どうも、しけたむです。
この記事では
- 「ドイツ工作連盟ってテキストにあるけど、何なん?」
- 「ブルーノ・タウトって名前だけは聞いたことがあるんだけど・・・。」
という方々に向けて
ドイツの産業育成を目指して集まったドイツ工作連盟の活動やメンバーについて、分かりやすく画像で解説します。
ドイツ工作連盟とは?
▲1914年にケルンで行われた工作連盟展のポスター。ペーター・ベーレンスやブルーノ・タウトらの建築が展示され注目を集めたが、第一次世界大戦が迫っていたため予定より2ヶ月早く終了した。
ドイツ工作連盟(こうさくれんめい)は1907年にドイツで設立された団体で、機械生産による工業製品の質的・デザイン的向上を図り、ドイツの産業振興を目指した連盟です。
ドイツ工作連盟の活動は「インダストリアルデザイン(※)の始まり」であり、メンバーの一人であるヴァルター・グロピウスがドイツのヴァイマルに設立した芸術学校『バウハウス』は、ドイツ工作連盟の理念に大きな影響を受けています。
※インダストリアルデザインとは
機械生産による大量生産可能な工業製品のデザイン、それらを使用した建築・インテリアのこと。
または工業製品を人間にもっともよく適合するように計画し、デザインする創造的活動のことでもある。
▼バウハウスはこちらの記事にてご紹介▼
ドイツ工作連盟はヘルマン・ムテジウスによって結成され、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(ウィーン分離派にも所属)、ペーター・ベーレンス、ヴァルター・グロピウス、ブルーノ・タウトら多くの建築家、デザイナーらが参加し、モダンデザインの発展の上で大きな足跡を残しました。
▼ウィーン分離派とヨゼフ・マリア・オルブリッヒはこちらの記事にて▼
ヘルマン・ムテジウス
▲ヘルマン・ムテジウスはドイツの建築家。明治時代の日本へ赴き、建築技師として従事した。
ヘルマン・ムテジウス(1861年 – 1927年)はドイツの建築家、編集者、作家でもあり、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動から影響を受けドイツ国内にその運動を宣伝した人物として有名で、バウハウスのようなドイツの初期モダニズム建築に大きな影響を与えました。
ムテジウスは1861年にドイツの小さな村で生まれ、建築家であった父親から建築を学ぶと、22歳でシャルロッテンブルク工科大学で進学し、卒業後はドイツ国会議事堂を設計した建築家「パウル・ヴァロット」の建築事務所に入所します。
その後、ムテジウスは明治時代の日本へやってきて、1887年から1890年まで東京のドイツの建設会社エンデ&ベックマンで建築技師として働いていました。
出典:近代文化遺産見学案内所
▲官庁集中計画として建てられた東京都霞ヶ関にある『法務省旧本館 赤煉瓦棟』もその成果の一つ
日本で建築活動に従事した後、ぐるっと日本観光を行ったのちに1891年にドイツに戻り、住宅雑誌の編集者を務めました。
ムテジウスは住宅建築と家庭のライフスタイルとデザインを調査し、1904年に最も有名な作品である『イギリスの住宅』という三部作からなるレポートを出版し、アーツ・アンド・クラフツをドイツへ紹介した人物として知られるようになります。
出典:invaluable
▲イギリスのアーツアンドクラフツ運動の哲学と実践に興味を持っていたムテジウス。工業デザインに職人技の感覚をもたらすための彼の努力は、重要な国家経済的利益とまで見なされた。
1907年、ドイツの産業育成を目指したドイツ工作連盟の設立に加わることとなり、展覧会開催や出版などの事業を行い中心人物の一人として活動しました。
しかし、ヘルマン・ムテジウスは大量生産による商品の規格化を重視したため、1914年に行われた『第1回ドイツ工作連盟ケルン展』をきっかけに、作家個人の芸術性を主張するアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデとの間に『規格化論争(きかくかろんそう)』が起こり対立します。
ムテジウスはこの論争で最終的には自身の主張を取り下げることになり、ドイツ工作連盟内での指導的な立場を次第に失うという気まずい状況に陥ってしまいました。
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863 – 1957)は、19世紀末から20世紀始めに活躍したベルギーの建築家・家具デザイナーで、アール・ヌーヴォーからモダンデザインへの展開を促した人物として有名です。
ヴェルデは30代ごろから住宅設計やインテリアに携わり、40代にドイツ工作連盟に参加すると中心メンバーとして活躍しますが、1914年に開催された『第1回ドイツ工作連盟ケルン展』をきっかけに、ヘルマン・ムテジウスと規格化論争で対立しました。
また、ヴェルデは国立の芸術学校バウハウスの前身でもある『工芸学校(こうげいがっこう)』をドイツのヴァイマルに設立した人物として、ドイツだけでなく世界のモダンデザインの発展に絶大な影響を与えました。
▲1902年、ヴェルデはヴァイマルに工芸の教育機関である「工芸ゼミナール」を設立した。1906年に「工芸学校」に発展すると校長を務め、1911年には校舎の設計も行った。
▲ヴェルデが設計を行った「工芸学校」の校舎は、バウハウス設立後は『バウハウス・ヴァイマル校』として使用された。1996年には世界遺産に登録されている。
▼ヴェルデはこちらの記事でも紹介しています▼
ペーター・ベーレンス
▲建築家であり、インダストリアルデザイナーの先駆者でもあるペーター・ベーレンス
ペーター・ベーレンス(1868年 – 1940年)はドイツの建築家、工業デザイナーで、モダニズム建築やインダストリアルデザインの分野の発展に多大な影響を与えた人物です。
1868年にドイツのハンブルクで生まれたベーレンスは、18〜21歳までドイツ各地で絵画を学び、22歳で結婚してミュンヘンに移り、そこで画家、イラストレーター、製本業者として働き始めました。
ベーレンスが31歳の時、ウィーン分離派の建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒらとともに、ドイツにあるヘッセンという小国のお偉いさんからの依頼で、ドイツの芸術家を集めて「マチルダの丘」という芸術村の建設を行うプロジェクトに参加します。
出典:UTSA
▲奇妙な建築が立ち並ぶ『マチルダの丘』はオルブリッヒの建築がずらり。左に見える五本指をモチーフにしたという謎の塔はヘッセンのお偉いさんの結婚記念に設計された『結婚記念塔』(1907年完成)
プロジェクトの総責任者だったオルブリッフがマチルダの丘にある建物のほとんどの設計を行いましたが、ベーレンスはここで自邸の設計を行い、さらに自邸の家具、絵画、陶器やタオルなど、インテリアや小物のデザインをしたことで建築家としてでなく、デザイナー、アーティストとしても名声を高めることとなりました。
出典:Art Nouveau World
▲ユーゲント・シュティール様式のベーレンス自邸は、室内装飾も全て彼のデザインによる。この作品がベーレンスにとって人生のターニングポイントとなった。
ベーレンスは35歳でドイツのデュッセルドルフにある美術工芸学校の指導者となり、4年後の1907年に本格的に建築家に転じて建築事務所を開設したベーレンスは、ヘルマン・ムテジウスのドイツ工作連盟に参加することになります。
その後、ドイツの電機メーカー『AEG(アーエーゲー)』のデザイン顧問に就くとインダストリアルデザイナーとして照明、家電、文房具やガス給湯器などのデザインを手掛けました。
▲ペーター・ベーレンスがデザインしたAEG製の扇風機(1908年)
▲ペーター・ベーレンスがデザインしたAEG製のランプ『Sparbogen lampe』(1907年)
▲鉄骨造という新しい技術を用いながら、機能優先の工場建築を古典主義的な骨格を持った芸術的なデザインで構成した作品『AEGタービン工場』(1910年)
ブルーノ・タウト
出典:ENBursa
ブルーノ・タウト(1880年 – 1938年)はドイツの建築家で、ドイツ工作連盟のメンバーとして活躍し、日本にも来日して技術の指導を行った人物です。
ブルーノ・タウトは1880年にドイツのケーニヒスベルクに生まれ、18歳で大学を卒業するとケーニヒスベルクの建設会社に入社し、ここで石積み・レンガ工事などの壁体構造の仕事の見習いとして働きました。
父親の商売が失敗したことから大学の授業料を自分で稼ぐ必要があったので、20歳の時にケーニヒスベルクの国立建築工学校に入学した後も、建築現場で見習いとして働き続けながら得たバイト代を学資にして勉強を続けたそうです。
卒業後はケーニヒスベルクを離れてドイツ各地で建築の修業を積むと、ブルーノが24歳の時にベルリンの建築事務所に就職、1904年から1908年までの間は建築家テオドール・フィッシャーに弟子入りして建築理論と実務を本格的に学びました。
28歳になった時にはベルリンのハインツ・ラッセン教授の設計事務所で働くという、何とも軽いフットワークで点々としながら建築の知識を身につけてゆきます。
29歳の時、同僚だったフランツ・ホフマンと共同でベルリンで設計事務所を開業し、1910年、タウトが30歳の時にドイツ工作連盟に参加しました。
1913年にはライプツィヒで開催された国際建築博覧会で『鉄の記念塔』を作り、1914年には「第1回ドイツ工作連盟ケルン展」に『ガラスの家』を出展すると高評価を受け、ブルーノは表現主義(感情を作品中に反映させて表現する傾向のこと)の建築家として一躍有名になりました。
出典:Pinterest
▲ドイツのライプツィヒの国際建築博覧会で発表した『鉄の記念塔』(1913年)
出典:Tumbler
▲当時としてはまだ珍しい鉄骨を使用した『鉄の記念塔』の内部。大きなガラスに360度囲まれ、非常に明るい空間だった。
▲「第1回ドイツ工作連盟ケルン展」で発表した『ガラスの家(Glass Pavilion)』(1914年)
出典:Twitter
▲『ガラスの家』の地下には階段の間と呼ばれる水中照明が付いた7層の滝があり「きらめく水の中を通り抜けているかのように」下の階に降りるという新しい感覚を生み出したという。
▲水中照明がついた7層の滝を水が流れ落ちる。カラー写真が無いのが残念。
また、この頃ブルーノ・タウトが設計した『田園都市ファルケンベルクの住宅群』(1913-1916年)は、ベルリンのモダニズム集合住宅群の1部として世界遺産に登録されています。
出典:sdg21
▲ブルーノ・タウトが設計した『田園都市ファルケンベルクの住宅群』(1913−1916)
▲1992年から2003年の改修作業により、当時の配色が復元された。
ブルーノ・タウトは1904年、24歳の時にベルリンから北東に50キロメートルほどの場所にある「コリーン」という村に友人たちとともに滞在しました。
ここで、ヘドヴィック・ヴォルガスト(この村に長く続いた鍛冶屋であるヴォルガスト家の三女)と出会い大恋愛の末、1906年に結婚します。
・・・が、結婚から10年後の1916年には、ブルーノ・タウトの職場の部下だったエリカ・ヴィッティッヒと恋愛関係になり、エリカと同棲するようになったのです。
1918年にはエリカとの間に娘が誕生しますが、妻のヘドヴィックに頼みこんでエリカとの娘を自分の子として入籍させるという、なかなか人には真似できない行動を起こしました。
ブルーノ・タウトはナチスの迫害から逃れるため海外に滞在先を探していた際に、日本インターナショナル建築会(※)からの招待を受け入れ、1933年に来日し3年半滞在しました。
※日本インターナショナル建築会とは
1927年7月に関西で活動する建築家を中心に結成された近代建築運動グループ。
京都の上野伊三郎の建築事務所で日本人メンバー6名で結成され、ヴァルター・グロピウス、ブルーノ・タウト、ペーター・ベーレンスなどの外国人会員もいた。
会の活動としては、展覧会・講演会の開催、機関誌『インターナショナル建築』の発行や海外視察、そして1933年5月に来日し、1936年10月までの3年半にわたって滞在したブルーノ・タウトの招聘(しょうへい)がある。
これらの活動を通して、機能性と合理性を備える「インターナショナル」な建築を日本へ普及させることを目標としていた。
はじめに京都の桂離宮を観覧したタウトは美しさを称賛しました。
タウトは桂離宮を世界に紹介し、広めた最初の建築家だったと言われています。
▲桂離宮は江戸時代の17世紀頃に皇族の『八条宮の別邸』として創設された建築と庭園
▼桂離宮って何だっけ?ならこちらから▼
しかし一方、栃木の日光東照宮を見学し、過剰な装飾を嫌ったタウトは日記に「建築の堕落だ」という辛辣な感想(※)を書いて非難しました。
(※ブルーノ・タウト個人の感想です)
出典:Trip Advisor
▲1617年に創建された、江戸幕府初代将軍・徳川家康を祀った日光東照宮
いろいろ日本の建築を見ながらも、ブルーノ・タウトは仙台の商工省工芸指導所(こうげいしどうしょ)の嘱託として1933年に赴任します。
出典:TSUKAPONG
▼工芸指導所はこちらで解説しています▼
タウトは日本では建築設計の仕事は行いませんでしたが、1936年10月までの間日本に滞在し、仙台や高崎で工芸の指導や、日本建築に関する書籍(『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』、『日本美の再発見』、『日本文化私観』、『日本 タウトの日記』 など)を書き残しました。
出典:少林寺達磨寺
▲群馬県高崎市の『洗心亭』で2年3ヶ月過ごしたタウトとエリカ。当時の日本人の親切な対応に感激し、碓井川の洪水で罹災した際には見舞金を送るなど日本を愛し、日本に骨を埋めることを望んだ。
1936年のある日、トルコからイスタンブールにある建築学校の教授として、また政府の最高建築技術顧問としてのオファーがあり、後ろ髪を引かれつつも建築の仕事が出来るということでタウトはこれに応じます。
タウトを見送るための送別会では、
「私はもはや健康ではない、再び日本に帰ることはできないだろう。日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山(群馬県高崎市)に埋めさせて頂きたい。」
と言い残し、日本を後にしたそうです。
その年の11月11日にイスタンブールに到着したタウトとエリカは、翌年、厚遇を受けたトルコ大統領の死に際し、その恩顧に応えようとして、葬儀場の設計を一晩のうちに仕上げるなどの無理がたたったのか、1937年12月24日脳溢血のためにこの世を去りました。
エリカは翌年9月15日にタウトのデスマスク(死顔を型取った石膏)を少林山に納めに訪日し、現在でも大切に保管されています。
ヴァルター・グロピウス
ヴァルター・グロピウス(1883年 – 1969年)は、モダニズムを代表するドイツの建築家であり、ドイツ工作連盟の中心人物のひとり、そしてバウハウスの創立者、初代校長でもあります。
また、近代建築の4大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ)の一人に数えられています。
▼ル・コルビュジエについて知りたい方はこちら▼
▼フランク・ロイド・ライトって誰なん?て方はこちら▼
▼ミース・ファン・デル・ローエはこちらでご紹介▼
1883年にベルリンに生まれたグロピウスは、20歳から24歳ごろまでミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学びました。
卒業後、ペーター・ベーレンスの事務所に入り、そこで後に四大巨匠と呼ばれるル・コルビュジエとミース・ファン・デル・ローエに出会っています。
またペーター・ベーレンスと同様にグロピウスもドイツ工作連盟に参加すると、1911年には『ファグスの靴型工場』を設計し、後のバウハウス校舎を思わせる鉄とガラスを用いた建築で、初期モダニズムの傑作と呼ばれました。
▲『ファグスの靴型工場』は貴重な初期モダニズム建築として、2011年に世界遺産に登録された。
出典:mapio.net
▲増築や改装を繰り返して最終的な完成は1925年。何と現在も靴型工場として変わらず操業中。
1915年、ヴァルター・グロピウスが32歳の時に、ベルギーの建築家でありドイツ工作連盟の中心人物のひとりであったアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデから、バウハウスの前身でありヴェルデが設立して校長を務めていたドイツ・ヴァイマルの『工芸学校』を後継者として受け継ぎました。
▲グロピウスがアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデから託された『工芸学校』の校舎。1919年にバウハウスが開校すると『バウハウス・ヴァイマル校』として利用された。
▼ヴァルター・グロピウスはこちらでも▼
ドイツ工作連盟の活動はインダストリアルデザインの始まりでした。
1933年にドイツ工作連盟はナチス・ドイツによって解散させられますが、第二次世界大戦後の1950年に復活して、現在でもこの連盟は存続しています。
ナンタルカのまとめ
■ドイツ工作連盟とは
1907年に(①)によってドイツで設立された団体であるドイツ工作連盟は、機械と芸術の統一を実践し、機能的かつ経済的なデザインを目指した。ドイツ工作連盟の活動はインダストリアルデザインの始まりであり、メンバーの一人である(②)がドイツのヴァイマルに設立した芸術学校『(③)』は、ドイツ工作連盟の理念に大きな影響を受けている。
■ドイツ工作連盟のデザイナー
(1)(①)はドイツ工作連盟の中心メンバーとして活躍しますが、ヘルマン・ムテジウスと(②)で対立した。また、バウハウスの前身でもある(③)をドイツのヴァイマルに設立した人物として、ドイツだけでなく世界のモダンデザインの発展に絶大な影響を与えた。
(2)ドイツで画家、グラフィックデザイナーとして活動していた(①)は建築家に転じると、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエなどの偉大な建築家を育て、ガス給湯器や照明器具、家電、文房具、タイプライターといった工業製品のデザインを手がけるなど、インダストリアルデザイナーとしても活躍した。また、日本の(②)を高く評価して日本文化を世界に紹介した(③)は仙台にある工芸指導所で工芸の指導にあたった。
お疲れ様でした。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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