こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「浮世絵について説明しろ、と言われると困る。」
- 「浮世絵の歴史や種類についてざっくりと教えて欲しい。」
という皆様に向けて、
江戸時代の浮世絵と代表的な絵師や特徴について画像で解説します。
浮世絵とは?
▲『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』は、浮世絵師「葛飾北斎(かつしかほくさい)」が1831年頃に製作した『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』全46図中の1図。同シリーズ中の傑作で、世界で最も有名な浮世絵のひとつ。木版画。
浮世絵(うきよえ)とは江戸時代から大正時代に掛けて描かれた風俗画(ふうぞくが:庶民の普段の生活を描写して日常生活のさまざまな面を描いた絵画)のことです。
「浮世」という言葉は「憂き世」、つまり「つらいことばかりの現実世界」と言う意味があり、「嫌なことばかりならば、浮かれて楽しく、この人生を謳歌して暮らそうよ」という想いを込めて、江戸初期から浮世絵が描かれるようになりました。
浮世絵の題材は多種多様で、代表的なのは遊郭の美女を描いた「美人画」、歌舞伎役者を描いた「役者絵」、富嶽三十六景などの名所が描かれた「名所絵」など、庶民の需要や当時の風俗を反映されているのが特徴です。
浮世絵の画題
美人画(びじんが)
出典:exblog
▲『婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘』(1790年頃) 喜多川歌麿 木版画
美人画(びじんが)とは成人女性を描いたもので、美人画という名称でもいわゆる「美人」だけに限らず、近所の茶屋の看板娘や、遊女などがモデルとして描かれました。
この美人画を描いた浮世絵師「喜多川歌麿(きたがわうたまろ)」は、町娘や遊郭の女性たちを魅力的に描き、浮世絵美人画の第一人者となりました。
▲喜多川歌麿は江戸時代中・後期の浮世絵師で、狩野派に師事した。初め役者絵で人気を博すと後に美人画で独自の世界観を確立し、美人画化として浮世絵界に君臨した。
表現の制約に屈することなく常に攻めの姿勢を見せましたが、幕府を怒らせる様な浮世絵(『太閤五妻洛東遊観之図』)を描いたことで風紀取締りの処分を受け、その二年後にこの世を去りました。
役者絵(やくしゃえ)
出典:Warakuweb
▲『三世大谷鬼次奴江戸兵衛』(1794年) 東洲斎写楽 木版画
役者絵(やくしゃえ)とは、江戸時代から明治時代にかけて製作された浮世絵の画題のひとつで、歌舞伎役者やその上演場面を描いた浮世絵です。
この誰もが見たことのある浮世絵を描いたのは「東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)」という江戸時代中期の浮世絵師です。
約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を発表したのち、こつぜんと姿を消した謎の人物として知られていて、その出自や経歴については様々な研究がなされてきましたが現在でもよく分かっていません。
名所絵(めいしょえ)
出典:富士五湖TV
▲『冨嶽三十六景 凱風快晴(通称:赤富士)』(1830年頃) 葛飾北斎 木版画
名所絵(めいしょえ)とは、日本各地の名所とされる場所を描いた画題のことです。
『富嶽三十六景』シリーズを描いた葛飾北斎(かつしかほくさい)は江戸時代後期の浮世絵師で、世界で最も有名な日本人画家のひとりでもあります。
森羅万象をモチーフに描き生涯に3万点を超える作品を発表した北斎の影響は、後に世界的な芸術家であるフィンセント・ファン・ゴッホたちを始め、あらゆる工芸家、音楽家にも及びました。
▲葛飾北斎は88歳(一説では90歳)まで生きるなど、この時代としては長寿だった。『自画像』(1839年)
そんな北斎ですが稀代の変人・狂人としても有名で、
■名前を変えること30回
「画狂老人」、「魚仏」、「天狗堂熱鉄」など、珍奇な名称がずらり。
最終的には「北斎」という名前も弟子にあげてしまいました。
■引っ越すこと93回
掃除のできない北斎は、部屋が散らかれば引越し。
多い時は1日に3回も引越ししたそう。
■めちゃくちゃルーズな生活
娘との2人暮らしですが、食事は作らないのでほぼ出前。
食後のごみは放置。お茶を入れる時は隣人を呼んでいれさせる。
絵を描いた報酬は勘定をせずに適当な場所へ放置して管理しない、そのためいつも貧乏。
礼儀作法が大嫌い。歩く時は呪文を唱えながら歩く、など。
・・・と、挙げればきりがありませんが、しかし画法の研究だけには興味を示し、生涯絵を描くことだけは止めることはありませんでした。
臨終の際には、
「天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう」
と語ったそうです。
花鳥画(かちょうが)
出典:アダチ版画研究所
▲北斎が70歳代前半に描いた花鳥画は浮世絵版画の代表作の一つで、すみずみまで細かく表現された植物と生き物の〝動〟がコントラストよく色鮮やかに表現されている。『牡丹と蝶』(1830年頃)葛飾北斎
花鳥画(かちょうが)とは、はじめ中国で体系化され、その後朝鮮や日本にも広まった画題のひとつです。
必ずしも画題が花と鳥に限定されるものではなく、草木、虫、水生生物、時には小動物も含まれました。
春画(しゅんが)
出典:Japaaan
▲『願ひの糸口』喜多川歌麿 木版画
春画(しゅんが)とは「枕絵(まくらえ)」とも呼ばれ、男女(同性同士もある)の営みが描かれた画題です。
非合法だったので絵草紙屋(えぞうしや:江戸時代の書店)に並ぶことはなく、富裕層がこっそり注文したりしていました。
浮世絵は江戸幕府から描いてはいけないモチーフ、使用してはいけない色などの規定があるのですが、もともと非合法だった春画は、通常では出版できない極彩色の作品がいくつも作られました。
そのため、「浮世絵の最高の技術が使われているものは春画」とも言われています。
武者絵(むしゃえ)
出典:千葉市美術館
▲妖怪が出没する屋敷で武将がその陰謀を阻止する内容で、浮世絵3枚で構成される。原作では複数の骸骨が現れるが、歌川国芳はこれを巨大な一体の骸骨に置き換えることによって、迫力ある画面構成を生み出すことに成功している。『相馬の古内裏』(1845-1846年) 歌川国芳 木版画
武者絵(むしゃえ)とは、歴史・伝説・軍記物などに登場する英雄・豪傑・武将や、その合戦の場面を描いた画題のことです。
江戸時代末期の浮世絵師「歌川国芳(うたがわくによし)」は、当時「武者絵の国芳」といわれるほどの評判を得て、画面からはみ出さんばかりの力強く勇壮な作品を数多く描き、武者絵は最盛期を迎えました。
▲歌川国芳は江戸末期の歌川派の浮世絵師で江戸神田の生まれ。武者絵で人気を博したことから『武者絵の国芳』と呼ばれた。また洋風表現を取り入れた風景版画や、風刺画でも才能を発揮した。
また、歌川国芳は相撲絵(後述)の作品も数多く手掛けています。
相撲絵(すもうえ)
▲『釼山谷右衛門と不知火諾右衛門の取組』(1860年代) 歌川国芳 木版画
相撲絵(すもうえ)とは力士や土俵入り、取り組みが描かれた画題で、役者絵同様、興行ごとに新作が出されました。
初期の浮世絵界では力強い筋肉を強調した描写の相撲絵が多数描かれて人気が出ましたが、体型や容貌の個人差の描き分けはあまり見られず、描かれた力士たちのポーズも両手を上に上げ、両足を踏ん張った状態という似たり寄ったりなものが大半でした。
横浜絵(よこはまえ)
出典:山星書店
▲『横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図 三枚続』(1874年) 広重三代 木版画
横浜絵(よこはまえ)とは「横浜浮世絵」、「ハマ絵」、「横浜錦絵」とも呼ばれた、開国後の横浜を舞台にした外国人の風俗が描かれた画題です。
1859年に貿易港として開けた横浜は、日本では見慣れない異国の文化がやってきた街として多くの人々の興味と関心を呼び、江戸の版元(はんもと:浮世絵の出版会社)が競って横浜絵を浮世絵師たちに描かせます。
すると、1860年から1861年の2年間と言う極めて短い期間に爆発的に大量生産されて、主に横浜港、西洋風建物、異国人の風俗などが、日本中に紹介されることとなりました。
開化絵(かいかえ)
出典:山星書店
▲『開花貴婦人競 三枚続』(1887年) 横山国松 木版画
開化絵(かいかえ)とは明治時代に描かれた浮世絵の様式のひとつで、明治維新後の東京での洋館・鉄道・馬車・人力車・ガス燈などが描かれました。
開化絵の塗料には毒々しい赤色をした鉱物のアニリンが使用されたため「赤絵(あかえ)」とも呼ばれています。
肉筆画と木版画
浮世絵の作品形態は、絵師が筆で直接紙に描いた「肉筆画(にくひつが)」と大量生産が可能な印刷物である「木版画(もくはんが)」に分かれます。
肉筆画(にくひつが)
▲世界的に著名な肉筆浮世絵作品。浮世絵師「菱川師宣(ひしかわもろのぶ)」の女性像の人気さは「師宣の美女こそ江戸女」と称されるほどだった。『見返り美人図』(17世紀後半) 菱川師宣
肉筆画(にくひつが)とは、絵師が筆で紙に直接描いたこの世に1枚しかない浮世絵のことです。
とても高価で、一般庶民では買うことができない品で、主に富裕層が絵師に注文して制作するのが基本でした。
また絵師にとっても肉筆画が売れた方が高収入になるので肉筆画しか描かない絵師もいたほどで、肉筆画を描くことができる絵師は社会的な地位が高かったとも言えます。
木版画(もくはんが)
▲歌川広重(うたがわひろしげ)による名所絵『名所江戸百景』(1856-1858年)の内「大はしあたけの夕立」
木版画(もくはんが)とは、絵師が描いた絵を彫って木版で刷り上げた浮世絵のことで、木版の凸面に墨や塗料をつけて摺る「凸版画(とっぱんが)」の技法が用いられています。
木版をひとつ作れば、何百枚も同じ絵を刷ることができる画期的な技術で、日本には奈良時代に中国から伝来し、鎌倉時代・室町時代に仏画などに用いられてきました。
江戸時代になると、作画をする「絵師」、木版を彫る「彫師(ほりし)」、印刷を行う「摺師(すりし)」などによる分業体制が確立され、大量生産による低価格化が実現します。
初摺と後摺
木版画は、すべて摺師によって大量生産されました。
初回は絵師の立ち会いのもとで、摺師が「試し摺り」を行ないます。
絵師の希望通りに修正した上で、まず200枚刷った物が「初摺(しょずり)」と呼ばれ、絵師の希望に合わせて刷られたものなので、かなり質が高い作品となります。
これに対して、その後追加で摺るのが「後摺(あとずり)」で、絵師が立ち会わず、木版も初回に比べるとやや劣化しているため、初摺よりも質の低い作品となります。
このように分業によって制作された木版画浮世絵は「錦絵(にしきえ)」とも呼ばれ、庶民たちにも手が届きやすいものとして爆発的に広まりました。
▲歌川国貞が浮世絵に描いた木版画製作の様子(1860年頃)
浮世絵の歴史
江戸時代前期(1603年〜1764年)
最初期の浮世絵には木版画はまだなく、肉筆画のみでした。
1670年(寛文10年)頃、肉筆画で浮世絵が描かれるようになったと言われています。
浮世絵の創始者と言われるのは、江戸時代初期の絵師である岩佐又兵衛(いわさまたべえ)です。
岩佐又兵衛の父は織田信長の家臣でしたが、反逆を企てたことにより一族皆殺しの目に遭うと、2歳だった又兵衛は乳母にこっそり救い出されて寺に預けられ育つ、というハードモードで人生のスタートをきった人物です。
京都で絵師として活動をはじめると、水墨画や狩野派などさまざまな流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げると、江戸初期の日本絵画の大巨匠「俵屋宗達(たわらやそうたつ)」と並ぶ絵師と言われるまでになりました。
▲江戸時代初期の風俗画の代表作の1つで、浮世絵の源流とも言われる。『彦根屏風』岩佐又兵衛
▼狩野派はこちらの記事で解説しています▼
これに対して、木版画の創始者と言われるのが菱川師宣(ひしかわもろのぶ)です。
『見返り美人』に代表される掛け軸のほかに、巻物、絵本や枕絵(春画)などの版本(はんぽん:木版で印刷された書物)に挿絵を描いて出版するなどの多彩な活動をしました。
▲菱川師宣は江戸初期の浮世絵師で、現在の千葉県あたりに生まれた。江戸に出て狩野派や土佐派に学ぶと、これを基礎に吉原の遊女や歌舞伎役者の風俗を生き生きと表現した作品を残した。また木版で絵本や挿絵を発表して『吉原の躰』などのシリーズものを作って木版画を確立し、「浮世絵版画の開祖」と称された。
版本の挿絵は墨一色の「墨摺絵(すみずりえ:墨摺りの木版画)」で描かれていましたが、後期作品として、墨摺絵に筆で1つ1つ彩色する「丹絵(たんえ)」が表れました。
出典:産経ニュース
▲版本の挿絵として描かれた黒一色の「墨摺絵」『仁王 小天狗の争い』(1695年頃)菱川師宣
出典:江戸ガイド
▲墨摺絵の上から1枚1枚手で彩色が加えられた「丹絵」『市川團十郎の竹抜き吾郎』(1697年頃)鳥居清倍
菱川師宣は、版本の中の1ページだった挿絵を一枚絵(観賞用の浮世絵版画)として独立させたことで、浮世絵の歴史に大きな足跡を残しました。
江戸時代中期(1765~1801年)
1枚ずつ手作業で着色する「丹絵(たんえ)」は美しく芸術性も高かったのですが、仕上げるまでに時間と手間がかかるのと、均質に仕上げることが難しく、安定性がありませんでした。
1765年、絵の好きな趣味人からの「多色摺りの浮世絵が欲しい」というリクエストに応えたのが浮世絵師の鈴木春信(すずきはるのぶ)でした。
色を重ねる時にずれないようにつける目印である「見当(けんとう)」を考案したこと、高価で丈夫な紙が用いられるようになったことが、多色摺りの浮世絵を生み出す必要条件だったのです。
錦のような美しい色合いを見せた多色摺りの浮世絵は「錦絵(にしきえ)」と呼ばれて浮世絵は大人気となり、優秀な絵師がどんどん育っていきました。
出典:浮世絵検索
▲鈴木春信の錦絵『The koto player』(1767年) 鈴木春信
江戸時代後期(1801年〜1867年)
江戸時代後期になると、葛飾北斎(かつしかほくさい)が『富嶽三十六景』のようなシリーズものの浮世絵を版行して広く世間に受け入れられました。
出典:waraku web
▲葛飾北斎の『富嶽三十六景』の特徴的な青い色はイギリスからの輸入品「ベルリンブルー(ベロ藍)」の塗料が用いられた。北斎が用いたことから「北斎ブルー」とも呼ばれる様になる。
江戸時代後期から明治にかけて勢力を持ったのが歌川派で、風景画の「歌川広重(ひろしげ)」、役者絵の「歌川豊国(とよくに)」、美人画の「歌川国貞(くにさだ)」、武者絵の「歌川国芳(くによし)」らが活躍しました。
歌川広重(うたがわひろしげ)は『東海道五十三次』全55枚のシリーズを版行すると飛ぶ様に売れ、摺り過ぎて木版が擦り切れるほどだったそう。
▲歌川広重は江戸後期の浮世絵師で、江戸時代の消防組織「火消し」の後継として生まれるが13歳の時に両親を失い、若くして家督を継いだ。その後家督を息子に渡し、浮世絵師として風景を描いた木版画で大人気となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。
北斎と同じ様にベルリンブルー(ベロ藍)を使った歌川広重の青色は「ヒロシゲブルー」と呼ばれています。
出典:みんなの知識
▲歌川広重の『東海道五十三次』は、北斎の『富嶽三十六景』に大きな影響を受けて版行された。
江戸時代後期の新しい技法としては、2枚あるいは3枚など、複数枚の絵をつなげると1枚の絵になる「続絵(つづきえ)」が登場して迫力のある構図が人気となりました。
出典:刀剣ワールド
▲右に「上杉謙信」、中央に「武田信玄」、左に「山本勘助」が描かれた3枚の続絵 『武田上杉川中島大合戦』歌川国芳
明治時代以降(1868年〜現代)
1854年に日米和親条約により200年以上に渡る「鎖国」が終焉すると、江戸から最も近い横浜港が1859年に開放され、これまでに見たこともない外国人などを描いた「横浜絵」が生まれました。
また1867年の徳川慶喜の大政奉還により徳川幕府の歴史が終わると、新政府軍と旧幕府側との戦いが描かれた「戦争画」が版行されます。
出典:刀剣ワールド
▲「五稜郭の戦い」(1869年)を描いた戦争画「画巻国史 函館五稜郭奮戦之図」右田年英
1872年(明治5年)には新橋ー横浜間に鉄道が開通し、日本橋周辺にバルコニー付きの「擬洋風建築(ぎようふうけんちく)」が建てられ、人力車・馬車やガス燈など、東京の変遷と西洋化を描いたのが「開化絵(かいかえ)」で、明るく鮮やかな色味を多用した、どぎつい色調のものが多いです。
出典:山星書店
▲『開花貴婦人競 三枚続』(1887年) 横山国松 木版画
▼擬洋風建築はこちらの記事で解説しています▼
日清・日露戦争後、新聞や雑誌、写真などが普及すると、浮世絵師の活躍はめっきり少なくなり、挿絵画家などへの転向を余儀なくされました。
明治40年(1907年)10月の朝日新聞には「江戸名物の錦絵は近年見る影もなく衰退して、カメラや絵葉書が流行した現代では錦絵の似顔絵を書く者も無ければ彫る人もなし」と書かれています。
1923年(大正12年)、関東大震災 によって壊滅的な被害を負った多くの版元は、いよいよ廃業に追い込まれることとなりましたが、20世紀以降では、変化・消失した名所、人々の生活や文化などを伝える貴重な歴史資料としても活用されています。
ナンタルカのまとめ
■浮世絵とは
(1)浮世絵とは江戸時代から大正時代に掛けて描かれた(①)のことで、代表的なのは遊郭の美女を描いた「(②)」、歌舞伎役者を描いた「(③)」、富嶽三十六景などの名所が描かれた「④」などがあり、庶民の需要や当時の風俗を反映されているのが特徴である。
(2)浮世絵の作品形態は、絵師が筆で直接紙に描いた「(①)」と大量生産が可能な印刷物である「(②)」に分かれ、絵師、彫師、摺師による分業で制作された多色摺りの木版画浮世絵は「(③)」と呼ばれ、庶民たちにも手が届きやすいものとして広まった。
■浮世絵の歴史
(1)浮世絵が創始されたのは江戸時代初期、肉筆画の絵師である(①)によって創始され、木版画は(②)によって創始された。江戸時代の中期になると、多色摺りの浮世絵を(③)によって広められた。
(2)江戸時代後期になると(①)によって『富嶽三十六景』が、(②)によって『東海道五十三次』が版行され、日本だけでなく世界の美術界に影響を与えた。
お疲れ様でした。
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