NEW POST

【19世期から20世紀へ(2)−2】ドイツ工作連盟の建築や特徴について7分でマスターしよう【世界のインテリアの歴史⑪−2】

ドイツ工作連盟

 

 

こんにちは、しけたむです。

 

 

この記事では

 

 

  • 「ドイツ工作連盟ってテキストにあるけど、何なん?」
  • 「ブルーノ・タウトって名前だけは聞いたことがあるんだけど・・・。」

 

 

という方々に向けて

 

 

ドイツの産業育成を目指して集まった『ドイツ工作連盟』の活動やメンバーについて、

 

 

分かりやすく画像つきでご紹介していきます。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
イギリスのアーツ・アンド・クラフツに影響を受けて結成したドイツ工作連盟は「芸術家、産業界の企業家、職人の協力を通して、産業製品を発達させること」ってゆうスローガンを作って、デザイナーや建築家だけじゃにゃくて色んな分野からの専門家を会員として集めたにゃ。主なメンバーだけ覚えれば、試験も話のネタとしても十分ですにゃあ〜

 

 

 

 

ドイツ工作連盟とは?

ケルン 工作連盟出典:Museum der Dinge

▲1914年にケルンで行われた工作連盟展のポスター。ペーター・ベーレンスやブルーノ・タウトらの建築が展示され注目を集めたが、第一次世界大戦が迫っていたため予定より2ヶ月早く終了した。

 

 

ドイツ工作連盟は1907年にドイツで設立された団体で、機械生産による工業製品の質的・デザイン的向上を図り、ドイツの産業振興を目指した連盟です。

 

 

 

ドイツ工作連盟の活動はインダストリアルデザイン(※)の始まりであり、メンバーの一人であるヴァルター・グロピウスがドイツのワイマールに設立した芸術学校バウハウスは、ドイツ工作連盟の理念に大きな影響を受けました。

(※インダストリアルデザインとは、機械生産による大量生産可能な工業製品のデザイン、それらを使用した建築・インテリアのこと。または工業製品を人間にもっともよく適合するように計画し、デザインする創造的活動のこと。)

 

 

▼バウハウスについては次回の記事にて紹介します▼

デ・ステイル
【20世紀の動き(1)】デ・ステイルとバウハウス【世界のインテリアの歴史⑫】この記事ではデ・ステイルとバウハウスについてわかりやすく解説しています。ピエト・モンドリアン 、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、マルセル・ブロイヤーなど巨匠が多く登場する記事です。インテリアコーディネーターの復習や、試験勉強の参考にお役立てください。...

 

 

ドイツ工作連盟には多くの建築家、デザイナーらが参加し、モダンデザインの発展の上で大きな足跡を残しました。

 

 

 

ヘルマン・ムテジウスによって結成され、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデヨゼフ・マリア・オルブリッヒウィーン分離派にも所属)、ペーター・ベーレンスヴァルター・グロピウスブルーノ・タウトら建築家のほか、実業家や芸術家、デザイナー、評論家らの錚々(そうそう)たるメンバーが参加していました。

 

 

▼ウィーン分離派とヨゼフ・マリア・オルブリッヒはこちらでもご紹介▼

サリヴァン・センター カーソン・ピリー・スコット・ストア
【19世期から20世紀へ(2)-1】ゼツェッション(分離派)とシカゴ派の建築と特徴について7分で理解しよう【世界のインテリアの歴史⑪-1】この記事ではゼツェッション、シカゴ派の建築と特徴についてわかりやすく解説しています。それぞれの代表的な人物と建築が数多く登場しますが、画像を見ながら7分で理解できます。インテリアコーディネーターの復習や、試験勉強の参考にお役立てください。...

 

 

ヘルマン・ムテジウス

ヘルマン・ムテジウス出典:Wikimedia commons

▲ヘルマン・ムテジウスはドイツの建築家。明治時代の日本へ赴き、建築技師として従事した。

 

 

ヘルマン・ムテジウス(1861年 – 1927年)はドイツの建築家、編集者、作家でもあり、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動から影響を受けドイツ国内にその運動を宣伝した人物として有名で、バウハウスのようなドイツの初期モダニズム建築に影響を与えました。

 

 

 

ムテジウスは1861年にドイツの小さな村で生まれ、建築家であった父親から学びました。22歳でシャルロッテンブルク工科大学で建築を学んだ後、ドイツ国会議事堂を設計したパウルヴァロットの建築事務所に入所します。

 

 

 

 

その後ムテジウスは明治時代の日本へ赴き、1887年から1890年までは東京のドイツの建設会社エンデ&ベックマンで建築技師として働きました。

法務省 赤煉瓦 赤レンガ ヘルマンムテジウス出典:近代文化遺産見学案内所

▲官庁集中計画として建てられた東京都霞ヶ関にある『法務省旧本館 赤煉瓦棟』もその成果の一つ

 

 

日本で建築活動に従事した後、ぐるっと日本観光を行ったのちに1891年にドイツに戻り、住宅雑誌の編集者を務めました。

 

 

 

ムテジウスは住宅建築と家庭のライフスタイルとデザインを調査し、1904年に最も有名な作品である『イギリスの住宅』という三部作からなるレポートを出版し、アーツ・アンド・クラフツをドイツへ紹介した人物として知られるようになります。

Das englische Haus English House ヘルマン・ムテジウス出典:invaluable

▲イギリスのアーツアンドクラフツ運動の哲学と実践に興味を持っていたムテジウス。工業デザインに職人技の感覚をもたらすための彼の努力は、重要な国家経済的利益とまで見なされた。

 

 

1907年、ドイツの産業育成を目指したドイツ工作連盟の設立に加わることとなり、展覧会開催や出版などの事業を行い中心人物の一人として活動しました。

 

 

 

しかし、ヘルマン・ムテジウスは大量生産による商品の規格化を重視したため、1914年のケルンでの展覧会の後、作家個人の芸術性を主張するアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデとの間に規格化論争が起こり対立します。

 

 

 

ムテジウスはこの論争で最終的には自身の主張を取り下げることになり、ドイツ工作連盟内での指導的な立場を次第に失うという気まずい状況に陥ってしまいました。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
「規格化か、個性化?」を争った規格化論争で、ムテジウスはヴェルデから「大量生産した作品の輸出を考えるだけでは、良いものはできない!」とそれなりに納得いくような意見でムテジウスを痛烈に批判したんですにゃ!

 

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ アンリヴァンデヴェルデ 写真出典:Visit Brussels

 

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863 – 1957)は、19世紀末から20世紀始めに活躍したベルギーの建築家・家具デザイナーで、アール・ヌーヴォーからモダンデザインへの展開を促した人物として有名です。

 

 

 

ヴェルデは30代ごろから住宅設計やインテリアに携わり、40代にドイツ工作連盟に参加し、中心メンバーとして活躍しますが、ヘルマン・ムテジウスと規格化論争で対立します。

 

 

 

また、ヴェルデはドイツのワイマール(ヴァイマル)に建てられた国立の美術学校バウハウスの前身でもある工芸学校をドイツのヴァイマールに設立した人物として、ドイツだけでなく世界のモダンデザインの発展に絶大な影響を与えました

工芸学校 ヴェルデ ヴァイマル ワイマール バウハウス

工芸学校 バウハウス ヴァイマル校出典:Wikimedia Commons

▲ヴェルデが設計を行った工芸学校の校舎はバウハウス設立後は『バウハウス・ヴァイマル校』として使用された。1996年には世界遺産に登録されている。

 

 

▼ヴェルデはアール・ヌーヴォーの記事で詳しくご紹介▼

ミュシャ
【19世期から20世紀へ(1)】アーツ&クラフツ、アール・ヌーボーの新しいデザインの動き【世界のインテリアの歴史⑩】この記事では19世紀のアーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーボーについてわかりやすく解説しています。それぞれのインテリア運動の特徴と代表的な人物について詳しく学習しましょう。インテリアコーディネーター、建築士などの資格勉強、世界史の歴史勉強にも最適。ぜひご活用下さい。...

 

 

ペーター・ベーレンス

ペーター・ベーレンス出典:Shanene’s blog

▲建築家であり、工業デザイナーの先駆者でもあるペーター・ベーレンス

 

ペーター・ベーレンス(1868年 – 1940年)はドイツの建築家、工業デザイナーで、モダニズム建築やインダストリアルデザインの分野の発展に多大な影響を与えた人物です。

 

 

 

 

1868年にドイツのハンブルクで生まれたベーレンスは、18〜21歳までドイツ各地で絵画を学び、22歳で結婚してミュンヘンに移り、そこで画家、イラストレーター、製本業者として働き始めました。

 

 

 

ベーレンスが31歳の時、ウィーン分離派の建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒらとともに、ドイツにあるヘッセンという小国のお偉いさんからの依頼で、ドイツの芸術家を集めて「マチルダの丘」という芸術村の建設を行うプロジェクトに参加します。

マチルダの丘 オルブリッヒ ベーレンス出典:UTSA

▲奇妙な建築が立ち並ぶ『マチルダの丘』はオルブリッヒの建築がずらり。左に見える五本指をモチーフにしたという謎の塔はヘッセンのお偉いさんの結婚記念に設計された『結婚記念塔』(1907年完成)

 

 

プロジェクトの総責任者だったオルブリッフがマチルダの丘にある建物のほとんどの設計を行いましたが、ベーレンスはここで自邸の設計を行い、さらに自邸の家具、絵画、陶器やタオルなど、インテリアや小物のデザインをしたことで建築家としてでなく、デザイナー、アーティストとしても名声を高めることとなりました。

マチルダの丘 ベーレンス自邸 マチルダの丘 ベーレンス自邸 インテリア出典:Art Nouveau World

▲ユーゲント・シュティール様式のベーレンス自邸は、室内装飾も全て彼のデザインによる。この作品がベーレンスにとって人生のターニングポイントとなった。

 

 

ベーレンスは35歳でドイツのデュッセルドルフにある美術工芸学校の指導者となり、4年後の1907年に本格的に建築家に転じて建築事務所を開設したベーレンスは、ヘルマン・ムテジウスドイツ工作連盟に参加することになります。

 

 

 

その後、電機メーカーAEG(アーエーゲー)のデザイン顧問に就き、数多くの工業デザインを手がけます。

 

 

ここで生み出されたデザインは、モダニズム建築初期の代表的作品になりました。

 

 

 

また、ガス給湯器や照明器具、家電、文房具、タイプライターといった工業製品のデザインも手がけるなど、インダストリアルデザイナーとしても活躍しました。

 

ペーター・ベーレンス AEG出典:Financial Times

▲ペーター・ベーレンスがデザインしたAEG製の扇風機(1908年)

 

ペーター・ベーレンス 照明出典:snow designer furniture

▲ペーター・ベーレンスがデザインしたAEG製のランプ『Sparbogen lampe』(1907年)

 

AEG タービン工場 ベーレンス出典:Wikimedia Commons

▲鉄骨造という新しい技術を用いながら、機能優先の工場建築を古典主義的な骨格を持った芸術的なデザインで構成した作品『AEGタービン工場』(1910年)

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
のちに建築の4大巨匠と呼ばれる3人、ル・コルビュジェ、ミース・ファン・デルローエ、ヴァルター・グロピウスもベーレンスの建築事務所に所属していたんですにゃあ〜

 

ブルーノ・タウト

ブルーノ・タウト出典:ENBursa

 

ブルーノ・タウト(1880年 – 1938年)はドイツの建築家で、ドイツ工作連盟のメンバーとして活躍し、日本にも来日して技術の指導を行った人物です。

 

 

 

 

ブルーノ・タウトは1880年にドイツのケーニヒスベルクに生まれ、18歳で大学を卒業後、ケーニヒスベルクの建設会社に入社し、ここで石積み・レンガ工事などの壁体構造の仕事の見習いとして働きました。

 

 

 

 

父親の商売が失敗したことから、タウトは大学の授業料を自分で稼ぐ必要があったので、20歳の時にケーニヒスベルクの国立建築工学校に入学した後も、建築現場で見習いとして働きながら得たバイト代を学資にして、22歳で卒業します。

 

 

 

 

卒業後はケーニヒスベルクを離れ、ドイツ各地で建築の修業を積み、1903年のブルーノが24歳の時にベルリンの建築事務所に就職、1904年から1908年までの間は建築家テオドール・フィッシャーに弟子入りして建築理論と実務を本格的に学びました。

 

 

 

 

28歳になった時にはベルリンのハインツ・ラッセン教授の設計事務所で働くという、何とも軽いフットワークで点々としながら建築の知識を身につけてゆきます。

 

 

 

 

29歳の時、同僚だったフランツ・ホフマンと共同でベルリンで設計事務所を開業し、1910年、タウトが30歳の時にドイツ工作連盟に参加しました。

 

 

 

 

1913年にはライプツィヒで開催された国際建築博覧会で鉄の記念塔を作り、1914年にはケルンで行われたドイツ工作連盟の展覧会にガラスの家を出展します。

 

 

 

 

鉄の記念塔(1913年)、ガラスの家(1914年)が評価され、ブルーノは表現主義の建築家として一躍有名になりました。

鉄の記念塔 ブルーノ・タウト出典:Pinterest

▲ドイツのライプツィヒの国際建築博覧会で発表した『鉄の記念塔』(1913年)

 

鉄の記念塔出典:Tumbler

▲当時としてはまだ珍しい鉄骨を使用した『鉄の記念塔』の内部。大きなガラスに360度囲まれ、非常に明るい空間だった。

 

 

ガラスの家出典:(arquitectures)

▲ケルンにて行われたドイツ工作連盟展で発表した『ガラスの家(Glass Pavilion)』(1914年)

 

ガラスの家 グラス パヴィリオン ケルン出典:Twitter

▲『ガラスの家』の地下には階段の間と呼ばれる水中照明が付いた7層の滝があり「きらめく水の中を通り抜けているかのように」下の階に降りるという新しい感覚を生み出したという。

 

 

また、この頃ブルーノ・タウトが設計した田園都市ファルケンベルクの住宅群』(1913-1916年)はベルリンのモダニズム集合住宅群の1部として世界遺産(文化遺産)に登録されています。

ファルケンベルグの住宅群出典:sdg21

▲ブルーノ・タウトが設計した『田園都市ファルケンベルクの住宅群』(1913−1916)

 

ファルケンベルグの住宅群 改修出典:Brenne Architekten

▲1992年から2003年の改修作業により、当時の配色が復元されました。

 

ブルーノ・タウトは24歳の時、ベルリンから北東に50キロメートルほどの場所にあるコリーンという村に友人たちとともに滞在しました。

 

 

 

ここで、ヘドヴィック・ヴォルガスト(この村に長く続いた鍛冶屋であるヴォルガスト家には3人の娘がおり、その三女)と出会い大恋愛の末、1906年に結婚します。

 

 

 

しかし結婚から10年後の1916年には、職場の部下だったエリカ・ヴィッティッヒと恋愛関係になり、エリカと同棲するようになりました。

 

 

 

1918年にはエリカとの間に娘が誕生しますが、妻のヘドヴィックに頼みこんでエリカとの娘を自分の子として入籍させるという、なかなか人には真似できない行動を起こします

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ブルーノ・タウトは妻のヘドヴィックとは離婚しませんでしたが、日本に滞在していた期間もヘドヴィックをドイツに残したままエリカを秘書として同行させていて、一緒に日本を見て回ったんですにゃあ〜

 

 

ブルーノ・タウトはナチスの迫害から逃れるため海外に滞在先を探していた際に、日本インターナショナル建築会(※)からの招待を受け入れ、1933年に来日し3年半滞在しました。

(※:1927年7月に関西を基盤にする建築家を中心に結成された近代建築運動グループ。京都の上野伊三郎の事務所において、上野、本野精吾、伊藤正文、石本喜久治、新名種夫、中尾保の6人によって結成された。会員としては正会員のほかに、外国人会員などがおり、ヴァルター・グロピウス、ブルーノ・タウト、ペーター・ベーレンスなどが名を連ねた。)

 

 

はじめに京都の桂離宮を観覧したタウトは美しさを称賛しました。

 

 

タウトは桂離宮を世界に紹介し、広めた最初の建築家だったと言われています。

桂離宮出典:Travel Caffeine

▲桂離宮は江戸時代の17世紀頃に皇族の『八条宮の別邸』として創設された建築と庭園

 

 

しかし一方、栃木の日光東照宮を見学し、過剰な装飾を嫌ったタウトは日記に

「建築の堕落だ」という辛辣な感想(※)を書いて非難しました。

(※あくまでも、ブルーノ・タウト個人の感想です。)

日光東照宮出典:Trip Advisor

▲1617年に創建された、江戸幕府初代将軍・徳川家康を祀った日光東照宮

 

 

いろいろ日本の建築を見ながらも、ブルーノ・タウトは仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)の嘱託として1933年に赴任します。

工芸指導所出典:Twitter /TSUKAPONG

 

 

▼ブルーノ・タウトが指導を行なった工芸指導所はこちらから▼

戦後 住宅 UR 団地
【昭和〜現代のインテリア・前編】昭和の代表的建築と家具・工芸、戦後の住生活の特徴もこれだけ覚えればOK【日本のインテリアの歴史⑩】この記事では昭和から現代のインテリアについてわかりやすく解説しています。昭和を代表する建築物から、家具や工芸のデザイン、また戦後の住生活や昭和を代表する偉大な建築家について学習しましょう。...

 

 

 

タウトは日本では建築設計の仕事は行いませんでしたが、1936年10月までの間日本に滞在し、仙台や高崎で工芸の指導や、日本建築に関する書籍(『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』、『日本美の再発見』、『日本文化私観』、『日本 タウトの日記』 など)を書き残しました。

タウト エリカ 出典:少林寺達磨寺

▲群馬県高崎市の『洗心亭』で2年3ヶ月過ごしたタウトとエリカ。当時の日本人の親切な対応に感激し、碓井川の洪水で罹災した際には見舞金を送るなど日本を愛し、日本に骨を埋めることを望んだ。

 

 

1936年のある日、トルコからイスタンブールにある建築学校の教授として、また政府の最高建築技術顧問としてのオファーがあり、後ろ髪を引かれつつも建築の仕事が出来るということでタウトはこれに応じます。
タウトを見送るための送別会で、

「私はもはや健康ではない、再び日本に帰ることはできないだろう。日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山(群馬県高崎市)に埋めさせて頂きたい。」

と言い残し、日本を後にしたそうです。

 

 

 

その年の11月11日にイスタンブールに到着したタウトとエリカは、翌年、厚遇を受けたトルコ大統領の死に際し、その恩顧に応えようとして、葬儀場の設計を一晩のうちに仕上げるなどの無理がたたったのか、1937年12月24日脳溢血のためにこの世を去りました。

 

 

 

エリカは翌年9月15日にタウトのデスマスク(死顔を型取った石膏)を少林山に納めに訪日し、現在でも大切に保管されています。

 

 

 

ヴァルター・グロピウス

ヴァルター・グロピウス出典:Stiftung Exilmuseum

 

ヴァルター・グロピウス(1883年 – 1969年)は、モダニズムを代表するドイツの建築家であり、ドイツ工作連盟の中心人物のひとり、そしてバウハウスの創立者、初代校長でもあります。

 

 

 

また、近代建築の4大巨匠ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ)の一人に数えられています。

 

 

 

1883年にベルリンに生まれたグロピウスは、20歳から24歳ごろまでミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学びました。

 

 

 

卒業後、ペーター・ベーレンスの事務所に入り、そこで後に4大巨匠と呼ばれるミース・ファン・デル・ローエと出会っています。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ル・コルビュジェもベーレンスに学んでいたから、4大巨匠の3人を教えていたベーレンスって、とんでもない大先生だにゃあ〜

 

 

ドイツ工作連盟に参加した後、グロピウスが28歳の時の作品であるファグスの靴型工場は、後のバウハウス校舎を思わせる鉄とガラスを用いた初期モダニズム建築の傑作でした。

ヴァルター・グロピウス ファグスの靴型工場出典:Wikimedia Commons

ファグスの靴型工場は、ドイツ初期モダニズム建築として2011年に世界遺産リストに登録された

 

ファグスの靴型工場 グロピウス出典:mapio.net

▲増築や改装を繰り返して最終的な完成は1925年。何と現在も靴型工場として変わらず操業中。

 

 

1911年、アルマ・マーラーと結婚。グロピウスが33歳の時、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデからドイツのワイマール(ヴァイマル)にある工芸学校を託されます。

 

 

▼ヴァルター・グロピウスは次回、バウハウスの記事にて!▼

デ・ステイル
【20世紀の動き(1)】デ・ステイルとバウハウス【世界のインテリアの歴史⑫】この記事ではデ・ステイルとバウハウスについてわかりやすく解説しています。ピエト・モンドリアン 、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、マルセル・ブロイヤーなど巨匠が多く登場する記事です。インテリアコーディネーターの復習や、試験勉強の参考にお役立てください。...

 

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか。

 

 

ドイツ工作連盟の活動はインダストリアルデザインの始まりでした。

 

 

1933年にドイツ工作連盟はナチスによって解散させられますが、第二次世界大戦後の1950年に復活して、現在でもこの連盟は存続しています。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ドイツ工作連盟の活動はインダストリアルデザインの始まりとされ、その後のバウハウスの設立に大きな影響を与えることになりますにゃ。

 

 

<PR>

▼ベッドにこだわるならベッドリネンにもこだわりたい▼

 

 

▼ゲーミングチェアがオフィスチェアに!?▼

 

 

お疲れ様でした!

 

 

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

 

分かりにくい点やお気づきのことがあればメールでご連絡ください!

 

 

 

では、次回もお楽しみに!

 

 

 

<PR>

▼風水的にはドライフラワーよりフェイクグリーン▼

 

 

▼綺麗なお水を好きなだけ使いたい人限定▼