どうも、しけたむです。
この記事では
- 「アール・ヌーヴォー(ヌーボー)について少しわかってきた。」
- 「ユーゲント・シュティールって何なん?」
という方々に向けて、
アール・ヌーボーのデザイナー紹介の後編とユーゲント・シュティールについて、分かりやすく画像でご紹介していきます。
アール・ヌーボーのデザイナー【後編】
▼あれ、前編見てないよ?と言う方はこちらから!▼
エミール・ガレ
エミール・ガレ(1846年 – 1904年)とは、アール・ヌーヴォーを代表するフランス生まれのガラス工芸家であり、家具家具デザイナーです。
父親が陶磁器と家具の工場を運営していた為、幼少の頃からそれぞれの分野に身近に接する機会が多かったガレは、19歳になるとドイツのヴァイマルに留学し、ドイツ語とデザインについて学び、翌年からドイツのガラス工場でガラス製造の技術を習得しました。
24歳の頃、普仏戦争が始まり義勇軍として戦争に参加し、31歳で軍人を退役したガレは、父が運営していた工場を継ぎ企業経営者としても活動することになります。
翌年、1878年のパリ万国博覧会に出品したいくつかの『月光色(げっこうしょく)』のガラス器等が注目を浴びます。
この月光色ガラスはガレが独自に開発したもので、酸化コバルトを使って淡い水色に発色させた美しいガラスでした。
出典:ESTーOUEST
▲月光色(ムーンライト)と呼ばれるガレが開発した特殊な淡いガラス。
また、ガレのモチーフには植物や昆虫が使われることが多く、古来のガラス技法を生かしながらも生き生きとした表現力で魅せる彼の作品は世界中から高い評価を受けました。
出典:Pinterest
▲昆虫をモチーフにしたガラス花瓶。
ガラス器や陶器、家具など、幅広いガレの作品には、さまざまな形で日本美術との深い結びつきが見られます。
ガレの日本美術への傾倒ぶりは当時の批評家に、
「ナンシー(フランスのガレの故郷の街)で、日本人として生まれた運命のいたずら」
とまで言わしめたほどでした。
もちろんガレの作品は、日本美術へも多大な影響を与えています。
▲エミール・ガレの『ひとよ茸ランプ(Inky cap lamp)』(1902)
ルイス・コンフォート・ティファニー
出展:Dtale
ルイス・コンフォート・ティファニー(1848年 – 1933年)は、アメリカの金細工師、宝飾デザイナー、ガラス工芸家で、有名宝飾店ティファニーの創業者であるチャールズ・ルイス・ティファニーの長男です。
アメリカにおけるアール・ヌーヴォーの第一人者として知られ、主にステンドグラスやモザイク加工のガラスランプ『ティファニーランプ』の製作などにおける芸術家として名を馳せています。
出典:TIMEーAZ
▲ステンドグラスで製作されたティファニーランプはスティーブ・ジョブスも愛した照明
ティファニーのステンドグラスの製法は、それまで主流とされてきたエナメル塗料を直にガラスに塗りつけて色を付ける方法を抑え、色彩ガラスを利用した手法になっています。
これは17世紀頃に失われた技法をティファニーが再現したものです。
▲トンボのモチーフはいくつかのティファニーランプで用いられている人気のデザイン
ティファニーは85歳で亡くなる5年前に、自身のニューヨークにあるガラス工芸スタジオ『ティファニー・スタジオ』が倒産し、24年後にはティファニーの自宅で84部屋ある大豪邸『ローレルトン・ホール』が火事で焼失するなど、苦難が続きました。
出典:louiscomforttiffanyfoundation
▲ニューヨークのロングアイランド島にあったティファニーの別荘『ローレルトン・ホール』には、ティファニーのお気に入りのコレクションが多数展示されていた。
▼ステンドグラスはこちらの記事でも紹介しています▼
ルイ・マジョレル
ルイ・マジョレル(1859 – 1926)は、アール・ヌーボーを代表するフランスの家具デザイナーです。
マジョレルは家具職人の子として生まれ、パリの美術学校で絵画を学びました。
その後、父の死により家業の家具・陶芸工房を継ぎますが、1880年代のエミール・ガレのアール・ヌーボー作品に刺激を受け、1898年には伝統的様式からアール・ヌーボー様式の家具制作に転向します。
1900年のパリ万国博覧会で寝室『睡蓮(すいれん)』を発表し、流麗な曲線の造形、彫刻装飾の精巧さが話題になりました。
出典:Du Grand art
▲特徴的な脚を持つマジョレルのレザーアームチェア。
出典:Du Grand art
▲アールヌーボーの典型的なエンブレムとして睡蓮、アザミ、鳥、トンボなどの動植物や昆虫などが好まれた。
▲アール・ヌーボーらしい曲線的で有機的な作品が多いルイ・マジョレル。
ルイ・マジョレルの生まれはフランスのナンシー(トゥールという説もあり)と言われていますが、ここはガラス工芸で有名なエミール・ガレの故郷でもあります。
ナンシーではエミール・ガレを中心とした「ナンシー派」と呼ばれるアール・ヌーボーの芸術団体があったのですが、この団体の副リーダーを務めたのがルイ・マジョレルです。
ナンシー派は日本美術の影響を強く受け、家具や工芸品で芸術性の高い作品を生み出しました。
出典:Ville de Nancy
▲フランスのナンシーにある『ナンシー派美術館』には、エミール・ガレやルイ・マジョレルらのアール・ヌーボー作品が所狭しと展示されている。
チャールズ・レニー・マッキントッシュ
出展:National Museums Scotland
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868年 – 1928年)はスコットランドの建築家であり家具デザイナー、そして画家であり、アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者として、またスコットランドにおけるアール・ヌーボーの第一人者として活躍した人物です。
1868年、警察官の父の四男としてスコットランドのグラスゴーに生まれたマッキントッシュは、幼少の頃より足と目に障害を持っていましたが、スコットランドの豊かな風土に囲まれながら多くのスケッチを描いて過ごしました。
16歳の時にグラスゴーの建築家の下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部に入学すると多くの学校賞を受賞しています。
その後マッキントッシュは仲間の学生、後の妻となるマーガレット・マクドナルドとその妹を含む4人で芸術家グループ『THE FOUR(ザ・フォー)』(日本では『四人組』と呼ばれる)を結成すると人気を博し、グラスゴー、ロンドン、ウィーンの各地で展覧会を開くほど有名に。
出典:HISTORYTWO
▲「THE FOUR」のメンバーは、マッキントッシュと後の妻となるマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、そしてハニーマン&ケッピー設計事務所での同僚でもあるハーバート・マックニーの四名。
ザ・フォーの評判が高まると、ヨーロッパ各地から建築家や芸術家が集まり、ザ・フォーを中心として「グラスゴー派(グラスゴースタイル)」と呼ばれる集団を形成し、マッキントッシュの名声を確立させました。
▲マッキントッシュ率いる芸術家集団「THE FOUR」に憧れてヨーロッパ各地からグラスゴーに集まった建築家やデザイナーたち。前列右がマッキントッシュ、後列一番左が妻のマーガレット・マクドナルド。
「グラスゴー・スタイル」の展覧会は、ヨーロッパ各地でその後も開かれ、ゼツェッション(分離派)にも影響を与えたと言われています。
▲分離派(ゼツェッション)にも大きな影響を与えた「THE FOUR」の芸術作品。マーガレット・マクドナルドの『The May Queen』(1900)
出典:Frickr
▲3枚のパネルをつなげると、高さ1,582mm x 幅4,620mmという巨大な一つの絵となるチャールズ・レニー・マッキントッシュの大作『The Wassail』(1900)
▼ゼツェッション?分離派?というかたはこちらから▼
27歳となったマッキントッシュは母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝し、その勢いでグラスゴーのティー・ルームのインテリアデザイン、ヒル・ハウスなどの設計を行いました。
出典:Dazeen
▲マッキントッシュが設計したグラスゴー美術学校のエントランス(1899年)
しかしその後、建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは建築の仕事がなくなってしまい、南フランスに移り水彩画家に転向しました。
水平垂直を強調した直線的なデザインにアール・ヌーボーの曲線美を融合させた個性的な家具をいくつもデザインしたマッキントッシュの家具は、現代でも傑作と呼ばれ愛されています。
▲スコットランド・アーガイル街にあるティールームのテーブル用にデザインされたチェアで、マッキントッシュがはじめてデザインしたハイバックチェア『アーガイル』(1898年)
出典:Auctions
▲代表作『ヒルハウス』(1902年)のオリジナルは今なおマッキントッシュが設計したヒルハウスの寝室に置かれている。その極端なまでのハイバックとデザインから感じられる抽象的な装飾は、この椅子を座るためだけでなく、観賞するためのものとしても考えたマッキントッシュの意図が窺える。
▲ヒルハウスはナンタルカも愛用しているチェアのひとつ
アルフォンス・ミュシャ
出典:Vivanco
アルフォンス・ミュシャ(1860年 – 1939年)はチェコ出身のイラストレーターで、アール・ヌーヴォーを代表する画家でもあり、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作しました。
ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴で、華麗な装飾と印象的な女性とを組み合わせた作風は「ミュシャ様式」と呼ばれています。
1860年にチェコに生まれたミュシャは、学生時代に教会の聖歌隊となり音楽家を志しますが、15歳ごろに声が出なくなると聖歌集の表紙を描くなど絵を描き始め、19歳でオーストリアのウィーンに行き、舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通いました。
25歳のときにミュンヘン美術アカデミーに入学し、その後28歳でパリの名門美術学校『アカデミー・ジュリアン』に通います。
▲「アカデミー風景」(マリ・バシュキルツェフ作) 『アカデミー・ジュリアン』は超名門美術学校『エコール・デ・ボザール』(※)と異なり、女性にも芸術の教育機会を与えていた。(※1897年からエコール・デ・ボザールでも女性が入学可能になった)
彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した『ジスモンダ』 のポスターで、これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターの発注が必要になったのですが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いてたミュシャに飛び込みで依頼したものでした。
出典:PInterest
▲ミュシャの最初期の傑作『ジスモンダ』(1895年)
『ジスモンダ』は当時のパリにおいて大好評を博し、一夜にしてミュシャのアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとします。
またサラ・ベルナールにとっても、この『ジスモンダ』がフランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなり、その後もミュシャに「椿姫」、「メディア」、「ラ・プリュム」、「トスカ」などのポスターの制作を依頼し続けました。
ミュシャは他にも煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などの多くのポスターの制作をおこなっています。
▲JOB社の煙草ポスター(1896年)は大変人気があり、コレクター用に小型判が作られている
また、ポスターに並び装飾パネルも数多く手がけていて、それは2〜4点セットの連作も多く、いずれも女性の姿を用いて表現しています。
出典:Christies
▲女性の周りに西洋占星術における12星座が描かれた『黄道十二宮』(1896年)は、当初はポスターまたはカレンダーとして製作されながら、デザインの人気が高かったために、後に装飾パネルとして売りに出された。
▲ダンス、絵画、詩、音楽の4つの芸術を擬人化して表した『四芸術』(1898年)
1910年、50歳になったミュシャは故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩(じょじし)』を制作します。
この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものです。
出典:Galerie hlavního města Prahy
▲全20作品からなる『スラブ叙事詩』は大きいものでは6×8mのサイズに達する大作で、完成までに20年もの歳月を費やした。
ユーゲント・シュティール
出典:corcoise
▲当時のドイツ・ミュンヘンで刊行されていた『JUGEND(ユーゲント)』10月号表紙(1896年)
ドイツやオーストリアではアール・ヌーボーを『ユーゲント・シュティール』(『若い様式』という意味)と呼びました。
アール・ヌーボーと同じようにイギリスの新しい工芸運動「アーツ・アンド・クラフツ」からの強い影響を受けていて、当時ドイツ世紀末芸術の中心地であったミュンヘンで刊行された雑誌『ユーゲント』の斬新な表紙や都会的で若々しい感覚のイラストレーションが評判になり、爆発的に流行します。
▲当時のドイツ・ミュンヘンで刊行されていた『JUGEND(ユーゲント)』4月号表紙(1896年)
▼アーツ・アンド・クラフツはこちらから再確認▼
ここから「青春様式」とも呼ばれる「ユーゲント・シュティール」という言葉が生まれ、やがてミュンヘンやベルリンを中心にした若い芸術家による芸術運動の傾向全体を指す言葉となりました。
▲ドイツ・ミュンヘン市内にある人面・植物の彫刻が施されたユーゲント・シュティールの奇抜な建築(1900年頃)
1899年には、ドイツのヘッセンという街を治めていたエルンスト・ルートヴィヒによってユーゲント・シュティールの芸術家村「マチルダの丘」が形成され、ドイツ語圏におけるユーゲント・シュティール運動の中心的役割のひとつを担いました。
出典:UTSA
▲奇妙な建築が立ち並ぶ『マチルダの丘』の多くの建築はドイツ工作連盟のヨゼフ・マリア・オルブリッヒによって設計された。左に見える五本指をモチーフにしたという謎の塔はルートヴィヒの結婚記念に設計された『結婚記念塔』(1907年完成)
ユーゲント・シュティールは、19世紀末から20世紀の初頭にかけて展開し、絵画や彫刻のほかにも、建築、室内装飾、家具デザイン、織物、印刷物から文学・音楽などにも取り入れられました。
ユーゲント・シュティールの特徴はアール・ヌーボーと同様に、美術の分野としては動植物や女性のシルエットなどのモチーフが多く、有機的で柔らかい曲線が多用されます。
建築の分野としては簡潔で機能を重視した形状が重んじられる一方、一度限りの芸術性、唯一無二のデザインが尊重されました。
そのため、一部からは「装飾多すぎ」とか「貴族主義」などの批判を受けることもあったようです。
出典:CHIP
▲バルト三国のラトビアにある街「リガ」ではユーゲント・シュティールの流行と建築ラッシュが重なり、当時の建築が現在にも多数残っている。人面、獣面、鳥、植物、エジプトなどのモチーフが多い。
出典:Travel guide
▲賛否両論ありそうなユーゲント・シュティールの建築デザイン。リガの街並みは「リガ歴史地区」として世界遺産に登録されている。
ユーゲント・シュティールの運動はベルリンやオーストリア、そしてヨーロッパ全土に広がり、後に誕生するゼツェッション(分離派)の活動につながってゆきます。
ナンタルカのまとめ
■アール・ヌーボーのデザイナー
(1)フランスの工芸家でありガラス作家の(①)は植物や昆虫をモチーフにした生き生きとした作品を発表し、世界中から高い評価を受けた。アメリカにおけるアール・ヌーヴォーの第一人者として知られる(②)は、主にステンドグラスやモザイク加工のガラスランプ『(③)』の製作などにおける芸術家として名を馳せた。
(2)フランスの家具デザイナーである(①)は、1900年のパリ万国博覧会で寝室「睡蓮」を発表し、流麗な曲線の造形、彫刻装飾の精巧さが話題になった。イギリスのグラスゴー出身の画家でありデザイナーの(②)は、水平垂直を強調した直線的なデザインにアール・ヌーボーの曲線美を融合させた個性的な家具をいくつもデザインし、アーガイル・チェアやラダーバックチェアの傑作(③)が代表作である。
(3)チェコ出身のイラストレーターである(①)は、アール・ヌーヴォーを代表する画家でもあり、星、宝石、花などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴で、華麗な装飾と印象的な女性とを組み合わせた作風は(②)とも呼ばれる。
■ドイツ・オーストリアのアール・ヌーボー
ドイツやオーストリアではアール・ヌーボーを『(①)』と呼び、アール・ヌーボーと同じようにイギリスの新しい工芸運動「アーツ・アンド・クラフツ」から強い影響を受けている。当時、ドイツ世紀末芸術の中心地であったミュンヘンで刊行された雑誌『(②)』の斬新な表紙や都会的で若々しい感覚のイラストレーションが評判になり、爆発的に流行した。
お疲れ様でした。
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