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【19世期から20世紀へ(2)-1】ゼツェッション(分離派)とシカゴ派の建築と特徴について7分で理解しよう【世界のインテリアの歴史⑪-1】

サリヴァン・センター カーソン・ピリー・スコット・ストア

 

 

こんにちは、しけたむです。

 

 

この記事では

 

 

  • 「19世紀以降の近代の建築やデザインに興味がある。」
  • 「家具のデザインはアート性よりも機能性を重視する。」

 

 

という方々に向けて

 

 

19世期から20世紀にかけて流行したドイツのゼツェッション(分離派)アメリカのシカゴ派の建築と特徴について、7分で理解できるように紹介していきます。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
インテリアデザインにはアーティスティックで唯一無二の造形を求める人たちもいれば、機械生産によって合理的な機能性を重要視する人たちもたくさんいましたにゃ!それぞれの活動を見ていきますにゃ!

 

 

 

 

 

ゼツェッション(分離派)とは?

ウィーン分離派 ゼツェッション出典:Wikimedia Commons

▲ウィーン分離派の初期メンバーの集合写真。左から2番目がグスタフ・クリムト。他に写っている人物たちはややマイナー(関係者の方々スミマセン汗)なので覚えなくても大丈夫。

 

 

ゼツェッション(Scession) は、19世紀末にドイツのミュンヘン・ベルリン、オーストリアのウィーンなどで流行した芸術や建築の革新運動のことです。

 

 

 

過去の芸術様式から分離して、生活や機能と結びついた今までにない、新しい造形芸術の創造を目指しました。

 

 

 

ちなみにゼツェッションとは分離を意味するドイツ語で、分離派ゼツェシオンセセッションとも呼ばれます。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ゼツェッションを簡単に説明するといつまでも古臭い芸術や建築を崇拝している保守的な人たちから『分離』して、新しい芸術や建築を探究しようよ!っていう革新的な若手芸術家たちの運動のことなんですにゃあ〜

 

 

ゼツェッションを受けて、1892年にまずドイツのミュンヘンで『ミュンヘン分離派』というグループが結成されました。ミュンヘン分離派は芸術運動ユーゲント・シュティールの1グループでもあります。

 

 

▼ユーゲント・シュティール知らんという方はこちらからどうぞ▼

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次いで、オーストリアのウィーンでは1897年にウィーン分離派というグループが

オーストリアの画家であるグスタフ・クリムトを中心に結成されます。

 

 

 

ウィーン分離派は、自分たちの作品を展示するための展示施設を独自に建築し、そこで展覧会を開催していました。

分離派会館 ゼツェッション館 セセッション館出典:Pinterest

ヨゼフ・オルブリッヒが設計したウィーン分離派の展示施設『分離派会館(セセッション館)』

 

ナンタルカ
ナンタルカ
当時は芸術団体が自分たちだけの展示施設を持つ、というのは大変珍しいことだったんですにゃあ〜

 

 

グスタフ・クリムトらはウィーン分離派での活動を通して、芸術や建築において新しい造形表現を追求しました。

 

 

グスタフ・クリムト

グスタフ・クリムト出典:Daily does of Art

▲装飾的・官能的な女性画を多く残したクリムトは、日本や東アジアの文化の影響を強く受けている

 

 

ちょっとヤバめな雰囲気を醸し出しているグスタフ・クリムト(1862年 – 1918年)はオーストリアの画家で、ウィーン分離派を結成した人物です。

 

 

 

グスタフ・クリムトは1862年にウィーンに生まれ、14歳で工芸学校に入学、石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な美術教育を受けて育ちました

 

ナンタルカ
ナンタルカ
革新的な美術や芸術を生み出すためには、それらの基礎をまず知らないといけないってことにゃんですかねえ〜(遠い目)

 

17歳頃にはすでに美術やデザインの請負の仕事を始めていて、26歳になる頃にはウィーン市からの依頼で描いた絵画で皇帝から賞を頂くなど数々の賞を総ナメにし、ウィーン美術界での名声を確立しました。

グスタフ・クリムト出典:musey

▲クリムトが26歳で皇帝賞を受賞した『旧ブルク劇場の観客席』(1888年)

 

 

まさに若き天才画家としてウィーン美術界で活躍していたクリムトは、1891年にクンストラーハウス』と呼ばれる古典的な芸術を重んじる、なんだかお堅い保守的な芸術団体に加入することになるのですが・・・。

 

 

 

 

1894年のクリムトが32歳の時、国からの依頼でウィーン大学の講堂に天井画の制作を依頼されたのですが、クリムトによって描かれた3枚の絵画『医学』、『哲学』、『法学』が当時としてはかなりぶっとんだ作風で描いたことによって、大学関係者から大批判を浴びてしまいました。

 

 

 

 

クリムトの作品の是非を巡って大論争になり、依頼主の文部大臣までバッシングを受けて辞職するのかしないのかという、とんでもない事態に。

 

 

 

 

あまりの事態の拡大により「いい加減やべえぞ」となったクリムトは、契約の破棄を求め、事前に受け取った報酬を返却しました。

グスタフ・クリムト 医学出典:Pinterest

▲美術館および個人に売却された問題の3枚の絵は、後にナチスによって没収され、その後放火により焼失した。『哲学』と『法学』は白黒写真が、『医学』は習作(練習として描いた絵)が現存している。(上の画像は『医学』)

 

 

この作品を見て分かるように、クリムトはすでに古典的な作品(昔からある古い作風)から抜け出し、独自の革新的な芸術の追求を求めていたのです。

 

 

 

そして、1897年に保守的な芸術団体であるクンストラーハウスにいいかげん嫌気がさしたクリムト「もうやめるわ」と言って脱退し、同じように革新的な芸術を追求する芸術家達を集めて『ウィーン分離派』を結成した、というわけです。

 

 

 

ウィーン分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たしました。

接吻 グスタフ・クリムト出典:Europosters

▲グスタフ・クリムトの代表作『接吻』。クリムトの金箔の使用は日本画の琳派から、そして浮世絵からも多大な影響を受けている。

 

グスタフ・クリムト 『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』出典:Albert ten cate

▲グスタフ・クリムトの代表作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)

 

 

オットー・ワーグナー

オットー・ワーグナー出典:Joseph Scissorhands

 

オットー・ワーグナー(1841年 – 1918年)はオーストリアの建築家で、グスタフ・クリムトとともにウィーン分離派の中心人物として活躍し、機能性・合理性を重視する近代建築の理念を表現しました。

 

 

 

「芸術は必要にのみ従う」と一見なんだか訳のわからない主張をしたことで有名なワーグナーですが、これは芸術的な装飾とか何だか知らねえけど、まず必要な機能がしっかりあること前提でやってよね。というような主張で、とにかくワーグナーは機能性・合理性を重視していました。芸術的な装飾するなよ、っていう意味ではありません。

 

 

 

 

1841年、ウィーンで生まれたワーグナーは、わずか16歳でウィーンの工科大学19歳で新古典主義建築の中心地だったドイツにあるベルリンの建築アカデミーで学ぶという、圧倒的な天才ぶりを発揮していました。

 

 

 

 

卒業後に再びオーストリアに戻りウィーン美術アカデミーに進学し、22歳で卒業します。同年、ウィーン市立公園に建てる会館の建築コンペに応募し1等賞を獲得するなど、社会に出るなりさっそく類稀なる才能を発揮し、主に公共建築物を中心に設計を行いました

シナゴーグ オットー・ワーグナー出典:Twitter

▲ワーグナーが27歳の時に設計したブダペストにあるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の外観(1868年)

 

シナゴーグ ブダペスト オットー・ワーグナー出典:Pestbuda

▲イスラム風の複雑な模様の壁紙と金色の装飾で飾られたシナゴーグの内装

 

 

彼の建築作品はヨゼフ・マリア・オルブリッヒヨーゼフ・ホフマンなどの、後に偉大な建築家となる学生たちに多大な影響を与えていて、かなり尊敬されている存在でした。

 

 

 

ワーグナーが53歳になる頃、かつての母校であるウィーン美術アカデミーの教授に就任し、1897年にグスタフ・クリムトがウィーン分離派を結成すると、ワーグナーの教え子だったヨゼフ・マリア・オルブリッヒやヨーゼフ・ホフマンたちがウィーン分離派に参加します。

 

 

 

 

やがてワーグナー自身も遅れて分離派に加わると、ワーグナーの建築は次第にアール・ヌーヴォーの影響を受けた流線的なデザインの建築様式に移っていきました。

オットー・ワーグナー 駅舎出典:Wien.info 

▲オットー・ワーグナーはウィーンの市営鉄道シュタットバーンの駅舎や案内板のデザインを担当した『カールス・プラッツ駅』(1899年)

 

カールス・プラッツ駅出典:Wien.info 

▲白い大理石と金色の縁取り装飾が美しいアール・ヌーボーの影響を受けたカールス・プラッツ駅のパヴィリオン

 

 

1905年、ウィーン分離派の内部の対立から、グスタフ・クリムトヨゼフ・マリア・オルブリッヒヨーゼフ・ホフマンらとともにウィーン分離派を脱退し、1913年まで建築を続け、家具のデザインなども行いました。

オットー・ワーグナー チェア出典:Live Auctioneers

▲ワーグナーがデザインしたチェア『721』は、彼の最も有名なプロジェクトであるオーストリア郵便貯金銀行(1904-1906)のために設計されたもの。いくつかのバリエーションも制作された。

 

 

ヨーゼフ・ホフマン

ヨーゼフ・ホフマン出典:Google Sites

▲ウィーン分離派の中心メンバーとして活躍したヨーゼフ・ホフマンだが、1905年に脱退

 

 

ヨーゼフ・ホフマン(1870年 – 1956年)は、オーストリアの建築家、デザイナーでウィーン分離派の中心メンバーの一人として活躍しました。

 

 

 

チェコに生まれたホフマンは国立工芸学校で建築を学び、卒業後はドイツの軍事施設建設局に勤め、その後ウィーン美術アカデミーでオットー・ワーグナーに建築を学びます。

 

 

 

 

1897年にヨゼフ・マリア・オルブリッヒとともにウィーン分離派に参加し、中心メンバーの一人として活躍しながらも、1899年からは母校であるウィーン美術アカデミーでオットー・ワーグナーとともに教鞭を執り、1903年にはデザイン会社『ウィーン工房』を設立しました。

 

 

 

1905年にウィーン分離派を脱退した後はウィーン工房で建築活動を続け、1911年には世界遺産となる『ストックレー邸』を完成させました。

ストックレー邸出典:UNESCO world heritage centre

▲世界遺産に登録されたヨーゼフ・ホフマンの『ストックレー邸』。ベルギーの金融業者アドルフ・ストックレーの私邸として、1911年に完成。

 

ストックレー邸 インテリア出典:REGNO CURVATO

ストックレー邸のインテリアや絵画はグスタフ・クリムトが手掛けた。直線的なデザインはアール・デコの到来を20年も先取りしたものだった。

 

Cafe Fledermaus Chair出典:Rita Bucheit

▲ホフマンは家具デザインも手がけた。ブナ材に塗装をかけた幾何学的なデザインのチェア 『Cafe Fledermaus Chair』(1907)

 

 

ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ

ヨゼフ・オルブリッヒ出典:Wikimedia commons

オットー・ワーグナーに建築を学んだオーストリアの建築家『ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ』

 

 

ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(1867年 - 1908年)はオーストリアの建築家で、ウィーン分離派の中心メンバーの一人として活躍しました。

 

 

 

オルブリッヒは1867年にチェコで生まれ、ウィーン美術アカデミーでオットー・ワーグナーに建築を学びました。在学中に様々な賞を受賞するなど、建築家としての才能の片鱗を示しました

 

 

 

 

1893年、卒業したオルブリッヒはワーグナーのもとで働き始め、1897年にはヨーゼフ・ホフマンとともにウィーン分離派に参加しました。

 

 

 

 

オルブリッヒは、1897年にウィーン分離派の活動の中心となった分離派会館(セセッション館)を設計したことで有名です。

分離派会館 ゼツェッション館 セセッション館出典:Pinterest

▲1898年に完成したウィーン分離派の展示施設『分離派会館(セセッション館)』

 

分離派会館 セセッション館 ヨゼフ・オルブリッヒ出典:Pinterest

▲分離派会館の正面エントランス 。白亜の直線基調の建築に、金色の植物の装飾と人面の彫刻が施されている。正面上部の月桂樹のドームは、その見た目から「黄金のキャベツ」と呼ばれる。

 

 

オルブリッヒは40歳という若さでこの世を去るのですが、最後の仕事はドイツ某所でおこなわれた、ちょっとヘンテコな建築をたくさん作るというプロジェクトでした・・・。

 

 

▼オルブリッヒの最後のプロジェクトはこちらの記事にて▼

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ナンタルカ
ナンタルカ
ゼツェッションは、1920年代の新しいデザインへと続くモダニズムの布石となったんだにゃあー

 

シカゴ派とは?

フラットアイアンビルディング シカゴ派出典:Wikimedia commons

▲シカゴ派のダニエル・バーナムによって設計された『フラットアイアンビルディング』(1902年)は現存するニューヨーク州マンハッタンにおいて最も古いビル。

 

 

アーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーボーは、アート志向を唱える運動であったのに対して、機械生産を前提とする大量生産で合理的な造形を追求し、デザインよりも機能性を重要視した『機能主義の傾向も、建築・家具デザインの主流として発展しました。

 

 

 

このような機能主義を唱えた建築家の一派をシカゴ派』と呼びます。

 

 

 

シカゴ派は1880年代から1890年代にアメリカのシカゴから生じた一派で、その背景としては1871年に起こったシカゴの大火があります。

 

 

 

シカゴの大火とは1871年にシカゴで発生した大火災で、2日間にわたって市街地のほとんどを焼き尽くして街は焼け野原となりました。

シカゴ大火 出典:Click Americana

▲ホテル、銀行、新聞社などのビジネス街が一掃され、10万人(市の人口の3分の1)が自宅を失った

 

 

大火前のシカゴはめざましい発達を遂げている最中だったので被害は甚大でしたが、復興による再開発で次から次へと高層ビルが建てられ、あっという間にシカゴは活気を取り戻しました。

 

 

 

シカゴの産業基盤が鉄だったこともあり、構造と技術が融合した機能主義に基づく鉄骨造による高層建築物が数多く建てられました。

シカゴ 大火出典:history

▲1871年に発生した大火災により、焼け野原となったシカゴ。復興するにあたり木造での建築は禁止され、レンガ造または石造で建てることが義務づけられた。

 

 

また、高層ビルが普及するためには鉄骨造と安全性の高いエレベーターが不可欠でした。

 

 

 

1853年のニューヨーク万国博覧会にて、落下防止ブレーキを取り付けた蒸気エレベーターが発表されました。開発したニューヨークのOTIS社は、来場客の目の前で吊り上げたエレベーターの綱を切ってみせ、その安全性をアピールしました。

OTIS エレベーター デモンストレーション出典:Wikimedia Commons

▲エレベーターメーカーOTIS社の落下防止ブレーキのデモンストレーションのイラスト(1854年)

 

 

このような高層建築はこれまでの宮殿や教会といった建築にとってかわり、20世紀の建築の中心となりました。

 

 

 

そしてその先駆者がシカゴ派という建築家達であり、その中心的人物となったのがルイス・サリヴァンです。

 

 

 

ルイス・サリヴァン

ルイス・サリヴァン出典:Britannica

▲ルイス・サリヴァンはアメリカの建築家。フランク・ロイド・ライトヘンリー・ホブソン・リチャードソンとともに、アメリカ建築の三大巨匠とも称される。

 

 

ルイス・サリヴァン(1856年 – 1924年)はシカゴ派を代表する建築家で、形式は常に機能に従う。(form ever follows function. )」というなんだか謎めいた言葉を残し、後にシカゴ派をはじめした合理的モダニストたちの共通の合言葉になりました。

 

 

 

この合言葉についてはいろんな解釈が生まれていますが、簡単にいうと

「例えばデスクチェアはデザインであんな形になってるんじゃねえ、座り心地という機能を追い求めたらあんな形になったんだ。アメリカ軍の戦闘機だって見てみろ、あれはスピードという機能を追求したらあんな形になったんだ。デザインありきじゃねえぞ。 」

とまあ、難しいことは考えずこんな感じなんだとだけ覚えておいてください。

 

 

 

 

 

1856年、サリヴァンはマサチューセッツ州ボストンで生まれ、わずか16歳でマサチューセッツ工科大学に入学します。

 

 

 

しかし1年後にはフィラデルフィアに移り、建築家フランク・ファーネスの事務所に入ったかと思うと、不景気の影響もありすぐに退所して、シカゴに移ると今度は建築家ウィリアム・ル・バロン・ジェニーの事務所に入りました。

 

 

 

当時のシカゴは1871年のシカゴ大火からの復興のさなかで、空前の建設ブームの中にあったので、雇ってくれる建築事務所はたくさんあったようです。

 

 

 

 

ジェニーの事務所を退所後、念願だったパリの美術学校エコール・デ・ボザールで1年間学びます。この時期に、ルネッサンスの天才建築家ミケランジェロらの影響を受けました。

エコール・デ・ボザール出典:Drawing matter

▲350年間以上にわたる歴史のある『エコール・デ・ボザール』は建築、絵画、彫刻の分野で多くの芸術家を輩出してきた。ボザールでの教育は伝統的、古典主義的な作品が理想とされていて、これらの理想化された様式を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムだった。

 

 

再びシカゴに戻ってきたとき、サリヴァンはまだ18歳でした。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
サリヴァンの自伝によれば、少年時代にある男の人が颯爽と馬車に乗り込む姿が魅力的で、その男の人が建築家だったことから建築家を志したって書いてあるんですにゃ。何かを目指すきっかけなんて、それくらいでいいんですかにゃあ〜?

 

 

シカゴに帰ってきたサリヴァンは、ジョセフ・S・ジョンストン&ジョン・エデルマン事務所で製図係として働いた後、23歳になる頃に建築家のダンクマール・アドラーに雇われて働きました。

 

 

 

 

サリヴァンの才能を見抜いたダンクマール・アドラーは、サリヴァンを雇ったわずか1年後に、共同で『アドラー=サリヴァン建築設計事務所』を立ち上げました

アドラー サリヴァン出典:Wright Auction

▲破竹の勢いでビルの建築を請け負い大成功を収めた若かりし頃のダンクマール・アドラー(左)とルイス・サリヴァン(右)

 

 

1889年にはシカゴの中心街にある代表作のひとつ『オーディトリアム・ビル』の最上階に事務所を構えた2人は大成功を収め、サリヴァンは33歳にしてアメリカンドリームを掴みました。

オーディトリアム・ビル出典:WTTW

▲サリヴァンの初期の代表作『オーディトリアム・ビル』(1889年)の最上階にアドラー=サリヴァン建築設計事務所があった。この事務所では、14年間で100棟以上ものビルを設計した。

 

 

当時のサリヴァンの事務所には、後に偉大な建築家となる若かりし頃のフランク・ロイド・ライトが所属していました。

 

 

 

ライトはサリヴァンのことを「Lieber Meister (愛する師匠)」と呼んで尊敬していましたが、サリヴァンに内緒で副業として住宅設計のアルバイトをしていたことがバレてしまい、サリヴァンに咎められたライトは逃げるようにしてこの事務所を退職したというエピソードがあります・・・汗

 

 

▼サリヴァンの事務所から逃げ出したライトの記事はこちら▼

落水荘 カウフマン邸
【20世紀の動き(2)−2】フランク・ロイド・ライトの建築と照明、そして波乱万丈な人生【世界のインテリアの歴史⑭】この記事ではフランク・ロイド・ライトの建築と照明、そして波乱万丈な人生についてわかりやすく解説しています。代表的な建築や家具、照明はもちろん、あまり知られていないストーリーをお伝え致します。どのような人物かを知ることにより、理解も深まります。インテリアコーディネーターの復習や、試験勉強の参考にお役立てください。...

 

 

アドラーとサリヴァンの事務所はまず劇場建築の設計で名声を得ました。

 

 

この時期の代表作はサリヴァンの事務所が入っているオーディトリアム・ビル(1889)で、ビル内には4200席の劇場があるだけでなく、ホテルやオフィスからなる大規模な複合商業施設でした。

オーディトリアムビル 劇場 シカゴ サリヴァン出典:Broadway in CHICAGO

▲オーディトリアムビル内にある『オーディトリアムシアター』では、今日もいくつものイベントで賑わっている。

 

サリヴァン・センター カーソン・ピリー・スコット・ストア出典:The talos group LLC

▲シカゴにある『カーソン・ピリー・スコット百貨店』(1899年)は2007年まで営業するが、閉鎖に伴って『サリヴァン・センター』と改称された。サリヴァンのビル建築で多く用いられた長方形の窓は『シカゴ窓』と呼ばれ、多くの採光を得るため用いられた。

 

 

その後も多くのビル建築に携わったサリヴァンは、1924年にシカゴにあるホテルの一室で息を引き取りました。

 

 

 

サリヴァンはかつての弟子、偉大な建築家となったフランク・ロイド・ライトの資金援助によって葬式が出され、シカゴにある墓地に葬られています。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
超高層ビル群のことを摩天楼(まてんろう)と呼びますが、英語ではスカイスクレイパーといいますにゃ。シカゴ派のルイス・サリヴァンやフランク・ロイド・ライト達がスカイスクレイパーの先駆けとなったんだにゃあ!

 

 

 

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お疲れ様でした!

 

 

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

 

分かりにくい点やお気づきのことがあればメールでご連絡ください!

 

 

 

では、次回もお楽しみに!

 

 

 

 

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