こんにちは、しけたむです!
この記事では
- 「明治、大正時代の庶民の生活ってどんなんだったの?」
- 「大正時代の代表建築『帝国ホテル』について詳しく知りたい。」
という人のために
明治・大正時代の人々の暮らしや建築、代表作まで画像付きで解説していきます。
▼明治・大正時代のインテリア・前編はこちらから▼
明治時代の暮らし
出典:Pinterest
▲1880年の横浜市伊勢佐木町の大通りの様子。手前には『ガス灯』が見える。
明治時代に入ると横浜や銀座、大阪には石炭ガス等の燃料用ガスを燃やして点火する『ガス灯』が灯り、明るく街を照らし始めます。
文明開化とはいったものの、華麗で華やかな洋風建築が採用されるのは官庁や富豪の邸宅のみで、庶民は明治時代に入ってもやっぱりまだまだ民家に住んでいました。
▼日本の住宅、『民家』の歴史はこちらから!▼
明治時代にマッチが輸入されると庶民にも普及して家事がずいぶんと楽になりました。
政府もマッチを国内製造業として奨励し、一大産業に成長します。
出典:神戸な生活
▲神戸のマッチ工場。ベルトコンベアーから流れてくるマッチ箱にラベルを貼る工程。
出典:国産マッチの歴史
▲明治8年、はじめてマッチを見て驚く人々。タバコをくわえた男は和服を着ているのに帽子だけ西洋風という変な格好。
明治時代の後期になると、今でいう応接間が都市部の富裕層を中心に見られるようになりました。
出典:ほしのつぶやき
▲横浜山手地区に建てられた『外交官の家』(1910)のヴィクトリアン様式の応接間
応接間の登場で家族の生活は和室で、来客用の応接間は洋室で、という和洋折衷(わようせっちゅう)スタイルが浸透しはじめます。
家具については当時ヨーロッパで普及していたヴィクトリアン様式の家具が輸入されて、国内でも模倣しながら製造されました。
出典:4travel
▲1907(明治40)年に嘉仁親王(のちの大正天皇)の宿泊施設として鳥取県に建てられた迎賓館『仁風閣』のリビングにあるヴィクトリアン様式の家具。仁風閣の設計者は宮内省の建築家「片山東熊(かたやまとうくま)」。
▼ヴィクトリアン様式はこちらの記事でご紹介▼
▼片山東熊って誰だっけ?てかたは前編にて▼
また、庶民の食事の場にはちゃぶ台が使用されるようになりました。
テレビアニメ『サザエさん』で夕食を食べてるシーンお分かりになりますでしょうか?
あの居間のようなイメージです。
出典:農林水産省
▲明治40年頃の都市部の中流階級の食卓の様子。食卓にフォークやナイフが見られる。
それまでの食事方法は一人一膳という家父長制(かふちょうせい)スタイルだったのが、ちゃぶ台を囲んで家族で一緒に食事をする一家団欒(いっかだんらん)スタイルの食事へと変化しました。
出典:江戸時代の外食
▲江戸時代の中流階級以上の家父長制スタイルの食卓。主人が箸を取るまでは家族は食事に手をつけるのは完全にNG。
大正時代の生活と建築
大正時代に入ると
「さすがにそろそろ西洋化の流れに乗っとかないとやべえよなあ?」
と、生活の近代化を目指す動きがあちこちで加速しました。
生活改善運動
出典:水戸市大場町
▲火鉢を使った生活から脱却して、電気を囲んだ家族団らんの生活を勧めるポスター
当時流行していた雑誌『婦人の友』や、旧文部省が設立した『生活改善同盟(※)』が西洋の衣食住の暮らしぶりや作法などを紹介し、近代化をやや強引に推し進めました。
※生活改善同盟(せいかつかいぜんどうめい)とは
1919年に開催された文部省主催の『生活改善展覧会』の後を受けて、1920年文部省社会局に開設された組織。
日本が欧米諸国と肩を並べるため、日本国民の生活意識そのものを改革することを目標として、礼儀作法から服装、食事、住宅まで生活全般に関わる改善と合理化を目指した。
住宅の分野では、椅子を使った欧米式のライフスタイルを日本に紹介・推奨して、当時の日本人の生活感覚を矯正・合理化しようとした。
この近代化推進運動のことを『生活改善運動』といいます。
出典:国立科学博物館
▲水道の蛇口の使い方が分からずに床を水浸しにしてパニックになるおじさん(左)と水栓便器の流し方に四苦八苦するご婦人(右)
『今少し文化設備に親しめ』と書かれています。
近代的な設備の使い方を覚えましょうね、ということですね。
出典:国立科学博物館
▲地面むき出しの土間でカマドに薪(まき)をくべて料理をするスタイルから、室内の明るいキッチンで水栓付きのシンクとガス調理器のあるスタイルへの変化を促したポスター
『家庭の改良は先づ台所設備から』と書かれています。
今までの炊事場ではカマドは土間に置かれて座って作業をしていましたし、水栓は無く井戸から水を汲んでくる必要がありました。
大正時代になると都市部では徐々に電気、ガス、水道などの設備が普及し、台所は『座り流し』から『立ち流し』へと改善が進められたのです。
中廊下型住宅
住宅の間取りでは、中廊下型住宅の登場が生活改善運動の趣旨を反映しています。
中廊下型住宅では中廊下によって家族の生活空間と水回り、使用人の生活空間が分けられ、「ここは応接間」、「ここは子供部屋」、「ここは居間」などといった明確な部屋の用途の使い分けがされるようになりました。
出典:ひかリノベブログ
しかし部屋の仕切りといっても「襖」が一般的だったので、これだけでは音も漏れますし、プライバシーなんてあったようなものではありませんでした。
また、上の間取りのように玄関の脇に独立した洋風の応接間を設ける間取り様式は
『文化住宅(ぶんかじゅうたく)』と呼ばれ、当時のトレンドになりました。
出典:Dolive
▲大正末期から昭和初期の文化住宅の応接間を現代に再現した「小平新文化住宅」
帝国ホテル
出典:日本旅マガジン
▲愛知県の「明治村」に東京から移築・再建された帝国ホテルの玄関部分。東京で解体して、愛知県への移築・再建するには十数年の歳月が掛かったという。
帝国ホテルとは1923年(大正12年)に20世期を代表する世界的建築家『フランク・ロイド・ライト』が設計して東京都千代田区に建てられたホテルで、設計者の名前をとった『ライト館』という通称でも有名です。
▼近代建築の3大巨匠『フランク・ロイド・ライト』はこちらでご紹介!▼
1914年(大正3年)頃、当時の帝国ホテル総支配人だった林愛作(はやしあいさく)は、知り合いだったアメリカ人建築家のフランク・ロイド・ライトに「初代帝国ホテル」のすぐ隣の敷地に「帝国ホテルの新館(ライト館)」を建築する相談を持ちかけます。
▲1890年、『初代帝国ホテル』竣工時の写真。「帝国ホテルの新館(ライト館)」はこの初代帝国ホテルの隣接した場所に1919年から建設がスタートしたが、建設途中の1922年に謎の失火によりこの初代帝国ホテルは焼失してしまう。ホテルを失った経営陣はライト館の完成を急がせた。
何度か打ち合わせを重ね、1916年(大正5年)にライトと当時の建築予算150万円で契約を結び、1919年(大正8年)9月に着工しました。
▲フランク・ロイド・ライト(写真中央)と一番弟子の遠藤新(えんどうあらた)(写真左)、工学博士の伊藤文四郎(写真右)
ライトは使用する石材から家具などの調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制で建築に臨みます。
また、帝国ホテルの新館はホテルとしては世界で初めて全館にスチーム式暖房を採用し、鉄筋コンクリート造で耐震性、防火性にも配慮するなどの最新鋭の設備を誇っていました。
しかしこうした完璧主義な設備と設計が大幅な予算オーバーを引き起こすことになり、当初予算150万円が6倍の900万円にまで膨れ上がってしまいました。
さらに最悪なことは続き、1922年(大正11年)に隣接する初代帝国ホテルが失火から全焼すると、帝国ホテル新館の早期完成がいよいよ経営上の急務となり、設計の変更を繰り返すフランク・ロイド・ライトと経営陣との衝突は避けられなくなりました。
こうして、フランク・ロイド・ライトを設計者として推薦した林愛作は責任を取って総支配人を辞任し、ライトも情熱を注いで設計した帝国ホテル新館の完成を見ることなくアメリカへ帰国、一番弟子の遠藤新(えんどうあらた)が残りの仕事を引き継ぎ、帝国ホテル新館は1923年になんとか完成しました。
▲完成当時の帝国ホテルを正面から見た玄関と池
出典:Twitter
▲全景が分かりやすいように。栃木県にある『東武ワールドスクウェア』の25分の1帝国ホテル模型。
そして「1923年9月1日」に、めでたく落成記念披露宴が開かれます。
この日付で気がつかれた方も多いかと思いますが、
そう、この日は関東大震災の発生した日。
なんと宴の準備に大忙しの時、巨大な地震が帝国ホテルを襲いました。
しかし、周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていた帝国ホテルはひときわ人々の注目を浴びることとなりました。
▲なんともないように建っている帝国ホテル(写真左)と隣で燃え上がる日本勧業銀行
こうして帝国ホテルはすぐ隣に建っていた初代帝国ホテルの謎の失火による全焼も、思わぬ予算オーバーも、大地震という災害も乗り越え、大正から昭和にかけて社交の中心としてジャズやダンス、演劇などのエンターテイメント文化の発信地となり、多くの海外からのスーパースターなどの客人たちにも利用されました。
出典:CREA
▲メインロビーの吹き抜け
出典:CREA
▲客室には日本らしく盆栽が置かれていた。ベッド横にある黒電話に時代を感じる。
帝国ホテルの外装、内装には大谷石(栃木県宇都宮市のもの)とレンガ、テラコッタ(愛知県常滑市のもの)が多用され、横に伸びる水平のラインを強調したデザインとなっています。
出典:花椿
▲旧帝国ホテル本館のロビー。栃木県の大谷石と愛知県常滑の煉瓦とテラコッタが使用されている。
また、ロビーの柱に使用されている大谷石には幾何学模様の彫刻が施されています。
出典:LIXIL文化部
▲テラコッタと大谷石を組み合わせた柱『光の籠柱(かごばしら)』。内部が照明になっている。
出典:LIXIL文化部
▲縦に細い溝の模様がつけられた黄色いスクラッチタイル(スダレ煉瓦)。愛知県常滑市にて製造。
テラコッタはイタリア語で『焼いた土』を意味する言葉で、オレンジ色をした焼き物です。
陶器や植物の鉢にも使われますし、タイル状にして建築材料としても使われています。
出典:HORTI /テラコッタ
震災にも空襲にも耐えた帝国ホテルでしたが、時が経つにつれて地盤沈下などの影響で柱が傾き、雨漏りがするといった老朽化の問題や、都心の一等地を占有する巨大な建造物の客室数がわずか270室しか無いことで経営的な問題も浮き彫りとなってきました。
このような問題から帝国ホテルは1967年(昭和42年)に閉鎖され、翌年春頃までに取り壊されました。
跡地に建設された近代的外観の新本館は1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会にあわせて同年に竣工して現在に至ります。
出典:FASHON PRESS
▲東京・日比谷にある三代目帝国ホテルの外観。実は2036年には四代目帝国ホテルが完成予定で、周辺も再開発計画が進行中。
ナンタルカのまとめ
■明治時代の暮らし
明治時代の後期になると、今でいう洋風の(①)が都市部の富裕層の住宅を中心に設けられ、家族の生活は和室で、来客用の応接間は洋室で、という(②)スタイルの生活様式が浸透しはじめた。また、庶民の食事の場には(③)が使用され、一人一膳という家父長制スタイルの食事から一家団欒スタイルの食事への変化が見られた。
■大正時代の暮らし
大正時代には、雑誌「(①)」や旧文部省が設立した(②)などの主導で、生活の近代化を目指す(③)が推進された。住宅の間取りでは(④)が広まり、各部屋は襖によって仕切られ、使い分けがされるようになった。また、玄関の脇に独立した洋風の応接間を設けた住宅は(⑤)と呼ばれ、流行した。
■大正時代の代表建築
大正時代を代表する建築では、1923年に世界的な建築家(①)によって東京都千代田区に建てられたホテル(②)が有名で、設計者の名前をとって『(③)』という通称で呼ばれた。内外装には栃木県の(④)や愛知県の(⑤)が用いられた。
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