こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「お茶といえば千利休くらいしか知りません、、、。」
- 「茶室のインテリアに関わる用語を画像で確認したい。」
という人のために
分かりやすく画像付きで解説していきます。
そもそもお茶っていつから日本へ?
当たり前のように毎日飲まれているお茶。
その起源には諸説ありますが、奈良・平安時代に最澄(さいちょう)、空海(くうかい)などの留学僧が中国の唐からお茶の種子を持ち帰ったのが、日本のお茶の歴史の始まりとされています。
出典:伊藤園/おーいお茶HISTORY
平安初期(815年)の『日本後記(にほんこうき)』には、茶に関する記述が見られます。
当然ですが当時のお茶はとっても貴重で、限られた人のみしか口にすることが出来ませんでした。
鎌倉初期(1191年)に禅宗のひとつ『臨済宗』の開祖である栄西(えいさい)が中国の宋から帰国する際、日本にお茶を持って帰ってきて栽培を始めました。
これが日本ではじめてのお茶栽培と言われています。
出典:伊藤園/おーいお茶HISTORY
栄西はお茶にたいそうハマってしまったようで、お茶の効用から製法などについて著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を執筆しました。
これは、日本最古のお茶関連の書といわれています。
出典:伊藤園/おーいお茶HISTORY
この喫茶養生記はお茶好きの僧侶や武士たちのバイブル的存在となり、寺院などで喫茶の習慣が生まれました。
侘び茶、村田珠光により創始される
室町時代になると「茶の産地を当てる」という今でいう利き茶(ききちゃ)のような競技会が書院の広間や会所で催されていました。
このようなお遊びみたいな状況になってしまった傾向に疑問を持った浄土宗の僧であり茶人の村田珠光(むらたじゅこう)は、禅宗の点茶(抹茶を点(た)てること)や喫茶の作法を提唱します。
出典:Pinterest/村田珠光
▲1423年奈良に生まれる。11歳で浄土宗称名寺に入るが、20歳で寺を出た。
これが、現代の茶道の起源である侘び茶(わびちゃ)の創始とされています。
侘び茶とは書院における豪華な茶の湯に対し、簡素簡略の境地である『わび』の精神を重んじた茶の様式です。
村田珠光は僧だった為、後継ぎがいませんでした。
そこで興福寺というお寺で雑務を行なっていた宗珠(そうじゅ)という男の子を養子として迎えることになり、1502年に村田珠光が80歳で他界するまで、この宗珠に侘び茶のなんたるかを叩き込むことになります。
そして、時代(とき)は流れ、、、
侘び茶、武野紹鷗によって深められる
出典:堺観光ガイド
▲1502年に大和国(現在の奈良県)に生まれ、堺へ移り住み皮革商として財を成した。
武野 紹鴎(たけの じょうおう)とは、戦国時代の堺の豪商(武器とか動物の皮を扱っていたそうです)です。
商売の傍ら『5・7・5・7・7の長短句を交互に複数人で連ねて詠み、ひとつの歌にしていく』という「連歌(れんが)」をうたう連歌師でもありました。
30歳で出家して連歌師を辞めた武野紹鷗は、32歳の時に奈良県にある漆問屋に飾られていた、村田珠光が用意した枯淡(※)な白鷺(しらさぎ)の絵を見て、「侘び」の世界に目覚めた、という伝説があります。
(※こたん:俗っぽさや欲気がなく、あっさりとしている中に深い味わいを感じさせること)
こうして侘び茶の世界に飛び込む決心をした武野紹鷗は、村田珠光の後継者として立派に成長していた宗珠に会いに行き弟子となると、珠光の茶を学んで茶の湯の簡素化をさらに進めました。
武野紹鷗は54歳という若さで亡くなりましたが、千利休をはじめ優秀な弟子を多く輩出し、侘び茶の完成に大きく寄与した影響は計り知れません。
侘び茶、千利休によって完成される
出典:さかい利晶の杜
▲『茶聖』とも呼ばれた千利休は、意外にも身長180cm以上もある大男だったそう
千利休(せんのりきゅう)は1522年に堺に生まれ、実家は倉庫業を営んでおり、主に商人たちに倉庫を貸していました。
17歳という若さで茶を習い始め、様々な師のもとを渡り歩きましたが、やがて武野紹鷗と出会い、彼の弟子として茶を学びはじめます。
ちなみに利休は、茶を習いながらも商人としても大成功しており、莫大な財を築いていました。
その後、利休さんの住む堺が織田信長の支配によって直轄地となっていく過程で織田信長に召し抱えられることとなります。
1582年、本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えます。
この時、利休は60歳。
この年の8月に、利休は秀吉に茶室を作るように命じられます。
そして翌年の1583年3月、現存する唯一の利休プロデュースの茶室である『妙喜庵の待庵(みょうきあんのたいあん)』(後述)を完成させました。
わずか2畳という極小の茶室で、現在は国宝に指定されています。
出典:森美術館
▲わずか2畳という広さの妙喜庵待庵(ものつくり大学によるCG)
その後、利休は豊臣秀吉から京都での大規模なお茶会「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を開催させられたり、黄金の茶室を作らされたりしましたが、心の内では
「茶の本道は仏教の精神を表現することにある」
と考え、小規模な草庵(粗末で小さな家)での茶会を重視してました。
このため、利休の茶は『草庵の茶』ともよばれます。
利休さん、70歳の年。
豊臣秀吉の最側近にまで上り詰めるも、突然、秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられます。
多くの弟子たちが利休さんを助けるために奔走しましたが助けることは出来ず、秀吉の命令を受けた側近の上杉景勝の軍勢が出動するなど、大騒ぎになりました。
秀吉さんが利休さんにブチギレた理由は諸説ありますが、よく分かっていません、、、
国宝!三大茶室!
・千利休の『待庵(たいあん)』
・織田有楽斎の『如庵(じょあん)』
・小堀遠州の『密庵(みったん)』
この三つの茶室は国宝に指定され、三代茶室と呼ばれます。
茶室は『数寄屋(すきや)』とも呼ばれ
その建築は、のちの建築様式である数寄屋造りに大きな影響を与えました。
▼数寄屋造りのインテリアはこちらから!▼
待庵(たいあん)
出典:小林工芸
1582年、千利休のプロデュースにより建築された妙喜庵の待庵は国宝であり、現存する最古の草庵茶室です。
畳の2畳敷で、採光のために連子窓(れんじまど)や下地窓(したじまど)が設けられ、床(とこ)は、内面の角の柱や天井の縁を壁で塗り隠した室床(むろどこ)となっています。
連子窓(れんじまど)
▲妙喜庵待庵の連子窓
連子窓(れんじまど)とは、細い木や竹などを一定の間隔で並べた窓のことです。
採光、通風、防犯を目的としています。
ちなみに飛鳥時代の法隆寺に使用されていた窓も「連子窓」といいます。
出典:Letuce’s room
▲法隆寺の西院伽藍にある回廊の連子窓。縦に入っている菱形の木の桟は連子子(れんじこ)という。
▼飛鳥・奈良時代のインテリアはこちらから▼
下地窓
出典:岩崎建築研究室
▲妙喜庵待庵の下地窓
下地窓(したじまど)とは、茶室の土壁の一部を塗り残し、装飾として下地の格子状の竹を露出させた窓のこと。
上の写真をよく見るとL型の引っ掛けがあり、ここに障子を引っ掛けて取り付けることができます。
このように引っ掛けて使う障子のことを掛け障子といいます。
室床(むろどこ)
出典:Pinterest
▲妙喜庵待庵の室床
室床(むろどこ)とは床の間の形式のひとつで、床の間の内側の角(かど)の柱や天井の縁(ふち)(※)を壁で塗り隠して、見えなくした床のことです。
(※雲板(くもいた)と呼びます。)
出典:しけたむ
▲一般的な床の間は、床の間の内側の角の柱や天井の縁の雲板が見えています。京都『天龍寺』より
ちなみに洞床(ほらどこ)も床の間の形式のひとつで、床の前面の片側に「袖壁」をつけて、「落掛け(おとしがけ)」と袖壁がつながって、内側は室床と同じ様に塗り回されているその名の通り洞穴(ほらあな)のようになっている床の間のことです。
出典:KLASIC
如庵(じょあん)
如庵(じょあん)とは、1618年に織田信長の弟(‼︎)である『織田有楽斎(おだうらくさい)』によって建造された国宝の茶室です。
如庵の間取りは「二畳半台目(だいめ)」という広さです。
台目畳(だいめだため)とは「通常の畳の大きさの4分の3の大きさの畳」で、この大きさで換算すると二畳半台目の広さは、
「2畳 + 半畳(0.5畳) + 台目畳(0.75畳)」
つまり如庵の室内は約3.25畳の広さということになります。
また、如庵の開口部には連子窓や有楽窓(うらくまど)が設けられています。
有楽窓は連子窓より、もっと隙間なく竹を配して光をかすかに通すようにした窓です。
▲二畳半台目の広さの室内。写真正面の壁の窓には2カ所に有楽窓が使用されている。
もともと京都府の建仁寺に建てられた如庵ですが、現在は愛知県犬山市に移設されました。
移設には電車を使って、解体せず行なったとか。
密庵(みったん)
出典:ことしるべ京都新聞
▲京都にある臨済宗大徳寺『龍光院(りゅうこういん)』内にある密庵。国宝・重要文化財の建物や美術品を多数有するが、すべて非公開で特別公開の類も行っていない、拝観謝絶の寺院。
密庵と書いてみったんと読む、という初見殺しの国宝の茶室です。
茶人であり、建築家でもあった小堀遠州(こぼりえんしゅう)が京都の臨済宗大徳寺『龍光院』に江戸時代前期(17世紀中頃)に建立したと言われています。
出典:遠州流茶道/『小堀遠州』
完全に非公開の茶室で、期間限定の公開も行っていないため『日本で最も見るのが難しい建造物』のひとつです。
出典:Kazz zzak
▲①CGで製作された密庵。密庵へは南西の貴人口(きにんぐち)(※)から入る。躙口(にじりぐち)(※)は無い。(※後述)
出典:Kazz zzak
▲②室内は四畳半台目というコンパクトサイズ。右奥(東側)には国宝の書である『密庵咸傑墨蹟(附 千利休消息)』を掛けるための「密庵床(みったんどこ)」が設けられている。
出典:Kazz zzak
▲③北側の方角。つまり正面の床の間はこちら。
茶室のエレメント
草庵風の茶室(藁(わら)・茅(かや)などの植物で屋根を葺(ふ)いた粗末な茶室)で特徴的で必出のキーワードを集めました。
ここで完璧に覚えてしまいましょう。
躙口(にじりぐち)
出典:明々庵
▲1779年に建てられた松江市『明々庵』の躙口
躙口(にじりぐち)とは、一般の客が出入りする幅1尺9寸5分、高さ2尺2寸5分を基本的なサイズとするとても小さな茶室への出入り口のことです。
(1尺は30cm、1寸は3cmです。)
このにじり口を茶室に取り入れたのは、千利休。
千利休が生きた戦国時代は主従(上下)関係が強い時代でしたが、茶室の中ではすべての人が平等ということを示すために入り口を低くしました。
どんなに身分が高い人でも、刀を外し頭を下げなくては茶室に入ることができません。
また小さな室内を広く見せるための工夫、とも言われます。
特別に高貴でわがままなお客様(特に豊臣秀吉)を通す際には頭を下げさせるわけにはいきませんので、立ったまま出入りできる貴人口(きにんぐち)が用意されました。
出典:梶本銘木店
▲正面にある大きな入り口が『貴人口』。その左下の小さな入り口が『躙口』。
土壁(つちかべ)
出典:iemiru
草庵茶室の壁は一般的に土壁で塗られています。
仕上げ(上塗り)用の土色により、聚落(じゅらく)壁、錆(さび)壁など様々な種類があります。
床面から高さ30−60cmほどのところまで和紙を貼ることもありました。
これを腰貼り(こしばり)と呼びます。
関西で多く見られ、意匠だけではなく壁の足元を保護する意味合いがあります。
▲朱い土壁に腰貼りで足元を保護している例
台目畳(だいめだたみ)
▲奥に見える畳が台目畳
茶室で使われる畳のことで、普通の畳の約4分の3(0.75畳)の大きさの畳のことです。
普通の畳にこの台目畳を加えた部屋の大きさは
二畳台目(2畳+0.75畳=2.75畳)
三畳半台目(3畳+0.5畳+0.75畳=4.25畳)
・・・と表記されます。
手前畳(てまえだたみ)、亭主畳(ていしゅだたみ)
手前畳(てまえだたみ)とは、茶室で主人が点茶(てんちゃ:茶をたてること)をする場所の畳のこと。
茶道具が置かれ、道具畳(どうぐだたみ)や亭主畳(ていしゅだたみ)とも呼ばれます。
風炉(ふろ)・涼炉(りょうろ)
出典:精選版 日本国語大辞典 /風炉
出典:きょうとウェルカム
風炉(ふろ)は茶を沸かす炉のことで、「茶炉(ちゃろ)」や「涼炉(りょうろ)」ともいいます。
元々は中国で使用されていた野外で火をおこすために考えられた携帯湯沸かし器で、古くなったり、使い終わった後は廃棄されるのが慣例だったので、手の掛かった彫刻や造形を施された風炉はほとんどありませんでした。
江戸時代に日本に煎茶法が伝わったときに風炉も一緒に伝来しましたが、渡来品であることと、素焼きという素朴さが茶人達の心を捕らえて珍重され、中国本土で凝ったデザインの風炉が生産されるようになると、日本でも装飾に富んだ風炉がみられるようになりました。
台子(だいす)
出典:水の茶の湯の徒然/台子
台子(だいす)とは、侘び茶で用いられる茶道具を置く台のことで風炉や茶碗が置かれました。
長方形の板上下2枚を柱で支えた構造をしていて、上の板を天板(てんいた)、下の板を地板(じいた)と呼び、地板のほうが厚みがあります。
一般に格式の高い茶礼で用いるものとされていて、とくに格式の高い真台子(しんだいす)を用いた点前・手前(てまえ:茶をたてる行為)は、奥儀・奥伝・奥秘などと呼ばれて最後に弟子へと伝授される習わしです。
▲最も格式の高い『真台子』。幅91cm奥行き42cm高さ67cmほどとかなり大型で、京間でなければ畳からはみ出てしまう。『台子皆具(武者小路千家蔵)』
掛け込み天井(かけこみてんじょう)
出典:和比×茶美/茶室
掛け込み天井(駆け込み天井とも)は、傾斜となっている部分に天井を貼らず、梁や垂木が見えるように仕上げた勾配天井と、天井の高さが均一になっている平天井を組み合わせた天井のことで、茶室で広く用いられています。
千利休が考案して完成させた天井です。
出典:酒とネコ
▲妙喜庵待庵の天井は、わずか2畳の広さながら3つの部分に分かれている。床の間前は平天井、炉のある真上はこれと直交した平天井とし、残りの部分は東から西へと高くなる掛け込み天井。この掛け込み天井は躙口(にじりぐち)から入った客に少しでも圧迫感を感じさせない工夫とされる。
葦簀(よしず)天井
出典:STYLE HAUS
葦簀天井とは、葦簀(よしず)を使った天井のこと。
葦簀とは、イネ科の多年草である『葦(よし・あし)』の茎で作ったすだれのことで、古くから利用されてきました。
出典:Rebus Market
▲北海道から沖縄まで、広い地域の河川や湖沼の水際に生育している「葦(よし・あし)」
この葦簀(よしず)で使用されている「葦」には「よし・あし」という2つの読み方があります。
もともと「あし」と呼ばれていましたが「悪し」を連想させるため、「よし(良し)」と言い換えられたもので、『日本書紀』を参考にすると、およそ平安時代ごろまでは「あし」と呼ばれていたようです。
関西地方のようにお金を意味する「お足(あし)」という言葉がある地域は、「あし」という言葉が良い意味として残っていることもあります。
葦簀天井は、現代では和室だけではなく様々な場所使用されています。
露地(ろじ)
出典:enaga
▲露地(ろじ)とは茶庭(ちゃてい)とも呼ばれる茶室に付随する庭園のこと。手前には蹲踞(つくばい)、右には飛び石が見える。
露地(ろじ)とは茶室に付随する庭園のことで、待ち合わせの場所として使用する待合(まちあい)、露地を渡り歩く足場とするために、飛び飛びに配置された飛び石(とびいし)などが通路に配置されます。
▲待合(まちあい)は茶会で客が待ち合わせ、身支度を整えるための施設。「寄付(よりつき)・袴付(はかまつけ)・一宿(ひとやどり)・腰掛待合(こしかけまちあい)」などとも呼ばれた。
また露路に置かれる代表的なものとして、茶室に入る前に手を清めるために置かれた背の低い手水鉢(ちょうずばち)や、その周りにいくつかの石(役石・やくいし)を置いて趣を加えた蹲・蹲踞(つくばい)などがあります。
出典:スマイルフェイス
▲蹲(つくばい)とは、手水鉢で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばるように身を低くして手を清めたのが始まりとされる。『龍安寺:知足の蹲踞』
露路には、ほかにも便所である雪隠(せっちん)、暗い時に明かりを灯すための石灯籠(いしどうろう)などが置かれます。
出典:造形礼讃
▲灯りの火が消えないように籠(かご)をした石灯籠。光源には油やロウソクが用いられた。
ナンタルカのまとめ
■茶室の歴史
鎌倉時代に中国から伝わった茶は、室町時代に侘び茶の創始者である(①)によって広められ、室町時代後期に(②)によって深められ、(②)の弟子である(③)によって完成された。(③)の茶は「(④)の茶」ともいう。
■三大茶室
豊臣秀吉の命令により建築された(①)は、2畳という極小の茶室である。織田有楽斎によって建てられた(②)、小堀遠州によって建てられた(③)を加えた三つの茶室は三大茶室と呼ばれ、国宝に指定されている。
■茶室のエレメント
(1)草庵風の茶室では、一般の客が出入りする極小の出入口である(①)、特別に高貴な客を通す(②)などがあり、窓には茶室の壁を塗り残して下地の格子状の竹を見せた(③)、畳には普通の畳の約4分の3の大きさの(④)などが使われた。
(2)茶室の天井には、平天井に対して勾配天井で屋根裏がそのまま見える傾斜した天井の(①)が妙喜庵待庵などで採用された。茶室の道具には、茶道具を置く台である(②)、茶を沸かす炉である(③)が用いられ、茶室の庭である(④)には手を清める手水鉢が置かれた(⑤)が配された。
お疲れ様でした。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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