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【19世期から20世紀へ(1)】アーツ&クラフツ、アール・ヌーボーの新しいデザインの動き【世界のインテリアの歴史⑩】

ミュシャ

 

 

こんにちは、しけたむです。

 

 

この記事では

 

 

  • 「19世紀以降の近代の家具やデザインに興味がある。」
  • 「トーネットやマッキントッシュなどのデザインチェアについて知りたい。」

 

 

という方々に向けて

 

19世期から20世紀にかけて流行したインテリア様式の特徴を

 

分かりやすく画像でご紹介していきます。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
19世紀になると、時代は産業革命が進んで家具が大量生産されるようになったんにゃ。でも質の悪い家具も多くて、それに反発する動きが起きるんにゃ。

 

 

 

 

 

ドイツのモダンデザインの起こり

ミハエル・トーネット

ミハエル・トーネット 曲木出典:Cultura.hu

 

 

アーツ・アンド・クラフツに先んじて、ウィーン(ドイツ)のミハエル・トーネット(1796 – 1871)は1830年代に曲木技術を完成させ、ブナビーチなどの木材を使用して家具の量産化に成功しました。

 

 

 

 

トーネットの曲線的なプロダクトデザインは、19世期末のアール・ヌーボー、ユーゲント・シュティール(後述)の到来を予感させるものでした。

トーネット 14 チェア出典:TORNET

▲ミハエル・トーネットの代表作『14』は、19世期に5000万脚以上販売された名作チェア。

 

 

トーネットはドイツで建具職人として修業した後、23歳の時に家具職人として独立して工房を構えます。

 

 

 

工房では、木を蒸して柔らかくしてから曲げる曲木の技法の研究を始め、この技術を用いて世界で初めて曲木椅子(ベントウッドチェア)を大量生産しました。

 

 

 

 

なかでも、1859年につくられた「No.14」は曲木椅子の名作として名高く、フォルムの単純さと生産性のよさで、その後70年間に5000万脚を売り上げたといわれています。

 

 

 

 

トーネットの曲木椅子は、棒状にカットしたビーチ材を100度を超える高熱で約6時間蒸し手作業で曲げながら鋳型へはめ込むというプロセスで作られています。

トーネット 曲木出典:THONET

▲現在も変わらぬ工程で一つ一つ製造されている曲木椅子

 

 

この技術により、多くのパーツを結合させる必要がなくなり、最小限の部品でチェアを作ることが可能になりました。

 

 

 

 

組み立ても容易であったことから、分解した状態で輸送する『ノックダウン方式』を可能にし、現代につながる大量生産・大量輸送を可能にしたことで、『モダン家具の原型』とも呼ばれています。

トーネット出典:minniemuses

▲ノックダウン方式により1㎥の箱に36脚のチェアを輸送でき、大量輸送・コスト削減を可能にした。

 

 

 

また、ミハエル・トーネットの息子のアウグス・トーネットが1871年にデザインした『NO.209』と呼ばれるチェアは、ル・コルビュジェ(コルビジェ)が愛用したことで知られ、別名「コルビュジェ・チェア」とも呼ばれています。

209出典:BRUTUS

▲簡素で普遍的なデザインの曲木椅子『No.209』

 

 

▼ル・コルビュジェはこちらの記事からどうぞ▼

サヴォア邸
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ナンタルカ
ナンタルカ
ノックダウン方式の家具って、いまはIKEAの家具でお馴染みですにゃ。自分で組み立てるのは面倒ですが、安くたくさん運べることで、世界中に飛ぶように売れたんですにゃあ〜

 

アーツ・アンド・クラフツとは?

アーツ・アンド・クラフツ出典:TRC LEIDEN

▲1890年のアーツ・アンド・クラフツの展示会チケット

 

 

19世紀になると、産業革命によりインテリアデザインは量産化の時代を迎えます。

 

 

 

初期の工業製品は安価で粗悪な商品であふれ、これらに反抗した運動がイギリスで起こります。

 

 

 

この運動がアーツ・アンド・クラフツで、イギリスの詩人でデザイナーでもあるウィリアム・モリス(1834 – 1896)が主導しました。

ウィリアム・モリス出典:Novogram

▲ウィリアム・モリスは優れたインテリア製品を開発し『モダンデザインの父』と呼ばれた。

 

 

アーツ・アンド・クラフツは美術工芸運動とも呼ばれ、1880年代から始まります。

 

 

 

これは当時、芸術家たちのパトロン(経済的な支援者)をしていたイギリスの美術評論家ジョン・ラスキンの思想に共鳴したウィリアム・モリスが、手工業による良質な製品の製作、販売を実践した運動であり、20世紀のデザイン思想に大きな影響を与えました。

 

 

 

 

ウィリアム・モリスは、家具・インテリアの製造販売会社モリス商会を設立し、装飾された書籍(ケルムスコット・プレス)やインテリア製品(壁紙や家具、ステンドグラス)などを製造・販売しました。

ウィリアム・モリス出典: AntiqueAtlas

▲ウィリアム・モリスがデザインした椅子には特徴的なデザインのファブリック生地が用いられた

 

 

ウィリアム・モリス 壁紙出展:Pinterest

▲モリスは写実的で生き生きとした壁紙をいくつもデザインした

 

ウィリアム・モリス 壁紙出展:Wallpaper Access

▲鳥や植物をモチーフとしたモリスの美しい壁紙は現代では世界中で人気がある

 

 

ウィリアム・モリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーヴォーウィーン分離派(ゼツェッション)ユーゲント・シュティールなど、その後の各国の美術運動にその影響が現れます。

 

 

 

 

 

ちなみに日本で活躍した柳宗悦(やなぎむねよし)も、ウィリアム・モリスの運動に共感を寄せ、1929年、かつてモリスが活動していたイギリスを訪れました。

 

 

 

柳宗悦の民芸運動は日用品の中に美『用の美』を見出そうとするもので、日本独自のものですが、アーツ・アンド・クラフツの影響を色濃く受けた運動です。

 

 

▼覚えていますか?柳宗悦と民芸運動▼

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ナンタルカ
ナンタルカ
モリス商会の製品自体はとても高品質で、デザイン性の高いものばかりだったにゃ。でもそのぶんとっても高価になってしまい、裕福な階層にしか使えなかったという批判もでたんだにゃー。

 

アール・ヌーボーの特徴と作家

アール・ヌーボー ミュシャ出典:Artsy

▲アルフォンス・ミュシャの『Rêverie(夢想)』(1898年)

 

 

アール・ヌーボー(アール・ヌーヴォー)とは『新しい芸術』という意味で、19世紀末のヨーロッパを象徴する芸術運動です。

 

 

 

ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツの影響を受けてベルギーで始まり、フランスを中心に盛んになりました。

 

 

 

アール・ヌーボーの特徴は植物が絡みつくような曲線の多用にあります。

 

 

 

代表的な作家としては、以下のような人々を覚えましょう。

 

 

 

アントニオ・ガウディ

アントニオ・ガウディ出典:Pinterest

 

アントニオ・ガウディ(1852年 – 1926年)はスペインのカタルーニャ地方出身の建築家で、アール・ヌーボー(スペイン語でモデルニスモ)期のバルセロナを中心に活動しました。

 

 

 

サグラダ・ファミリア(聖家族教会)(1882ー建設中)やグエル公園(1900ー1914年)、そしてカサ・ミラ(1906ー1910年)をはじめとしたその作品はあまりにも有名です。

 

 

 

 

アントニ・ガウディは1852年、スペイン・カタルーニャ地方に銅板を加工して鍋や釜を作る銅細工師の5人目の子として生まれました。

 

 

 

ガウディが21歳から25歳までの間バルセロナで建築を学び、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働きながら市内の公園や修道院の装飾にも関わります。

 

 

 

26歳で建築士の資格を取得したガウディは、当時のバルセロナ建築学校校長で建築家のアリアス・ルジェンは、ガウディについて「彼が狂人なのか天才なのかはわからない、時が明らかにするだろう・・・。」と言ったと伝えられていて、かなりの変人だったそうです。

 

 

 

 

同年、ガウディは1878年のパリ万国博覧会に『手袋店のショーケース』をデザインして出展したところ、この作品を見た繊維会社を経営する富豪エウセビオ・グエルはガウディの才能を見出し、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼し続けました。

パリ万国博覧会 ガウディ グエル ショーケース出典:Антони Гауди

▲ガウディがパリ万国博覧会で出展した手袋店のショーケースのスケッチ(1878年)

 

 

1883年にはサグラダ・ファミリアの専任建築家にも推薦するなど、ガウディのサクセスストーリーにはこのエウセビオ・グエルの審美眼によるものといっても過言ではありません。

 

 

 

サグラダ・ファミリア

サグラダ・ファミリア出典:Archdaily

▲1882年着工から100年以上経つも、いまだに建設途中のサグラダ・ファミリア

 

 

サグラダ・ファミリアは日本語に訳すると聖家族贖罪教会という正式名称を持つ、スペインのバルセロナにあるカトリック教会のバシリカです。

 

 

 

 

じつは当初はガウディが設計をする予定はなく、フランシスコ・ビリャールという別の建築家が無償で設計を引き受けて1882年3月19日に着工したのですが、依頼者であるカトリック団体との意見の対立からビリャールは辞任し、エウセビオ・グエルの推薦もあってガウディが2代目建築家に就任しました。

 

 

 

 

ガウディはビリャールが作った設計を変更して、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組みました。しかしガウディの死後、1936年に始まったスペイン内戦により、ガウディが残した設計図や模型、ガウディの構想に基づいて弟子たちが作成した資料のほとんどが消滅してしまいました。

 

 

 

 

これにより当初のガウディの構想を完全に実現することが不可能となっていて、現在では当時の職人による口伝えや、外観の大まかなデッサンなど残されたわずかな資料を元に、ガウディの設計構想を推測しながら建設が行われています。

サグラダ・ファミリア 内部出展:Catalan news

▲サグラダ・ファミリアの身廊は独創的でモダンな造り。2026年に完成予定だった教会は、コロナ禍の影響により遅延する可能性がある。

 

 

サグラダ・ファミリアには3つのファサードがあります。

 

ファサードとはフランス語の「façade」を語源とする言葉で、建築物の正面デザインを指します。そのため、通常は大聖堂や教会にはファサードは一つだけしかありません。

 

 

 

 

しかしガウディはこの固定観念そのものを覆し、サグラダファミリアに「生誕のファサード」「受難のファサード」「栄光のファサード(建設中)」と呼ばれる3つのファサードを設けました。

サグラダ・ファミリア 3つのファサード出典:Amazing TRIP

▲丸数字の場所には、全部で18本の塔が配置されており、3つのファサードにはそれぞれ12使徒を表現した4つの塔が設置されています。各塔が表す聖人については以下のとおり。

① イエス② マリア③ 聖ルカ④ 聖マルコ⑤ 聖ヨハネ⑥ 聖マタイ⑦ マタイ⑧ ユダ⑨ シモン⑩ ベルナベ⑪ 小ヤコブ⑫ バルトロマイ⑬ トマス⑭ フィリポ⑮ 大ヤコブ⑯ パウロ⑰ ペトロ⑱ アンデレ

 

サグラダ・ファミリア 生誕のファサード出典:佐渡の翼

▲北東側にある『生誕のファサード』は1894年に着工し、ガウディ亡き後の1932年に工事が完了した。ガウディ本人が細部に至るまで設計した唯一のファサードとなる。主に4本の鐘楼(塔)と3つの門で構成され、ファサード壁面の彫刻にはキリストの誕生から青年期までの成長が表現されている。

 

サグラダ・ファミリア出典:Archdaily

▲1954年に着工された南西側の『受難のファサード』は、ガウディの遺言書に添えられていたスケッチを忠実に再現して建築された。しかし彫刻に関しては彫刻家「ジュゼップ・マリア・スビラックス」の作風がガウディが好んだ有機的で柔らかい作風とは全く対照的な角ばった抽象的なものであったため批判されたが、現在は優れたデザイン性が高く評価されている。

 

 

サグラダ・ファミリア 栄光のファサード出典:ばるログinバルセロナ

▲唯一完成していない「栄光のファサード」はイエス・キリストの栄光と人類の永遠の生への道がテーマとなっている。本来のサグラダ・ファミリアのメインエントランスであり、15本の柱と7つの扉を持つ最大のファサードとなる予定。近代的なオフィスビルのようなデザイン。

 

 

20世紀には300年かかると予想されていた工事ですが、スペインの経済成長や拝観料収入などに支えられて工事の進捗は大きく加速します。

 

 

 

さらにITを駆使したソフトウェアによる3D構造解析技術3Dプリンターによるシミュレーション検証CNC加工機により、2026年の完成予定が現実となれば約144年の工期で完成することになる、と大きな期待が寄せられていました。

 

 

 

 

しかし、2020年から新型コロナウイルス感染症が世界的に大流行した影響で、スペイン国内でも感染拡大防止のためロックダウンが行われ工事中断を余儀なくされたほか、建設のための重要な資金源である喜捨(きしゃ)と呼ばれるお布施やチケット収入が大きく減少したことで、完成が遅延するとみられています。

 

 

 

グエル公園

グエル公園出典:KLM

▲グエル公園の入口に建つ建築を見たスペインの画家サルバドール・ダリは「砂糖をまぶしたタルト菓子のようだ」と評した

 

 

グエル公園はスペインのバルセロナにある公園で、パリ万国博覧会でガウディの展示を称賛したスペイン人の富豪エウセビオ・グエルの依頼によって1900年から1914年の間に建造されました。

 

 

 

当時急速な工業化が進んでいたバルセロナに対して、自然と調和を目指した総合芸術を作り上げようとしたガウディは人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる新しい住宅地を作ろうと試みます。

 

 

 

 

しかし、ぶっ飛びすぎていた発想と自然の中で暮らす価値観は当時まったく理解されず、広場、道路などのインフラが整備され60軒の住居を売りに出しましたが買い手がつかず、結局売れたのはガウディ本人とグエルの2軒だけという大失敗に終わってしまいました。

グエル公園 噴水出典:Tigets

▲グエル公園中央の大階段。奥にはトカゲの噴水がある。

 

グエル公園 トカゲ出典:Twitter

▲ガウディの弟子製作によるトカゲのオブジェはグエル公園のマスコット的存在となっている

 

 

グエルの没後に工事は中断、市の公園として寄付されました。

 

 

 

現在はガウディが一時住んだこともある家がガウディ記念館として公開され、バルセロナで人気の観光地となっています。

 

 

 

 

カサ・ミラ

カサ・ミラ出展:InSpain

▲実業家ペレ・ミラの邸宅として設計されたカサ・ミラ。直線部分を持たない彫刻のような建築物。

 

 

カサ・ミラはバルセロナのグラシア通りにある建築で、1906年から1910年にかけて実業家のペレ・ミラの邸宅として建設されました。

 

 

 

カサ・ミラは直線部分をまったくもたない建造物になっていて、まるで洞窟のような独特の雰囲気を持っています。

カサ・ミラ ガウディ インテリア出展:Noticiero textil

▲建設当時、人々はカサ・ミラを醜悪な建物として「石切場(ラ・ペドレラ)」というニックネームをつけた

 

 

外観の波打つ曲線は地中海をイメージして作られ、屋上は独特の彫刻が施された煙突や階段室が立ち並び、月面か夢の中の風景にも喩えられています。

カサ・ミラ 屋上出典:Tango&Rakija

▲カサ・ミラ屋上の彫刻デザインはサグラダ・ファミリア『受難のファサード』のモチーフになったとも言われている

 

 

カサ・ミラは通常の建築物というよりむしろ彫刻であり実用性に欠けるという批判もありますが、圧倒的な芸術性から今日ではバルセロナを代表する歴史的建造物となっています。

 

 

 

『サグラダ・ファミリア』、『グエル公園』、『カサ・ミラ』の3つの作品は、アントニオ・ガウディの作品群として1984年ユネスコの世界遺産に登録されています。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
カサ・ミラの家賃は建設当時は一般職人の月給の約10倍!でも見た目の評判が悪かったから、なかなか借り手が見つからなかったんにゃ。だから「3世代に渡って家賃値上げしません」という契約条件を作ったにゃ。その契約がまだ生きていて、今の家賃は約15万円と激安になっているんにゃー

 

 

ヴィクトール・オルタ

ヴィクトール・オルタ出典:aaserchitecture

 

 

ヴィクトール・オルタ(1861年 – 1947年)はベルギーの建築家で、非対称的な曲線模様を特徴としたアール・ヌーボー様式を装飾芸術から建築へと取り込んだ最初の建築家と言われています。

 

 

 

1861年にベルギーのヘントに生まれたオルタは、12歳の頃に叔父が働いていた建設現場を手伝ったことから建築に興味を持ち、その後芸術学校で建築や絵画を学びました。

 

 

 

 

卒業後はパリに移り住みインテリアデザイナーとして職を持ちますが、1880年に父の死を機にベルギーに帰郷し、さらに勉学に励むためにブリュッセル王立美術アカデミーに入学します。

 

 

 

 

この時まだ19歳のオルタは、再び学生となった上で結婚もしてさらに二人の娘も授かるという幸せこの上ないですが超多忙な時期を過ごしました

 

 

 

 

オルタは学業で優秀な成績を納めて卒業し、教授である古典主義建築家アルフォンス・バラットの助手として採用されて働いた後、24歳で独立して住宅、公共建築、彫刻などさまざまな仕事を請け負います

 

ナンタルカ
ナンタルカ
オルタはこの頃すでにアール・ヌーヴォーらしい曲線形状のデザインに注目していたにゃ。でもしっかり実用性は重視していて「芸術家を気取ったものには絶対しねえ」っていう信念を持っていたんですにゃあ〜

 

 

1892年、アール・ヌーヴォーを紹介する展示会がベルギーで開かれると、31歳になっていたオルタはこれに大きな衝撃を受け、このときの衝撃をタッセル教授の依頼による住宅に随所に盛り込み1893年にタッセル邸が完成します。

 

 

 

ベルギーのブリュッセルに建てられたこのタッセル邸が世界初のアールヌーヴォー建築作品となりました。

 

 

タッセル邸

タッセル邸 外観出典:HISTOIRE DES ARTS

▲華やかで緻密な装飾で飾られた室内とは対照的に、石造りのファサードは街並みに溶け込んでいる

 

タッセル邸出典:HISTOIRE DES ARTS

▲植物をモチーフとした有機的な曲線形状を鋳鉄で作り上げて内装装飾としたタッセル邸の階段。古典的な間取りを完全に打破した最初の住宅で、世界遺産に登録されている。

 

 

当時のオルタのデザインには批判的な声もありましたが、次第にブリュッセル市内の重要な建築物の設計依頼が舞い込み、タッセル邸のような質素な鉄と石のファサードの中に複雑な鉄のインテリアを閉じこめた建築を次々と建築しました。

 

 

 

しかし時代は流れ、アール・ヌーヴォーの流行が終わるとオルタの作品の多くは取り壊される運命をたどりました。現存する4棟の個人住宅は、建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群 (ブリュッセル)として、2000年、ユネスコ世界遺産に登録されました。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ヴィクトール・オルタはベルギーで発行されていた2000フラン紙幣に肖像が使用されていたこともあるんだにゃあ〜

 

エクトル・ギマール

エクトル・ギマール出典:Le circle Guimard

 

 

エクトル・ギマール(1867年 – 1942年)はフランスを代表するアール・ヌーボーの建築家で、同国におけるアール・ヌーヴォーの代表者です。

 

 

 

1867年、フランスのリヨンに生まれたギマールは、15歳でパリ装飾美術学校で建築家シャルル・ジュニュイに師事し、18歳でパリ芸術学校に入学すると、在学中にベルギーのブリュッセルへの旅行でヴィクトール・オルタのタッセル邸を訪れ、大きな衝撃を受けました。

 

 

 

 

この時の影響を受けてギマールが建築したのが、パリで初となるアール・ヌーヴォー作品カステル・ベランジェです。

 

 

 

カステル・ベランジェ

カステル・ベランジェ出典:Pinterest

 

カステル・ベランジェはパリの西部にあるアール・ヌーヴォー建築で、1895年に着工し1898年に完成しました。

 

 

 

ギマールが28歳の時に設計した6階建て36戸のアパートで、ベルギーのブリュッセルにあるヴィクトール・オルタのタッセル邸に感銘を受けて建築した、パリで最初のアール・ヌーヴォー作品です。

カステル・ベランジェ エントランス 入口出典:Flickr

▲カステル・ベランジェの門扉。この建築物は、36戸すべてのプランが異なり、その部屋割りを反映して外観には砂岩、煉瓦、タイル、鉄と、さまざまな素材を寄せ集めたデザインとなった。

 

カステル・ベランジェ出典:PBase.com

▲ベランダや換気口など至る所に奇怪な生物の鋳鉄細工が付けられた

 

ナンタルカ
ナンタルカ
カステル・ベランジェの統一感のない外観や薄気味悪い生物の装飾を嫌がった人たちからは、アパートの名をもじって「迷惑をかける (déranger)おかしな館」と当初冷たい批判を浴びたそうですにゃあ〜

 

 

 

 

パリのメトロ入り口もギマールの代表的な作品として知られています。

パリ メトロ入り口出典:Britannica

パリ メトロ 入り口出典:Pinterest

▲入り口によってそれぞれデザインが異なります。

 

 

また、エクトル・ギマールは多くの家具デザインも行いました。

 

 

アール・ヌーボーらしい芸術的なデザインフォルムで評価を受けましたが、価格があまりにも高価で大多数の人間には手に入らないものでした。

エクトル・ギマール チェア出典:Art Institute of Chicago

▲エクトル・ギマールの『Side chair』

 

 

 

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ

アンリヴァンデヴェルデ出典:Visit Brussels

 

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863年 – 1957年)は19世紀末から20世紀始めに活躍したベルギーの建築家で、アール・ヌーヴォーからモダンデザインへの展開を促した人物として有名です。

 

 

 

 

ヴェルデはベルギーのアントワープで生まれ、有名なアントワープ王立芸術アカデミーで絵画を学びました。 卒業後はパリの画家に師事し、26歳頃にベルギーのブリュッセルを拠点とするアーティストグループ『LesXX(レ・ヴァン)』のメンバーになりました。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
LesXXは『20人展(にじゅうにんてん)』とも呼ばれる芸術家20人で構成されるグループで、毎年展覧会を開催するんにゃけど、かの有名な画家『モネ』『ゴーギャン』『ゴッホ』も招待されて出展していたんですにゃあ〜

 

 

 

29歳頃、ヴェルデは絵画を放棄し、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に触発され建築とインテリアの道に進むことを決めます。

 

 

 

 

1894年、31歳頃から住宅設計を始め、パリで美術商サミュエル・ビングのアートギャラリー『アールヌーヴォー』の家具とインテリアを担当しました。

サミュエル・ビング アール・ヌーボー出典:topsimage.com

▲サミュエル・ビングのアートギャラリーがアール・ヌーヴォーという言葉の語源となりました

 

 

ドイツで販売されている建築雑誌にヴェルデの建築やインテリアが掲載され、じわじわと有名になってきていたヴェルデは、仕事の依頼を受けてドイツのベルリンに渡り、1902年、39歳の時にドイツのワイマール(ヴァイマル)に建築や美術の学校である工芸ゼミナールを設立しました。

 

 

 

 

1906年、工芸ゼミナールは工芸学校に発展し、工芸学校校舎(1911年)の設計もヴェルデが行いました。この工芸学校は、後に誕生する国立造形学校バウハウスの元となりました。

工芸学校 ヴェルデ ヴァイマル ワイマール バウハウス

工芸学校 バウハウス ヴァイマル校出典:Wikimedia Commons

▲現在も残っているヴァイマルにある『工芸学校』の校舎。1919年にバウハウスが誕生してからは『バウハウス・ヴァイマル校』の校舎として使用された。

 

 

 

そして1907年のヴェルデ44歳の時、ドイツ工作連盟に参加し、中心メンバーとして活躍しました。

 

▼ドイツ工作連盟についてはこちらの記事でご紹介▼

ドイツ工作連盟
【19世期から20世紀へ(2)−2】ドイツ工作連盟の建築や特徴について7分でマスターしよう【世界のインテリアの歴史⑪−2】この記事ではドイツ工作連盟の建築と特徴についてわかりやすく解説しています。特に活動の中心となった主要なメンバーを紹介している記事です。インテリアコーディネーターの復習や、試験勉強の参考にお役立てください。...

 

 

 

しかしデザイナーや作家の芸術性・個性を重要視していたアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデは

製品の標準化・規格化を重要視していた同じドイツ工作連盟の中心メンバーであるヘルマン・ムテジウスに反発し、論争を行いました。(規格化論争

ヘルマン・ムテジウス出典:Wikimedia common

▲ヘルマン・ムテジウスは日本初のドイツのプロテスタント協会を東京都千代田区に建設するなど、西欧化に尽力した人物

 

 

第一次世界大戦が近づくと、この工芸学校の後継者をヴァルター・グロピウスに託し、ヴェルデはドイツを去ることになりました。

 

 

 

 

工芸学校を引き継いだグロピウスは、1919年にヴァイマール共和国の国立学校として、美術大学と工芸学校を統合した「バウハウス」を開校します。

 

 

 

 

こうしてアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの設立した工芸学校は、後のバウハウス(後述の記事にて)の元になったのでした。

 

 

▼グロピウスが引き継いだバウハウスの記事はこちらから▼

デ・ステイル
【20世紀の動き(1)】デ・ステイルとバウハウス【世界のインテリアの歴史⑫】この記事ではデ・ステイルとバウハウスについてわかりやすく解説しています。ピエト・モンドリアン 、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、マルセル・ブロイヤーなど巨匠が多く登場する記事です。インテリアコーディネーターの復習や、試験勉強の参考にお役立てください。...

 

 

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ chair出典:Wikimedia commons

▲アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの家具作品『chair』

 

ナンタルカ
ナンタルカ
スイスに亡命したヴェルデは、そこで図書館や病院施設などの建設に携わり続け、スイスのチューリッヒで94歳で亡くなりましたんにゃ

 

 

エミール・ガレ

エミール・ガレ出典:L’Est Républicain

 

 

エミール・ガレ(1846年 – 1904年)は、本名を『シャルル・マルタン・エミール・ガレ』と言い、アール・ヌーヴォーを代表するフランス生まれのガラス工芸家であり、家具家具デザイナーでもあります。

 

 

 

父親が陶磁器と家具の工場を運営していた為、幼少の頃からそれぞれの分野に身近に接する機会が多かったガレは、19歳になるとドイツのヴァイマルに留学し、ドイツ語とデザインについて学び、翌年からドイツのガラス工場でガラス製造の技術を習得しました。

 

 

 

24歳の頃、普仏戦争が始まり義勇軍として戦争に参加します。

 

 

 

31歳で軍人を退役したガレは、父が運営していた工場を継ぎ企業経営者としても活動することになります。

 

 

 

翌年、1878年のパリ万国博覧会に出品したいくつかの『月光色』のガラス器等が注目を浴びます。

この月光色ガラスはガレが独自に開発したもので、酸化コバルトを使って淡い水色に発色させた美しいガラスでした。

エミール・ガレ 月光色出典:ESTーOUEST

▲月光色(ムーンライト)と呼ばれるガレが開発した特殊な淡いガラス。

 

 

また、ガレのモチーフには植物や昆虫が使われることが多く、古来のガラス技法を生かしながらも生き生きとした表現力で魅せる彼の作品は世界中から高い評価を受けました。

エミール・ガレ出典:Pinterest

▲昆虫をモチーフにしたガラス花瓶。

 

 

ガラス器や陶器、家具など、幅広いガレの作品には、さまざまな形で日本美術との深い結びつきが見られます。

 

 

 

 

ガレの日本美術への傾倒ぶりは、当時の批評家に

ナンシー(フランスのガレの故郷の街)で日本人として生まれた運命のいたずら

とまで言わしめたほどでした。

 

 

 

もちろんガレの作品は、日本美術へも多大な影響を与えています。

エミール・ガレ キノコ出典:Google Arts&Culture

▲エミール・ガレの『ひとよ茸ランプ(Inky cap lamp)』(1902)

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
長野県にある北澤美術館では『ひとよ茸ランプ』をはじめ、たくさんのガレの作品が展示されていますにゃ!

 

 

ルイス・コンフォート・ティファニー

ルイス・コンフォート・ティファニー出展:Dtale

 

ルイス・コンフォート・ティファニー(1848年 – 1933年)は、アメリカの金細工師、宝飾デザイナー、ガラス工芸家で、有名宝飾店『ティファニー』の創業者、チャールズ・ルイス・ティファニーの長男です。

 

 

 

 

アメリカにおけるアール・ヌーヴォーの第一人者として知られ、主にステンドグラスやモザイク加工のガラスランプの製作などにおける芸術家として名を馳せています。

ルイス・コンフォート・ティファニー出典:TIMEーAZ

▲ステンドグラスで製作されたティファニーランプはスティーブ・ジョブスも愛した照明

 

 

ティファニーのステンドグラスの製法は、それまで主流とされてきたエナメル塗料を直にガラスに塗りつけて色を付ける方法を抑え、色彩ガラスを利用した手法になっています。

 

 

 

これは17世紀頃に失われた技法をティファニーが再現したものと言われています。

ティファニーランプ出典:Live Auctioneers

▲トンボのモチーフはいくつかのティファニーランプで用いられている人気のデザイン

 

 

ティファニーは85歳で亡くなる5年前に、自身のニューヨークにあるガラス工芸スタジオ『ティファニー・スタジオ』が倒産し、24年後にはティファニーの自宅で84部屋ある大豪邸『ローレルトン・ホール』が火事で焼失するなど、苦難が続きました。

ローレルトンホール出典:louiscomforttiffanyfoundation

▲ニューヨークのロングアイランド島にあったティファニーの別荘『ローレルトン・ホール』には、ティファニーのお気に入りのコレクションが多数展示されていた。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
静岡県伊東市にあるニューヨークランプ&ティファニーミュージアムでは、ティファニーランプがたくさん展示されているんだにゃ!営業時間を確認して見に行くにゃー!

 

ルイ・マジョレル

ルイ・マジョレル出典:Ophir Gallery

 

 

ルイ・マジョレル(1859 – 1926)は、アール・ヌーボーを代表するフランスの家具デザイナーです。

 

 

 

 

マジョレルは家具職人の子として生まれ、パリの美術学校で絵画を学びました。

 

 

その後、父の死により家業の家具・陶芸工房を継ぎますが、1880年代のエミール・ガレのアール・ヌーボ様式に刺激を受け、1898年には伝統的様式からアール・ヌーボー様式の家具制作に転向します。

 

 

 

 

1900年のパリ万国博覧会で寝室『睡蓮』を発表し、流麗な曲線の造形、彫刻装飾の精巧さが話題になりました。

ルイ・マジョレル出典:Du Grand art

▲特徴的な脚を持つマジョレルのレザーアームチェア。

 

ルイ・マジョレル出典:Du Grand art

▲アールヌーボーの典型的なエンブレムとして睡蓮、アザミ、鳥、トンボなどの動植物や昆虫などが好まれた

 

 

出典:HISTOIRES D’UNIVERSITE’S

▲アール・ヌーボーらしい曲線的で個性的な作品が多いルイ・マジョレル。

 

 

 

チャールズ・レニー・マッキントッシュ

チャールズ・レニー・マッキントッシュ出展:National Museums Scotland

 

チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868年 – 1928年)はスコットランドの建築家であり家具デザイナー、そして画家です。アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者として、またスコットランドにおけるアール・ヌーボーの第一人者として活躍しました。

 

 

 

 

マッキントッシュは1868年、警察官の父の四男としてスコットランドのグラスゴーに生まれました。幼少の頃より足と目に障害を持っていましたが、スコットランドの風土に触れる機会に恵まれ多くのスケッチを描いて過ごしました。

 

 

 

 

16歳の時(1889年)にグラスゴーの建築家の下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部に入学し、多くの学校賞を受賞します。

 

 

 

 

その後マッキントッシュは仲間の学生、後の妻となるマーガレット・マクドナルドとその妹を含む4人でザ・フォー(The Four)(日本では4人組と呼ばれている)と呼ばれる芸術家集団として、グラスゴー、ロンドン、ウィーンの各地で展覧会を開き、その評判は芸術家としてのマッキントッシュの名声を確立させました。

グラスゴースタイル 4人組 ザ・フォー マッキントッシュ 出典:Wikimedia Commons

▲マッキントッシュ率いる芸術家集団「ザ・フォー(4人組)」に憧れてヨーロッパ各地からグラスゴーに集まった建築家やデザイナーたち。前列右がマッキントッシュ、後列一番左が妻のマーガレット・マクドナルド。

 

 

「グラスゴー・スタイル」と呼ばれたこの展覧会は、ヨーロッパ各地でその後も開かれ、ゼツェッション(ウィーン分離派)にも影響を与えたと言われています。

マッキントッシュ ローズ Pink出典:The Guardian

▲マッキントッシュはバラのモチーフを好んで描いた『Rose and teardrop』(1915年) 

 

 

27歳となったマッキントッシュは母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝し、その勢いでグラスゴーのティー・ルームのインテリアデザイン、ヒル・ハウスなどの設計を行いました。

グラスゴー美術学校 マッキントッシュ出典:Dazeen

▲マッキントッシュが設計したグラスゴー美術学校のエントランス(1899年)

 

 

しかしその後、建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは建築の仕事がなくなってしまい、南フランスに移り水彩画家に転向してしまいました。

 

 

 

 

水平垂直を強調した直線的なデザインアール・ヌーボーの曲線美を融合させた個性的な家具をいくつもデザインしたマッキントッシュの家具は、現代でも傑作と呼ばれ愛されています。

アーガイル出典:MAAS Collection

▲スコットランド・アーガイル街にあるティールームのテーブル用にデザインされたチェアで、マッキントッシュがはじめてデザインしたハイバックチェア『アーガイル』(1898年)

 

ヒルハウス出典:Auctions

▲代表作『ヒルハウス』(1902年)のオリジナルは今なおマッキントッシュが設計したヒルハウスの寝室に置かれている。その極端なまでのハイバックとデザインから感じられる抽象的な装飾は、この椅子を座るためだけでなく、観賞するためのものとしても考えたマッキントッシュの意図が窺える。

 

 

ナンタルカ マッキントッシュ▲ヒルハウスはナンタルカも愛用しているチェアのひとつ

 

ナンタルカ
ナンタルカ
マッキントッシュのヒルハウスのチェアは、別名『ラダーバック(はしごの背もたれ)チェア』とも呼ばれていますにゃ。ラダーとは『はしご』の意味にゃ。でもはしごの一番上は格子状のデザインになっているのがポイントですにゃ

 

 

アルフォンス・ミュシャ

ミュシャ出典:Vivanco

 

 

アルフォンス・ミュシャ(1860年 – 1939年)はチェコ出身のグラフィックデザイナーでイラストレーターで、アール・ヌーヴォーを代表する画家でもあり、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作しました。

 

 

 

ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴で、華麗な装飾と印象的な女性とを組み合わせた作風はミュシャ様式と呼ばれています。

 

 

 

 

 

1860年、チェコに生まれたミュシャは、学生時代に教会の聖歌隊となりました。

 

当時は音楽家を志していたミュシャですが15歳ごろになると声が出なくなり、志を諦めて聖歌集の表紙を描くなど絵を描き始め、19歳でオーストリアのウィーンに行き舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通いました。

 

 

 

 

2年後に舞台装置工房での仕事を失ってしまいますが、25歳のときにミュンヘン美術アカデミーに入学し、その後28歳でパリの名門美術学校アカデミー・ジュリアンに通います。

アカデミージュリアン ミュシャ出典:Wikimedia Commons

▲「アカデミー風景」(マリ・バシュキルツェフ作) アカデミージュリアンはさらなる超名門美術学校エコール・デ・ボザールと異なり、女性にも芸術の教育機会を与えた

 

 

彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成したジスモンダ のポスターで、これはベルナールが年の瀬に急遽ポスターの発注が必要になったのですが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いてたミュシャに飛び込みで依頼したものでした。

出典:PInterest

▲ミュシャの最初期の傑作『ジスモンダ』(1895年)

 

『ジスモンダ』は当時のパリにおいて大好評を博し、一夜にしてミュシャのアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとします

 

 

 

またサラ・ベルナールにとっても、この『ジスモンダ』が、フランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなり、その後もミュシャに「椿姫」、「メディア」、「ラ・プリュム」、「トスカ」などのポスターの制作を依頼し続けました。

 

 

 

 

ミュシャは他にも煙草用巻紙(JOB社)シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)自転車(ウェイバリー自転車)などの多くのポスターの制作をおこなっています。

JOB ミュシャ出典:Wikimedia Commons

▲JOB社の煙草ポスター(1896年)は大変人気があり、コレクター用に小型判が作られている

 

 

またポスターに並び装飾パネルも数多く手がけていて、それは2〜4点セットの連作も多く、いずれも女性の姿を用いて表現しています。

アルフォンス・ミュシャ 黄道十二宮出典:Christies

▲女性の周りに西洋占星術における12星座が描かれた『黄道十二宮』(1896年)は、当初はポスターまたはカレンダーとして製作されながら、デザインの人気が高かったために、後に装飾パネルとして売りに出された。

 

ミュシャ 4芸術出典:This is media

▲ダンス、絵画、詩、音楽の4つの芸術を擬人化して表した『四芸術』(1898年)

 

 

1910年、50歳になったミュシャは故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作スラヴ叙事詩を制作します。

 

 

 

この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものです。

スラブ叙事詩出典:Galerie hlavního města Prahy

▲全20作品からなる『スラブ叙事詩』は大きいものでは6×8mのサイズに達する大作で、完成までに20年もの歳月を費やした。

 

ナンタルカ
ナンタルカ
日本でも当時からミュシャは大人気でコレクターも多いにゃ。現在は大阪府の堺市にミュシャの美術館がありますにゃあ〜

 

ユーゲント・シュティール

ユーゲント・シュティール出典:corcoise

▲当時のドイツ・ミュンヘンで刊行されていた『JUGEND(ユーゲント)』10月号表紙(1896年)

 

 

ドイツやオーストリアではアール・ヌーボーをユーゲント・シュティール』(『若い様式』という意味)と呼びました。

 

 

 

 

アール・ヌーボーと同じようにイギリスの新しい工芸運動「アーツ・アンド・クラフツ」からの強い影響を受けていて、当時ドイツ世紀末芸術の中心地であったミュンヘンで刊行された雑誌ユーゲントの斬新な表紙や都会的で若々しい感覚のイラストレーションが評判になり、爆発的に流行します。

ユーゲント・シュティール 出典:Wikimedia Commons

▲当時のドイツ・ミュンヘンで刊行されていた『JUGEND(ユーゲント)』4月号表紙(1896年)

 

 

ここから青春様式とも呼ばれる「ユーゲント・シュティール」という言葉が生まれ、やがてミュンヘンやベルリンを中心にした若い芸術家による芸術運動の傾向全体を指す言葉となりました

ユーゲント・シュティール ミュンヘン出典:Architektur und Medien

▲ドイツ・ミュンヘン市内にある人面・植物の彫刻が施されたユーゲント・シュティールの奇抜な建築(1900年頃)

 

 

1899年には、ドイツのヘッセンという街を治めていたエルンスト・ルートヴィヒによってユーゲント・シュティールの芸術家村「マチルダの丘」が形成され、ドイツ語圏におけるユーゲント・シュティール運動の中心的役割のひとつを担いました。

マチルダの丘 オルブリッヒ ベーレンス出典:UTSA

▲奇妙な建築が立ち並ぶ『マチルダの丘』の多くの建築はドイツ工作連盟のヨゼフ・マリア・オルブリッヒによって設計された。左に見える五本指をモチーフにしたという謎の塔はルートヴィヒの結婚記念に設計された『結婚記念塔』(1907年完成)

 

 

 

ユーゲント・シュティールは、19世紀末から20世紀の初頭にかけて展開し、絵画や彫刻のほかにも、建築、室内装飾、家具デザイン、織物、印刷物から文学・音楽などにも取り入れられました。

 

 

 

 

ユーゲント・シュティールの特徴はアール・ヌーボーと同様に、美術の分野としては動植物や女性のシルエットなどのモチーフが多く、柔らかい曲線が多用されます。

 

 

建築の分野としては簡潔で機能を重視した形状が重んじられる一方、一度限りの芸術性、唯一無二のデザインが尊重されました。

 

 

 

 

そのため、一部からは「装飾多すぎ」とか「貴族主義」などの批判を受けることもあったようです。

ユーゲント・シュティール出典:CHIP

▲バルト三国のラトビアにある街リガではユーゲント・シュティールの流行と建築ラッシュが重なり、当時の建築が現在にも多数残っている。人面、獣面、鳥、植物、エジプトなどのモチーフが多い。

 

ユーゲント・シュティール 建築出典:Travel guide

▲賛否両論ありそうなユーゲント・シュティールの建築デザイン。リガの街並みは「リガ歴史地区」として世界遺産に登録されている。

 

 

ユーゲント・シュティールの運動はベルリンオーストリア、そしてヨーロッパ全土に広がり、後に誕生するゼツェッション(ウィーン分離派)の活動につながってゆきます。

 

 

▼ゼツェッションの活動は次回記事で▼

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お疲れ様でした!

 

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

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では、次回もお楽しみに!

 

 

 

 

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