こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「とにかく古いものに興味がある。」
- 「古代の暮らしに想いを馳せることがある。」
という方々へ向けて、
旧石器時代〜縄文・弥生・古墳時代の暮らしついて、分かりやすく画像付きで解説していきます。
旧石器時代の暮らし
出典:酒々井町
旧石器時代(きゅうせっきじだい)とは、石器と呼ばれる「石で作られた道具」を使用されはじめた時代のことです。
地球上では現在から約200万年前のことと言われています。
日本における旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきた時にスタートしました。
その時期、約38,000年前、、、。
人類は大陸と陸続きになっていた氷河期に、獲物を求めて日本列島へ渡ってきました。
出典:日本の歴史
▲約2万年前の日本列島の様子。海面は今よりも100~140mほど低く、北海道と樺太島が繋がっていた。北海道と青森は完全にはつながっておらず、冬は凍結し歩いて渡れたと考えられる。
人類が日本列島へ移住してから、縄文時代がはじまりを迎える約16,000年前までの22,000年間を旧石器時代(無土器時代、先土器時代、岩宿時代とも)といいます。
ちなみに石器時代は石器の製作方法によって「旧石器時代、中石器時代、新石器時代」の3つに大別され、その最も古い時代を旧石器時代と呼んでいるのですが、ここまで細かく試験には出ないので覚えなくてもいいです。
旧石器人の遺跡は見晴らしの良い台地で見つかることが多いのですが、洞穴や岩陰を住みかとしているものもいれば、定住せずに住みかを移動しながら採取や狩猟生活をしていた旧石器人もいて、まさに人それぞれって感じだった様です。
▲血縁で結びついたおよそ20~30人前後の小集団で生活していた人々の住居。簡単な皮製の屋根をかけたテント式住居や洞穴に住み、移動しながら生活していた。大型動物などの狩猟と木の実やイモなどの植物採集を生業としていた。
まだ少ないながら、この旧石器時代の後期には竪穴住居が作られるようになり、大阪にあるはさみ山遺跡の住居跡が有名です。
はさみ山遺跡では、現在わかっている日本最古の住居跡で、そこでは旧石器時代後期の住居の構造が明らかになりました。
出典:Twitter
▲プロ野球選手の自宅を建築する際に出土したはさみ山遺跡。日本史の資料集に掲載された。
竪穴住居の作りは、木材を組み木にして草や動物の皮で覆ったもので、直径6mほどの円形竪穴住居が多かったようです。
この住居内からはナイフ型の石器などの破片がたくさん出土され、調理・暖房・灯りのために火を使っていた痕跡も残されています。
死者を埋葬するお墓もこの時期に発見されていて、墓内には生前の装身具や石器、玉などが副(そ)えられました。
縄文時代の暮らし
旧石器時代が終わると、縄文時代がやってきます。
縄文時代のはじまりは、今から約16,000年前ごろからとされていて、以下のような旧石器時代との違いが見られるようになってからを、縄文時代と呼んでいます。
■竪穴住居の普及と定住化の始まり
■土器と弓矢の発明
■貝塚の形成
■磨製石器の発達
縄文時代は、水田稲作や金属器の使用を特徴とする弥生文化が登場する、今から約3,000年前までの約13,000年間の期間を指します。
竪穴式住居(竪穴住居)
出典:フォートラベル
▲青森県の「三内丸山(さんないまるやま)遺跡」は、約5,500年から4,000年前に存在していた、日本最大級の縄文時代の集落跡。国特別史跡に指定されている。
竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)は、地面を円形や方形に掘り下げ、その中に複数の柱を建て、柱と柱を梁や垂木の横架材(おうかざい:水平方向に架け渡される部材)でつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、もしくは葦(わら)などの植物で屋根を葺いた建物のことをいいます。
なお、竪穴式住居は「竪穴住居」(たてあなじゅうきょ)と表記することもありますが、同じ意味なので特に気にしなくても大丈夫です。どっちでもいいです。
出典:文化財保護課・郷土資料館
▲埼玉県の花積貝塚で発見された縄文時代中期の竪穴式住居の復元模型
竪穴住居の普及は特に関東地方に顕著に見られ、現在までに出土した遺跡数は65ヶ所、その数は300棟を超えています。
そのうちで最大規模は東京都府中市武蔵台遺跡で、24棟の竪穴住居の跡がまとまって見つかっています。
出典:STAYNAVI
▲東京都にある武蔵台東遺跡で発見された「縄文時代の敷石住居跡」。約4,000年前の縄文時代中期に使われていた住居で、当時の生活様式を見ることができる。
日本の竪穴住居は旧石器時代の後期から造られ始めたと考えられていて、縄文時代に入ると盛んに造られるようになり、弥生時代以降になってもずーっと作られ続けました。
その後、農家や民家を中心に竪穴住居自体は平安時代ごろまで造られ続けました。
貝塚
出典:いばナビ
▲茨城県の「陸平(おかだいら)貝塚」は日本屈指の規模を誇る貝塚遺跡で、今から約7,000年前~3,500年前の縄文時代のもの
貝塚(かいづか)は海の近くに居住する住人が、日々の食事で大量に出る貝殻を他の生活廃棄物と一緒に捨てて堆積した特定の場所をいいます。
長年に渡って捨て続けたものが堆積していて、貝塚からは土器の破片や人骨なども見つかっています。
縄文時代の貝塚は日本列島で約2,500カ所発見されていて、全体の4分の1くらいは東京湾に集中、特に千葉県での発見が多いです。
日本における貝塚の本格的調査研究は、1877年にアメリカ人動物学者のエドワード・S・モースが列車の窓越しに発見した大森貝塚の発掘調査から始まりました。
大森貝塚は現在の東京都品川区で、当時の鉄道建設中の掘削工事によって貝殻が混じった土手が露出していました。
出典:大田区の歴史
▲モースが貝塚を発見した明治10年(1877)は、品川から横浜までの鉄道開通5年後のこと。横浜から新橋に向かう途中の大森駅付近で、モースは写真のように鉄道建設のため削られた斜面に貝が大量に露出しているのを見た。多くの日本人が同じ風景を見ていたが、縄文人が捨てた貝の堆積した跡だとは誰もわからなかった。
大森貝塚は縄文土器が初めて発見された場所でもあり、このモースの業績によって大森貝塚は有名な遺跡となり、「日本の考古学の発祥地」とも呼ばれるようになりました。
縄文土器
▲新潟県の笹山遺跡で発見された「火焰型(かえんがた)土器」は炎を象ったかのようなデザイン
誰もが聞いたことがある縄文時代のアイテムと言えば、やはり『縄文土器(じょうもんどき)』ではないでしょうか。
そもそも『縄文』とは、この時代の人々が土器に縄目(なわめ)文様をつけたことから名付けられています。
縄文土器は、粘土に鉱物を混ぜた土をこねこねして自由な形をつくり、文様(もんよう)を付けてから600〜800℃の低温で野焼きして完成させます。
この時代の人々がどのようにしてこのような製作方法を編み出すに至ったかは明確には分かっていませんが、粘土が溶けることで硬く固まるという化学変化を利用した土器は「人類初の化学製品」でもありました。
出典:なんでも鑑定団お宝情報局2
▲縄文時代の土器すべてが縄目文様を施すわけではなく、製作地域や時代によって形状は大きく異なる
縄文土器は大きさも装飾文様もさまざまだったので、食料資源の調理・加工や盛り付け、祭祀目的など、使い方は実に多種多様であったと考えられています。
三内丸山遺跡
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/三内丸山遺跡
青森県で見つかった三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、縄文時代最大の遺跡で5,500〜4,000年前までの1,500年の間に500人ほどが定住していたと推定されています。
三内丸山遺跡の集落跡からは、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型の六本柱建物が存在したと想定されています。
六本柱建物跡は、三内丸山遺跡で検出された遺構の中で最も重要視されているもので、その柱の大きさに驚かされることも多いですが、注目すべきは柱の穴の直径、深さ、幅の正確な寸法です。
柱の穴は直径約2メートル、深さも約2メートル、柱と柱の間隔が4.2メートルという寸法で、ぴったりと統一されていたのです。
これは、ここに住んでいた縄文人たちが既に「測量の技術」を有していた可能性を示すものでした。
出典:東奥日報
▲復元された六本柱建物跡。当時の建物には屋根があったとも、装飾されていたとも、想像される。
特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルという単位は三内丸山遺跡以外の遺跡でも確認されていて、縄文時代に「縄文尺」とも言うべき長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性も考えられています。
そして六本柱建物跡から出土した直径1メートルのクリの木の柱には、腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されていて、これが長い間腐食を防ぐことのできた一因となっています。
また、三内丸山遺跡は他の遺跡に比べて土偶(どぐう)の出土が多く、板のように薄く造られていている板状(ばんじょう)土偶などが発見されました。
出典:PR TIMES
▲重要文化財で板状土偶としては日本最大級の「大型板状土偶」(青森市・三内丸山遺跡出土)
板状土偶は縄文時代早期に出現し、縄文中期以降、特に東日本を中心に発達しました。
女性をかたどったものが多いことから、出産を助け、邪気や疾病を配して活力をもたらすなど、神聖かつ呪術的な性格の強い道具であると考えられています。
【2021年7月27日追記】
三内丸山遺跡は「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、世界文化遺産に登録されることが決まりました。
この縄文遺跡群に含まれるのは、三内丸山遺跡の他に「大湯(おおゆ)環状列石」(秋田県鹿角市)、「キウス周堤墓(しゅうていぼ)群」(北海道千歳市)などの17遺跡からなります。
出典:朝日新聞デジタル
弥生時代の暮らし
時代が流れ、縄文時代から弥生時代(やよいじだい)へ。
弥生時代は紀元前10世期ごろから、紀元前3世紀中頃までを指します。
縄文時代の終わりに伝わった水稲耕作(すいとうこうさく)が盛んになり
生産経済の時代の幕開けとなりました。
ちなみに北九州地方が「最も初期に水稲耕作が始まった場所」と言われています。
争いのはじまり
出典:小学館「学習まんが 日本の歴史」より
弥生時代は大きな争いや村同士の戦争がはじめて起こるようになった時代でもあります。
大きな争いの中でも代表的なのが、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡です。
弥生時代中期に村が形成され、後期に戦争により集落が廃絶したと思われ、集落の東側にある溝から100人以上の殺傷痕が含まれる人骨が発見されました。
発見された人骨は老若男女無差別で殺害され、首が無い人骨や武器が突き刺さったままの人骨があったり、多くはほぼ即死だったと推測されます。
死体は埋葬される事無く、溝の中に折り重なるように遺棄されていました。
当時の集落では、このような他の集落などからの攻撃や襲撃に備えるため、集落の周りに穴を掘った壕(ごう)をめぐらせた環濠集落(かんごうしゅうらく)や、高地に集落を構える高地性集落など、戦争や侵略に対するさまざまな対策を行っていました。
出典:城跡酔夢譚
▲V字型に深く掘られた総延長約2.5kmの外壕と内豪という二重の環濠によって守られている佐賀県の環濠集落『吉野ヶ里遺跡』
縄文時代には無かった争いが起こった原因は『稲作』にあると言われます。
縄文時代までは、狩猟採集社会だったので食べ物は自然の恵みで、採れたものは皆んなで分け合って食べていましたが、弥生時代から稲作の技術が入ると人びとは効率的に食糧を生産することができるようになりました。
すると人びとは次第に食糧を管理し、そこからみんなの共有物だった土地に境界線として縄が張られるようになってしまったのです。
これが『縄張り』です。
このようにして、弥生時代に奪い合いや殺し合いが生まれてしまいました。
吉野ヶ里遺跡
出典:ZEKKEI JAPAN
▲佐賀県『吉野ヶ里遺跡』に残る、117ヘクタールにもおよぶ大規模な環濠集落
佐賀県東部の吉野ヶ里丘陵周辺では、1986年に吉野ヶ里遺跡が発掘されました。
100軒以上の竪穴住居、18棟の高床式倉庫(たかゆかしきそうこ)があり、土器や鉄製農工具、青銅器、鉄器や織物が発見されています。
出典:sweet map
▲湿気やネズミなどの害を防ぐ為に床が高く造られ、稲やとうもろこし、小麦などを蓄える倉として使用された高床式倉庫
高床式倉庫は穀物を蓄えるためのとして倉庫です。
風通しがよく、湿度の高い日本の気候でも保管している作物が腐りにくくなっていて、高床式倉庫の足には「ねずみ返し」と呼ばれる害獣が登ってこれない「返し」をつけて対策しました。
出典:奈良の宿 料理旅館大正楼
▲ネズミなどが登ってこれないようにしている「ねずみ返し」
▼神社建築についてはこちらの記事からご紹介▼
弥生土器
▲弥生時代になると、壺、甕、高坏といった様々な形態の土器が定着する。壺は貯蔵用、甕は煮炊用、高坏は供膳用と用途によって使い分けていた。埼玉県の『塩谷平氏ノ宮遺跡』出土(弥生時代後期)
1884年、東京都文京区弥生にある向ヶ丘貝塚(むかいがおかかいづか)から素焼きの土器が発見されます。
この土器はこれまでに発見されていた縄文土器とは異なった特徴を持っていて、当時の調査チームは首をかしげたそうです。
縄文時代より上の地層で見つかったこの土器は、発見された地名から「弥生土器(やよいどき)」と名付けられました。
▲東京都文京区弥生町で見つかった弥生土器。櫛で引っ掻いた文様が見える。
弥生土器は、縄文土器にくらべて明るく褐色で、薄くて堅いことが特徴です。
このような色調や土器の厚みの違いは、縄文土器が焼成時に野焼きをするのに対して、弥生土器は藁(わら)や土を土器にかぶせる焼成法を用いたことに由来します。
このようにすると、焼成温度が一定に保たれて、縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと言われています。
出典:邪馬台国
▲縄文土器は上から藁や薪を被せてそのまま野焼きにするが、弥生土器は藁を被せたその上にさらに泥をかぶせて野焼きした。泥により熱が逃げずに窯の役割を果たし、良好な焼き上がりを実現できた。
弥生土器は強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたので、土器の表面に大粒の砂が露出しているのがみられることもあります。
また、弥生土器の形状は縄文土器と比べて形や文様がとても簡素でシンプルでさらに実用的になり、回転台を使ってつくられたことと、普及し始めた鉄器で作られた櫛(くし)で文様を描いたことも特徴的です。
登呂遺跡
出典:womo
▲登呂遺跡は静岡県にある弥生時代後期の水田遺跡。現在も周囲は水田に囲まれている。
登呂(とろ)遺跡は、太平洋戦争真っ只中の昭和18年、静岡市駿河区での軍需工場建設中に発見された弥生時代後期の水田遺跡です。
約8ヘクタールにも及ぶ大きな水田や、保管用の高床式倉庫、住居や井戸が発見され、鍬(くわ)や田下駄(たげた)などの農耕道具、狩猟道具、海で漁をするための舟や、火起こし道具、機織機(はたおりき)、占いに使用されたとみられる骨も見つかりました。
当時の暮らしを現代に伝えるものとして大変貴重な遺跡です。
古墳時代の暮らし
弥生時代後期、縄張り争いから始まった集落や地域での争いが繰り返され、規模が大きくなった集落に「王(きみ)」や「大王(おおきみ)」と称した権力者が現れてきました。
3世紀後半になると「ヤマト王権(大和政権、大和朝廷)」が日本国家を統一したところで弥生時代が終わります。
このヤマト王権による日本国家統一により弥生時代が終焉を迎え、飛鳥時代が到来する7世紀ごろまでを古墳時代(こふんじだい)と呼びます。
ヤマト王権とは、弥生時代に日本各地に点在していたいくつかの村が、争いを繰り返しながら吸収・合併・支配を行い、次第に現れてきた有力な氏族(しぞく、うじぞく)(※)たちが権力を持ち、それらが連合して成立した政治組織のことです。
※氏族(しぞく、うじぞく)とは
同じ祖先を持つ、血で繋がった血縁者、血縁集団のこと。
もともと弥生時代にあった村も血縁者のつながりから発展し、大きく成長しました。
「数々の氏族が集まって作られた政治組織」がヤマト王権です。
ヤマト王権があった場所については諸説ありますが、現在の大阪平野や奈良県北部などの大和地方の説が有力ですが、卑弥呼で有名な邪馬台国九州説では九州の国がまわりの国を従えたと言われており、いまだに論争に決着がついていません。
出典:マイナビ家庭教師
▲鉄剣に刻まれていたワカタケル大王とは第21代天皇『雄略(ゆうりゃく)天皇』の説が有力で、実在した最古の天皇とも言われる。雄略天皇は朝鮮半島南部の支配権を認めてもらおうと中国に使者を送ったり、即位後も人を処刑するなど血の気が多かったため「大悪天皇」と言う悪名がある。
ヤマト王権の場所がよくわかっていない理由には、当時中国から「倭国(わこく)」と呼ばれていた日本に関する記述が、中国の歴史文献からこの期間だけすっぽりと抜け落ちていて、日本で何が起こっていたのかさっぱり分からないのです。
出典:弥生ミュージアム
▲魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。日本列島にいた民族「倭人」の習俗や地理などや卑弥呼についてのこと、大体238年〜266年頃までの事柄が記載されている。
このすっぽりと抜け落ちた謎の266〜413年の期間は『空白の4世紀』とよばれています。
古墳とは
▲古墳造りの様子の想像図
古墳(こふん)は歴史の授業とかで聞いたこともある人が多いと思います。
古墳とは位の高い人や権力者のお墓で、小さいものからめちゃめちゃ大きいものまでサイズやカタチもさまざまです。
古墳から出土する副葬品には鏡、玉、剣、武具や馬具が多く、埴輪(はにわ)が出土するものもありました。
出典:下野市
▲6世紀後半に造られた栃木県『甲塚(かぶとづか)古墳』から出土した埴輪
日本では弥生時代にすでに古墳と似たようなスタイルのお墓が存在していたことが判明してきたため、現在では「前方後円墳(※)が出現した時代以降の墓」を『古墳』と呼んでます。
※前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)とは
3世紀半ばから7世紀ごろにかけて作られた、上から見ると鍵穴(かぎあな)のようなカタチをしている古墳のこと。
北海道・青森県・秋田県、沖縄県以外の日本全国に分布していて、その数は4,800〜5,200基にも及ぶ。
円形の部分を「後円部」、角形の部分を「前方部」と呼び、それらがつなぎ合わさる部分を「くびれ部」と呼んでいる。
出典:ニッポンドットコム
▲大阪府堺市にある日本最大の古墳『大仙陵古墳』(5世紀頃)は代表的な前方後円墳
出典:文化遺産の世界
▲前方後円墳の完成想像図。周囲にはさまざまな埴輪が並べられていたと考えられている。
ちなみに中国にも古墳が存在しますが、中国大陸から日本へ伝わってきたのか、それとも日本で誕生して独自に発展したのか、明確には分かっていません。
ナンタルカのまとめ
■旧石器時代
旧石器時代後期からみられる、地面を掘り下げて柱を建て、柱を横架材でつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土や葦などの植物で屋根を葺いた住居を(①)という。
■縄文時代
青森県で見つかった(①)は縄文時代最大の遺跡で、2021年に「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録されることが決まった。
■弥生時代
弥生時代の大規模な環濠集落跡で知られる佐賀県の(①)では、100軒以上の住居と穀物を蓄えるための(②)が見つかっている。
■古墳時代
3世紀半ばから7世紀ごろにかけて日本全国で作られた、上から見ると鍵穴のようなカタチをしている権力者の墳墓のことを(①)という。
お疲れ様でした。
ここまでご覧いただき有り難うございます。
わかりにくい所や、ご質問などあればお問い合わせよりご連絡ください。
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