こんにちは、しけたむです!
この記事では
- 「堅苦しい書院造の様な和室ではなく、もっと趣向を凝らした遊びも入れたい。」
- 「寝殿造、書院造、数寄屋造、、、『造』が多くて混乱する。」
というブログ読者の皆様へ、
数寄屋造の建築様式の特徴を分かりやすく画像付きで解説していきます。
数寄屋造とは?
数寄屋造り(すきやづくり)とは日本の建築様式のひとつで、「書院造に草庵風(※)茶室の建築手法を取り入れた様式」のことです。
(※ 草庵風茶室とは室内の広さが四畳半以下の小さな茶室で、草葺(ぶ)きの屋根・土壁・下地窓・躙(にじ)り口などが特徴。千利休がこの形式を完成させたとされます。)
▼前回記事、茶室のインテリアはこちらから!▼
語源の「数寄(すき)」とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことで、「数寄屋(すきや)」は「好みに任せて作った家」といった意味で「茶室」のことを意味しています。
数寄屋造りのはじまり
数寄屋と呼ばれる茶室が出現したのは安土桃山時代のことです。
もともとは小規模(四畳半以下)な茶室のことを「数寄屋」と呼んでいました。
数寄屋が生まれる前は武士を中心に広まった書院造が主流で、床の間や棚、付書院を豪華にすることで身分や格式を誇示する役割を持っていました。
▼書院造について忘れてしまっていたらこちらから▼
しかし、書院造の格式ばった意匠や豪華な装飾を嫌った茶人たちに好まれたのが俗っぽさの無い数寄屋だったです。
このようにして、『書院造をベースとして、茶の数寄(和歌や茶など風流を好むこと)の心をミックスする』という質素ながらも洗練された意匠の様式が生まれました。
建築材料には竹や杉皮を天井にあしらったり、壁は土壁を塗ったりと自然素材を自然のままに取り入れます。
出典:水野設計室
▲土は代表的な自然素材で茶室にも頻繁に使用され、現代でも人気が高い
竹であれば節を生かす、丸太は丸太のまま使い、素材の良さをそのまま生かすことが大切にされました。
▲丸太をそのまま生かした柱と天井には竹が用いられている
素材だけでなく、シンプルに簡素化された意匠も特徴です。
床の間の段差を無くしたり、長押(なげし)を省略したり、空間作りを行う上で無駄な装飾を削ぎ落としている例も多いです。
出典:LIXIL
▲長押(なげし)は現代でも和室で見かける、部屋の四周に張り巡らせる装飾的な化粧材のこと
出典:飛雲閣
▲京都にある国宝『西本願寺飛雲閣』(1638年)は数寄屋造を代表する江戸初期の建築で、金閣、銀閣と並んで「京の三閣(三名閣)」と呼ばれる。
出典:飛雲閣
▲『西本願寺飛雲閣』の第一層にある数寄屋造の茶室『憶昔(いくじゃく)』
もともとは質素を追求した建築様式を数寄屋造と呼んでいましたが、時代の流れとともに変化し、現代では「特別に高価な素材を使用し、かつ高度な技術を用いて作られた高級建築」という意味でつかわれることが多いです。
数寄屋造のエレメント
数寄屋造には、書院造や茶室では見られなかった新たな要素が現れました。
その要素としてまず語られるのは、やはり『棚』です。
棚
書院造では「違い棚」を基本としていた棚には、安土桃山時代の建築家たちの趣向を凝らした新しい意匠が次々に誕生しました。
その中でも『天下の三名棚(さんめいだな)』とまで呼ばれる芸術的作品がこちらです。
桂離宮の桂棚(かつらだな)
出典:ふらふら京都散歩
▲『桂離宮』は中央に複雑に入り組んだ美しい池と大小5つの島が橋で繋げられ、要所要所には茶室がしつらえてある
桂離宮(かつらりきゅう)は京都市西京区にある八条宮(はちじょうのみや)家(のちの桂宮家:かつらのみやけ)の別荘として、1615年(ごろ)に創設されました。
離宮とは「皇居とは別に設けた宮殿」の意味ですが、「桂離宮」という名称になったのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業(かつらべつぎょう)」と呼ばれていました。
創建以来火災に遭うこともなくほぼ完全に創建当時の姿を今日に伝えていて、修繕を行いながら現在に至ります。
かつて1933年(昭和8年)に来日したドイツの建築家であるブルーノ・タウトは
「近代建築の理念につながる美学に驚かされた。」
と桂離宮を大絶賛し、改めて国内で注目されるようになりました。
▼ブルーノ・タウトはこちらの記事でご紹介▼
そして、こちらが桂離宮内にある桂棚(かつらだな)です。
出典:菊葉文化協会
▲桂離宮にある『中書院』一の間にある桂棚。一の間の南側には櫛(くし)型窓の付書院があり、その脇に棚板、地袋、袋棚を巧みに組み合わせた「桂棚」と呼ばれる違い棚がある。
桂棚は、違い棚に地袋(じぶくろ:床に接して設けられた戸棚)や袋棚(ふくろだな:床の間の上部に設けた戸棚)と呼ばれる収納を融合したオリジナリティあるデザインの違い棚となっています。
非常に凝った造作となっていて、紫檀(したん)、鉄刀木(たがやさん)という頑丈で木目の美しい高級木材が惜しげもなく使用されています。
出典:Kenji’s room
▲ 桂棚を正面から。右側には美しい金箔が施された屏風が置かれている『芸術新潮1987年2月号』
修学院離宮の霞棚(かすみだな)
出典:Ameba
修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)は京都市左京区にある後水尾上皇による指示で造営された離宮で、1653~1655年頃に完成しました。
比叡山の麓(ふもと)の傾斜地と豊かな水流を利用した美しい日本庭園としても有名で、修学院離宮内には上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼び習わす3か所の庭園があります。
違い棚の変形型のようなデザインの霞棚(かすみだな)は「中御茶屋」の書院にあります。
▲5枚の板を高さを違えて設置し、霞のたなびく様に似ることから「霞棚」と称されている
霞棚の違い棚は5枚全てが異なる材種で作られているというこだわりぶり、すぐ下には地袋があり、その上には細長く上から見ると三角形の形をした棚があります。
うしろにぺたぺた貼られている文字は、和歌と漢詩です。
醍醐寺三宝院奥宸殿の醍醐棚(だいごだな)
出典:醍醐寺
京都市伏見区にある醍醐寺(だいごじ)は、豊臣秀吉が1598年に開催した大規模な花見の宴『醍醐の花見』で有名なお寺で、平成6年に世界文化遺産(※)に登録されました。
(※桂離宮と修学院離宮は世界遺産に登録されていません。)
この醍醐寺にある三宝院(さんぽういん)という寺院は国の重要文化財となっていて、1115年に創建され1467年に焼失した後、安土桃山時代に再建されたと言われています
▲1115年に創建された三宝院は応仁の乱(1467年)で全焼し、豊臣秀吉の時代に再建された
この三宝院にある書院の間「奥宸殿(おくしんでん)」にある違い棚が、醍醐棚(だいごだな)です。
出典:わたなべハウジング
▲醍醐棚の図面と写真。醍醐棚は1本の支柱で支えられていて、棚には透かし彫りの板が配されている
醍醐棚は1650年頃の作品で、最大の特徴は奥行きがとても深い(約半間)ところにあります。
現代ではこの程度の奥行きは一般的ですが、当時としては標準の倍近くあって、しかしこの奥行き寸法に合わせて棚板も奥に長ーく作ると見栄えが悪くなる、、、
そこで棚板を深くする代わりに、背後の壁から棚板を切り離して前に出したデザインになっているのです。
すると棚板が背後の壁から離れて宙に浮いたような状態となり、このままでは宙ぶらりで納まりが悪くなるので、奥に花菱文様の透かし彫りを入れて、構造上安定させるために支柱を一本立てた、というわけです。
床(とこ)・付書院
面皮柱(めんかわばしら)・磨き丸太
出典:徳田銘木
▲角は丸のまま残し、4面に木目を出した面皮柱(中央の床柱)
数寄屋造では床の間の意匠のデザインにも多様性が見られ、職人たちは技を磨いてさまざまなデザインを生み出しました。
かつての書院造の本床(ほんどこ:正式な床の間)では、床柱に面取り(めんとり)角柱の使用を原則としました。
面取りとは角を削ることです。
出展:カインズ
▲角を削って(面取り)丸くした角材。丸太の樹皮は残っていない。
つまり面取り角柱とは、角を削ってしまって丸太の樹皮は残さないという柱なんですね。
しかし数寄屋造では、丸太の4面をまっすぐに削り柱状に整えてから、4つの角を削らずに樹皮がついたまま残した『面皮柱(めんかわばしら)』が用いられました。
出展:木の店さんもく
▲柱の角を削らず、残した面皮柱。写真は樹皮を剥がし、丸太の凸凹を残して磨いた『絞り丸太』を使った面皮柱。
面皮柱のほかにも、杉の丸太の皮を剥いで水で磨いてツルツルの触りごこちにした磨き丸太なども床柱に用いられるようになりました。
狆潜り(ちんくぐり)
床の間の脇を仕切る壁の下の方にある吹き抜けのことを狆潜り(ちんくぐり)、または犬潜り(いぬくぐり)、ともいわれます。
「狆(ちん)」とは犬の種類のことで、奈良時代、朝鮮半島の神羅(しらぎ)から聖武天皇へ献上されたのが日本での初めての狆でした。
とっても愛らしい小型犬です。
出典:サライ/狆
数寄屋造のエレメントとして、狆の名前が残っているなんてとっても愛されていたのかと推測されます。
狆潜りには様々なデザインがありますが、本当に犬を潜らすためなのか、明かり取りとして付け始めたのか、その起源は詳しくは分かっていません。
出典:しけたむ
▲京都天龍寺の狆潜り
建具・壁
源氏襖(げんじぶすま)
障子を中に組み込んだ襖を源氏襖(げんじぶすま)といいます。
源氏襖は「中抜き襖」とも呼ばれ、この襖を使うことで部屋に光を取り入れたり、デザインに変化をもたせることができます。
唐紙(からかみ)
出典:RAKUTOKO /唐紙
唐紙(からかみ)とは、その名の通り奈良時代に中国の唐から渡来した紙の総称で、渡来後はそれに似せて日本で製した紙のことをいいます。
平安時代に京都で広まり、華麗な模様のある厚手の紙が衝立(ついたて)・襖障子(ふすましょうじ)、その他の装飾に用いられていました。
江戸時代には襖専用の紙を「からかみ」、中国産の紙は「とうし」とよんで区別され、唐紙(からかみ)は源氏襖などに使用され、型押しされたり、多種多様なデザインが生産されました。
京の職人がその技術を江戸へも伝え、「江戸唐紙(えどからかみ)」として庶民にも親しまれるようになったのです。
出典:星野リゾート
▲唐紙のさりげなく上品にその場に溶けこむ優美さは数百年かけて洗練され、今なお磨かれ続けている
土壁(つちかべ)
出典:水野設計室
数寄屋造の特徴のひとつは自然との調和を図るために自然素材を多様することで、壁には左官技術(土をコテを使って壁に塗る技術)が大いに活かされた土壁(つちかべ)が多用されました。
土壁は、土と藁(わら)や麻、細かい紙やスサ、砂、水をこねて作られ、柱と柱の間に格子状に縄で竹を編み込んだもので「下地(したじ)」を作り、「粗塗り(あらぬり)」、「中塗り(なかぬり)」、仕上げの「上塗り(うわぬり)」と、三回塗り重ねて作られます。
出典:iemiru
▲水や土、砂、藁などの自然素材しか使わない土壁は現代でも人気が高い。空間の湿度を調整するなど美しさだけでなく、機能性にも優れているのが土壁の魅力のひとつ。
日本に本格的な塗り壁ができたのは、約1,300年前の飛鳥時代といわれています。
その頃に建てられた法隆寺(ほうりゅうじ)の内壁には仏像が描かれていますが、その下地は土壁です。
その土壁を塗る職人は「可部奴利(かべぬり)」と呼ばれ、その後「左官(さかん)」と呼ばれるようになって現在にいたります。
また、京都には独特の「聚楽壁(じゅらくかべ)」という土壁が存在します。
これは豊臣秀吉が京都に建造した城郭「聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)」のあたりでとれる土「本聚落土(ほんじゅらくつち)」を材料にしたものです。
出典:左官やブログ
▲「聚落」という言葉を使った類似品が多く出回っているが、本物の本聚落土は今ではなかなか取れない貴重な土となっている。
特徴は、通常の土壁は水に弱いのですが聚楽壁は水に強いことと,その独特の柔らかな色が好まれ、茶の湯を大成した千利休も茶室の壁に好んで用いたといわれています。
出典:京都迎賓館
▲京都迎賓館では本聚落土を使用して上品で落ち着きのある佇まいを演出している
非常に良質な聚落土は京都のどこにでもある土というわけではなく、不思議なことに聚楽第周辺のごく限られた場所からしか見つからない非常に貴重な土です。
ナンタルカのまとめ
■数寄屋造とは
数寄屋造りとは日本の建築様式のひとつで「書院造に(①)の建築手法を取り入れた様式」のことです。桂離宮、修学院離宮、(②)などがその典型で、(②)は金閣、銀閣と合わせて「(③)」とも呼ばれている。
■数寄屋造のエレメント
(1)数寄屋造では書院造のエレメントがさらに多様化し、桂離宮の(①)、修学院利休の(②)、醍醐寺三宝院奥宸殿の(③)の違い棚は「(④)」といわれる。
(2)床の間では書院造の本床は床柱に面取り角柱の使用を原則としたが、数寄屋造では丸みを持った角部に樹皮がついた(①)をつかったり、皮をはいで水磨きをした(②)が用いられた。また、床の間の側面下部に穴を開けた(③)がみられるのも特徴のひとつである。
(3)襖には中に障子を組み込んだ(①)が現れ、華麗な模様のある厚手の紙(②)が貼られた。壁には左官職人による(③)が多用された。
お疲れ様でした。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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