こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「バウハウスってどんな家?」
- 「デザインの学校に通っていた、もしくは通ってみたい。」
という方々に向けて
バウハウスとは何か?について分かりやすく画像で解説します。
バウハウス
出典:Domus
▲モダニズム建築の代表作である『バウハウス・デッサウ校』(1926年)
バウハウスは、1919年にヴァルター・グロピウスによってドイツのワイマール(ヴァイマル)に創設された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った国立の学校です。
▲現在も残っている『バウハウス・ヴァイマル校』の校舎。アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデが1911年に設計を行った『工芸学校(後述)』の校舎がそのまま使用された。
無駄な装飾を廃して合理性を追求するモダニズムの源流となった教育機関で、現代では当たり前となった「モダン」と呼ばれる建築やプロダクトデザインの基礎を作り上げました。
バウハウスが実際に学校として存在していたのは、1933年にヒトラー率いるナチス・ドイツからの圧力により解散に追い込まれるまでの14年間でしたが、他に類を見ない先進的な活動は、絵画、彫刻、諸工芸、建築などあらゆる分野に大きな影響を与えたのでした。
ヴァルター・グロピウス
ヴァルター・グロピウス(1883年 – 1969年)は、モダニズムを代表するドイツの建築家でありバウハウスの創立者、また初代校長でもあり、近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人に数えられます。
▼ル・コルビュジエはこちらで紹介しています▼
▼フランク・ロイド・ライトはこちらで紹介しています▼
グロピウスは20歳から24歳までミュンヘンとベルリンの工科大学で建築を学び、卒業後は、ドイツ工作連盟のメンバーであり建築家・デザイナーの「ペーター・ベーレンス」のもとで建築を学びました。
▼ドイツ工作連盟?ペーター・ベーレンス?ならこちらから▼
このペーター・ベーレンスの建築事務所での在籍は1908年から1910年の2年間でしたが、ここではミース・ファン・デル・ローエやル・コルビュジエといった、後に偉大な建築家となる仲間たちと肩を並べていた(※)のだから驚きです。
(※ミース・ファン・デル・ローエの在籍は1908年から1912年、ル・コルビュジエの在籍は1910年から約1年間ほど)
またペーター・ベーレンスと同様にグロピウスもドイツ工作連盟に参加すると、1911年には『ファグスの靴型工場』を設計し、後のバウハウス校舎を思わせる鉄とガラスを用いた建築で、初期モダニズムの傑作と呼ばれました。
▲『ファグスの靴型工場』(1911年)は、ドイツ初期モダニズム建築として2011年に世界遺産リストに登録された。
出典:mapio.net
▲増築や改装を繰り返し、現在の建物となったのは1925年のこと。なんと現役の靴型工場として変わらず操業中だとか。
1915年、ヴァルター・グロピウスが32歳の時に、ベルギーの建築家でありドイツ工作連盟の中心人物のひとりであったアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデから、バウハウスの前身でありヴェルデが設立して校長を務めていたドイツ・ヴァイマルの『工芸学校』を後継者として受け継ぎました。
▲グロピウスがアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデから託された『工芸学校』の校舎。1919年にバウハウスが開校すると『バウハウス・ヴァイマル校』として利用された。
工芸学校は、1919年に同じ場所にあった美術学校と統合されて『ヴァイマル国立バウハウス』として開校すると、グロピウスはバウハウスの初代校長となりました。
Walter Gropius Office pic.twitter.com/vsdQEYYSih
— Bauhaus Movement (@BauhausMovement) December 20, 2019
▲グロピウスによってデザインされた 『バウハウス・ヴァイマル校の校長室のインテリア』(1923年)はモダンデザインによって統一された空間であり、バウハウスの記念碑的作品とされる。ペンダントランプはデ・ステイルのヘリット・トーマス・リートフェルトがデザインしたもの。
▼アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデと工芸学校はコチラ▼
▼デ・ステイルとヘリット・トーマス・リートフェルトはコチラ▼
やがてバウハウス・ヴァイマル校が閉鎖されると、1925年にバウハウスはデッサウに移転され『デッサウ市立バウハウス』となりました。
『バウハウス・デッサウ校』(1926年)はグロピウスによって設計され、初期モダニズム建築の貴重な作品として世界文化遺産に登録されています。
出典:Domus
▲バウハウスはヴァイマル校が閉鎖した為、1925年にデッサウに移転することになった。「カーテン・ウォール」と呼ばれる一面ガラス張りの外観は当時としては最先端の建築デザインであり、世界を驚かせた。『バウハウス・デッサウ校』(1926年完成)
グロピウスは1928年にバウハウスの校長を退くと、その後はドイツで集合住宅の建築を行います。
イギリスへの亡命を経た1937年、アメリカのハーバード大学に講師として招かれたグロピウスは、後にミッドセンチュリーを代表する建築家となるフィリップ・ジョンソンを育てるなど、大学での教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に尽力したのでした。
▼ミッドセンチュリーの建築家フィリップ・ジョンソンはコチラ▼
ミース・ファン・デル・ローエ
出典:CONMOTO
ミース・ファン・デル・ローエ(1886年 – 1969年)は、モダニズム建築を代表するドイツ人建築家で、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠、あるいは、ヴァルター・グロピウスを加えて、四大巨匠と呼ばれる建築史に残る偉大な巨匠です。
1886年、ミースはドイツのアーヘンで墓石や暖炉を扱う石職人の息子として生まれました。
若かりし頃は大学で専門的な建築の教育を受けることはなく、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けた後、漆喰装飾のデザイナーとして働きます。
1908年、22歳の時にヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエらと共にペーター・ベーレンスの設計事務所で建築を学び、26歳で独立すると自身の個人事務所を設立します。
1927年にはペーター・ベーレンス、ヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエ、ブルーノ・タウトらとともにドイツ工作連盟主催の『シュトゥットガルト住宅展』に参加し、集合住宅を建設しました。
出典:BAUHAUS Kooperation
▲シュトゥットガルトの集合住宅。17人の建築家が計21棟の住宅を建築し、ミースは4棟を担当した。
1929年、バルセロナ万国博覧会でドイツ館としてデザインされた『バルセロナ・パヴィリオン』は、鉄と石とガラスで構成されたモダンデザインの傑作として有名です。
出典:Pinterest
▲『バルセロナ・パビリオン』は一般向けの展示施設では無く、スペイン国王を迎えるためのレセプションホールだった。博覧会開会の1週間後にスペイン国王を迎えて、セレモニーが行われている。
出典:Utility
▲石材にはオニキス、緑色テニアン大理石、トラバーチンと非常に高価な素材が使用されている。
出典:Pinterest
▲バルセロナ・パヴィリオンのためにデザインされたバルセロナ・チェアはモダンデザインの傑作チェアとしてあまりにも有名。スペイン国王のセレモニーには製作が間に合わなかったそう。
このパヴィリオンは博覧会終了後に取り壊されましたが、1986年に同じ場所に復元され、現在は『ミース・ファン・デル・ローエ記念館』となっています。
バウハウスの第3代校長を務めたミースは、ナチスドイツによってバウハウスを閉校に追い込まれた後アメリカに亡命し、1969年に死去するまで精力的に活動を続けると数多くの作品を遺しました。
B42(MRチェア)
出典:TECTA
1927年、ドイツ工作連盟主催の住宅展覧会「ヴァンセンホーフ・ジードルング」でミースが発表したのが『B42』で、ドイツの家具メーカー「TECTA (テクタ)」から発売されました。
B42には片側だけで荷重を支える構造である「カンチ(カンティ)レバー構造」が取り入れられていて、重力から解放されたような軽快感を感じるデザインが特長です。
また、スチールパイプを大きな円弧を描いたデザインとしたことで、それまで冷たく固いイメージであったスチールパイプにエレガントな美しさと温かみが加えられています。
シートにはラタン(籐:とう)を編み込んだ仕上げとなっていて、アームが付いた『D42』というアームチェアもあります。
出典:TECTA
▲TECTA社から販売されているアームチェア「D42」
ニューヨークの家具メーカー「Knoll(ノル)」からは、ミース・ファン・デル・ローエのイニシャルの頭文字をとった『MRチェア』という名称で販売されていて、アームレスチェアを『MR10』、アームチェアを『MR20』と呼び、こちらは牛革仕様からも選ぶことができます。
出典:Knoll
▲Knoll社から販売されているアームレスチェア『MR10』
バルセロナチェア
出典:FLYMEe
1929年、スペインで開催されたバルセロナ万国博覧会で、ドイツ館の設計依頼を受けたミース・ファン・デル・ローエがスペイン国王アルフォンソ13世夫妻のためにオットマンと共にデザインしたのがバルセロナチェアです。
このバルセロナチェアの最大のポイントは、脚部のエックス型のフレームデザインにあります。
通常金属製の椅子の脚部は、スチールパイプを垂直に立てて座面を支えるような形状が取られますが、バルセロナチェアはスチールバーを使用して溶接して仕上げることにより、流れるような曲線でエックス型の脚部デザインを実現し、無駄のない完璧なフォルムを生み出しています。
▲フレームのクロムスチールは職人の手で丁寧に磨かれ、シートクッションと背もたれのクッションはフレームのカーブにフィットするようにデザインされている
ミースの「God is in the details(神は細部に宿る)」という言葉の通り、細部までこだわり抜いて作り上げられたデザインとなっているバルセロナチェア。
特徴的なエックス型のレッグデザインは、古代ギリシャの腰掛である「ディフロス」をモチーフにしたとも言われています。
▼古代ギリシャの折りたたみスツール『ディフロス』はコチラ▼
バルセロナチェアはMoMA(ニューヨーク近代美術館)にも永久コレクションされていて、その特徴的なデザインは今日さまざまな場面で見られます。
出典:The STUDY
▲注意してみると映画などでもよく使用されているのを目にする。『007 カジノ・ロワイヤル』(2006)
ファンズワース邸
出典:Divisare
▲シカゴのダウンタウンから車で1時間半ほどのプラノという街にある『ファンズワース邸』は、周囲にトウモロコシ畑が広がり、目の前に川の流れる緑豊かな場所にある。
ファンズワース邸は、ミース・ヴァン・デル・ローエによって1945年から6年の年月をかけてアメリカ・イリノイ州に建てられました。
依頼主はシカゴの有名な腎臓内科医である「エディス・ファンズワース」で、彼が週末にバイオリンを弾いたり、詩を翻訳したり、自然を楽しむための隠れ家、別荘として使用されたそうです。
四方をガラスで囲まれたモダンなデザインのファンズワース邸は、ミースの最も代表的な建築のひとつです。
▲ 稀に洪水に見舞われる敷地であったことから地上1.5mの高床の建築になっていて、これが鉄とガラスでできたファンズワース邸の浮遊感と室内からの眺望を生み出している。
▲室内は「ユニバーサル・スペース」と呼ばれる柱のないオープンな空間となっていて、水回りやキッチンを建物の中央に配置した間取りになっている。ユニバーサル・スペースはモダニズム建築の理念の一つで、内部空間を一つの使い方に限定せず、自由に使えるようにしたもの。
出典:Divisare
▲ファンズワースからの設計料が支払われないためミースは訴訟を起こし、ファンズワースもこんな家には住めないとミースを訴えた。どちらの訴訟もミースが勝訴したが、裁判で疲弊したミースはその後個人住宅を手がけることはなかった。
マルセル・ブロイヤー
マルセル・ブロイヤー(1902年 – 1981年)は、ハンガリー出身の20世期を代表するモダニズムの建築家であり、家具デザイナーです。
1902年にハンガリーのペーチという街で生まれたブロイヤーは、18歳で故郷を離れるとウィーンの美術アカデミーで建築について学びました。
アカデミー卒業後、ブロイヤーはバウハウスの一期生としてヴァルター・グロピウスに師事すると、最年少でありながらもバウハウスで最も優秀な学生の一人としてすぐに才能が認められます。
1925年にバウハウスのヴァイマル校が閉鎖となりデッサウ校に移転すると、教官(マイスター)として加わり、新設された建築学科で教鞭をとりました。
▲マルセル・ブロイヤーはジュニアクラスにも教えていた。(1926年頃のバウハウス・デッサウ校にて)
バウハウスを退職した後、彼はベルリンで個人事務所を開業し、住宅や商業施設のデザインを手掛けます。
この時期に、ブロイヤーはスチールパイプを使用した家具コレクションの傑作である『ワシリーチェア』と『チェスカチェア』をデザインしました。
ワシリーチェア
ブロイヤーの最も知られている作品は、スチールパイプが使用された世界最初の椅子である『ワシリーチェア』です。
このパイプ椅子は1925年に自転車のハンドルに着想を得て、画家であるワシリー・カンディンスキーの為にデザインされました。
出典:RTF
▲ワシリーチェアに腰掛けるブロイヤー。自転車用の工具を使って簡単に組み立て・分解が可能。
この当時、椅子というものは木材を使用して作られる事が一般的でした。
そこにスチールパイプ(金属)を用いたという事がまず画期的で、まだ工業用の素材であった金属を家具の素材として利用したことで安価に、軽く、そして大量生産が可能な製品へ導く基礎を作ったというわけです。
この作品の後からル・コルビジエやミース・ファン・デル・ローエといった世界の大物デザイナーが家具にスチールパイプを使い始めたことを鑑みれば、いかにこのワシリーチェアがデザイン界に与えた功績が大きいかが伺い知れます。
出典:free3D
▲ワシリーチェアは今もバウハウス・デッサウ校に置かれている
チェスカチェア
チェスカチェアは1928年にデザインされた、ワシリーチェアと並ぶブロイヤーの代表的な作品で、ブロイヤーの娘のフランチェスカにちなんで名付けられました。
カンチレバー構造の名作として様々なシーンで利用されていて、「最も有名な金属製チェア」の1つにも数えられるほどの作品です。
カンチレバー構造とは「片持ち構造」のことで、通常は4本ある椅子の脚ですが、手前の2本のみで支え、椅子の奥が浮いたような状態になっている構造のことです。
後脚のない構造なので、腰を下ろした時の適度な弾力性によって快適な座り心地を実現していて、一本の屈強なスチールパイプがその荷重を支えています。
出典:LEXUFUR
▲チェスカチェアにはアームチェアタイプもあり。アメリカの家具メーカー『Knoll(ノル)』から販売されている。
▲ミースにとって初めてのコンクリート建築物となったパリの『ユネスコ本部』(1953年)
▲『ユネスコ本部』のファサード。多くの建築家は「彼はコンクリートで“柔かさ”を表現した」と評した。
ナンタルカのまとめ
■バウハウスとは
1919年に(①)によってドイツの(②)で創設された国立芸術学校バウハウスは、デザイン教育として近代機能主義の発展に寄与した。しかし急進的な理念のために当時の政治情勢に受け入れられず、1925年に(③)で市立学校として再開校するが、その後1933年にナチス・ドイツによって閉校を強いられた。
■バウハウスのデザイナー
(1)バウハウスを代表するデザイナーとしては「Less is more.」という言葉を残した(①)がいる。1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館に置かれた(②)や、アメリカ・イリノイ州に建てられた別荘で四方をガラスで囲まれた(③)はあまりにも有名。
(2)ハンガリー出身の建築家であり、バウハウスの1期生としてヴァルター・グロピウスに学び、デッサウ校では教官として教鞭を執ったのは(①)である。1925年に自転車のハンドルに着想を得て、デザインされた(②)や、カンチレバー構造の名作として「最も有名な金属製チェア」の1つに数えられる(③)などの作品を残した。
お疲れ様でした。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
分かりにくい点やお気づきのことがあればメールでご連絡ください。
では、次回もお楽しみに!
▼次回、アール・デコのインテリアはこちらから▼