野,1988年)・・・

 

などがあります。

 

 

前川國男(まえかわくにお)

前川國男出典:有名人の墓巡り

 

 

新潟県出身の日本を代表する建築家。

 

 

世界的なデザイナーでもあり、建築家のル・コルビュジェ(コルビジェ)アントニン・レーモンドのもとで学び

日本におけるモダニズム建築の第一人者として、日本建築界をリードしてきました。

 

 

 

ル・コルビュジェの事務所に所属していた日本人の弟子は、坂倉準三前川國男吉阪隆正の3人で、彼らは日本のモダニズム建築の先掛けとなり、丹下健三などの日本の建築家に大きく影響を与えました。

 

 

▼前川國男の偉大な師匠『ル・コルビュジェ』はこちらの記事からチェック▼

サヴォア邸
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同じく世界的な建築家である丹下健三(たんげけんぞう)(後述)木村俊彦は、前川國男事務所の出身です。

 

 

 

前川國男の主要作品は山ほどありますが、、、

 

神奈川県立音楽堂・図書館(1954)、岡山県庁(1955)、京都会館(1960)、東京文化会館、岡山県総合文化センター(ともに 1961)、埼玉会館(1966)、埼玉県立博物館(1971)、東京海上火災保険会社本社ビル(1973)、東京都美術館(1975)、熊本県立美術館(1976)、山梨県立美術館(1978)、宮城県美術館(1981)、新潟市美術館(1985)・・・

 

など公共建築が多いです。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
前川國男の6歳下の弟の、前川春雄は24代目の日本銀行総裁なんだにゃー

 

 

丹下健三(たんげけんぞう)

丹下健三出典:Sumally

 

 

言わずと知れた東京都庁舎を設計した建築家。

 

 

1938年に東京帝国大学建築学科を卒業し、前川國男建築設計事務所で勤務しました。

 

 

日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、世界に認知された1人です。

 

 

 

第二次世界大戦復興後から高度経済成長気にかけて多くの国家プロジェクトを手がけ、丹下健三を語らずして日本の建築を語ることができません。

 

 

磯崎新(いそざきあらた)(後述)黒川紀章(くろかわきしょう)(後述)、槇文彦(まきふみひこ)、谷口吉生(たにぐちよしお)などの世界的建築家も全て丹下健三のお弟子さんです。

 

 

 

主要作品は、

 

広島平和公園(1950)と広島平和記念資料館(1955)、旧東京都庁舎(1957)、香川県庁舎(1958)、東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964)、東京オリンピック競技大会時に建てた国立屋内総合競技場(1964。代々木競技場第一体育館)、日本万国博覧会マスタープラン(1970)、ナイジェリア新首都都心計画(1979)、新東京都庁舎(1991)・・・

 

など膨大です。

 

 

 

磯崎新(いそざきあらた)

磯崎新出典:日経XTech

 

 

大分県出身の建築家。

 

 

1954年に東京大学工学部建築学科を卒業し、丹下健三のもとで修行を積みました。

 

 

東京大学やハーバード大学の客員教授を務め、国際コンペの審査員としても活躍しています。

 

 

 

主要作品は

 

大分県医師会館 (1963) 、群馬県立近代美術館 (74)、北九州市立美術館 (74)、北九州市立図書館 (74)、古典様式を用いてポスト・モダン建築として注目を集めたつくばセンタービル (83)、水戸芸術館 (90)・・・

 

などがあります。

 

 

近年ではロサンゼルス近代美術館 (86) ,バルセロナのサンジョルディ・スポーツ・パレス (90) など国際的な活動も多めです。

 

 

 

2019年には、建築界のノーベル賞ともいわれる『プリツカー賞』を受賞しました。

 

 

 

黒川紀章(くろかわきしょう)

黒川紀章出典:日経XTech

 

 

 

愛知県出身の建築家で、1957年京都大学工学部建築学科を卒業。

 

 

在学中は西山夘三(にしやまうぞう)の元で学びました。

 

 

 

卒業後は東京大学大学院工学研究科の建築学専攻修士課程へ進学し、丹下健三の研究室で指導を受けます。

 

 

 

カプセル住宅で構成される未来都市のイメージを提示した中銀カプセルタワービル(1972)、国立民族学博物館(1977)、国立文楽劇場(1984)、クアラルンプール新国際空港(1998)、ゴッホ美術館新館(1999)、国立新美術館(2006)・・・

 

 

など,国内外に多くの作品を残しています。

 

 

 

また,カザフスタンの首都アスタナ(現在のヌルスルタン)など都市計画も手がけました。

 

 

1990年広島市現代美術館で日本建築学会賞を受賞しています。

 

 

 

菊竹清訓(きくたけきよのり)

菊竹清訓(きくたけきよのり)出典:古谷誠章研究室

 

 

 

福岡県出身の建築家で、1944年に早稲田大学専門部工科建築学科へ入学。

 

在学中に様々なコンペに応募していくつも受賞するなど、学生時代から才能の片鱗を現していました。

 

 

1950年に早稲田大学理工学部建築学科卒業後、竹中工務店へ入社。

 

1952年に村野・森建築建築設計事務所を経て、1953年に自身の事務所を開設しました。

 

 

 

黒川紀章らとともに建築と都市の新陳代謝、循環更新システムによる建築の創造を図ろうとするメタボリズムを提唱。

 

 

このメタボリズムは、

 

建築は永久的なものでは無いから、人間が新陳代謝し続けるように、建築も新しいものを常に作り続けよう

 

というような考えです。

 

 

 

 

2000年にユーゴスラヴィア・ビエンナーレにて

 

今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれています。

 

 

 

特に有名なのは、デビュー作の自邸『スカイハウス(1958)』です。

明快な構成と完成度の高さで注目を集めました。

 

スカイハウス 外観出展:白石建設株式会社

▲『スカイハウス』の外観。4枚の鉄筋コンクリートに壁柱によって居住スペースを浮かせている。

 

スカイハウス リビング出展:白石建設株式会社

▲RC造により壁の無いリビング。この考えはル・コルビュジェのドミノシステムによるもの。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
日本における優れた近代建築だけが選ばれる『DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築』に選定されてますにゃ。同潤会アパートは第一号として、こちらに選定されてるんにゃー

 

 

 

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▼時代は移り変わる。家具はどうだ▼

 

 

▼『軽さ』という着け心地▼



 

 

お疲れ様でした。

 

 

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

 

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