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【20世紀の動き(2)−2】フランク・ロイド・ライトの建築と照明、そして波乱万丈な人生【世界のインテリアの歴史⑭】

落水荘 カウフマン邸

 

 

こんにちは、しけたむです。

 

 

この記事では

 

 

  • 「フランク・ロイド・ライトの建築、照明についてもっと知りたい。」
  • 「ホラー映画は大好きだ。」

 

 

という方々に向けて

 

近代建築の3(4)大巨匠のひとり、フランク・ロイド・ライトについて分かりやすく画像つきでご紹介していきます。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
インテリアコーディネーター資格試験には出題されない内容も掲載してますが、その人を深く知り、理解を深めることも重要だにゃ。今回の記事には、かなりショッキングな内容と表現が含まれているにゃ、苦手な人は十分に注意して、読み進めてくださいにゃ!!

 

 

 

 

 

フランク・ロイド・ライトとは?

フランク・ロイド・ライト出典:Frank Lloyd Wright Foundation

 

 

 

フランク・ロイド・ライトはアメリカの建築家で、ル・コルビュジェミース・ファン・デル・ローエと共に『近代建築の3大巨匠(※1)』と呼ばれる建築界の偉大な巨匠です。

(※1:ヴァルター・グロピウスを加え4大巨匠とみなすこともあります)。

 

 

 

ライトはアメリカのウィスコンシン州に牧師の父の第1子として生まれました。

 

ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学した後、シカゴへ移り住み、ルイス・サリヴァンの建築事務所で働き始めます。

 

 

 

▼ライトが尊敬していた師匠、シカゴ派のルイス・サリヴァンについてはこちらの記事からどうぞ▼

サリヴァン・センター カーソン・ピリー・スコット・ストア
【19世期から20世紀へ(2)-1】ゼツェッション(分離派)とシカゴ派の建築と特徴について7分で理解しよう【世界のインテリアの歴史⑪-1】この記事ではゼツェッション、シカゴ派の建築と特徴についてわかりやすく解説しています。それぞれの代表的な人物と建築が数多く登場しますが、画像を見ながら7分で理解できます。インテリアコーディネーターの復習や、試験勉強の参考にお役立てください。...

 

 

 

ルイス・サリヴァンにその才能を見込まれ、ライトが21歳になる頃には事務所におけるほとんどの住宅の設計を任せられました。

 

 

 

ライト自身もサリヴァンを「Lieber Meister (愛する師匠)」と呼んで尊敬していたのですが・・・

 

 

 

 

 

サリヴァンの事務所に勤めて7年ほど過ぎた1893年頃、ライトが副業として個人的に設計業務を請け負っていた事が師匠であるサリヴァンにバレてしまいました。

 

 

 

ライトはサリヴァンに咎められ、事務所に残る事ができなくなったので辞職し、独立して個人事務所を構えることとなります。

(ライトが副業をしていたのは、経済的に困窮していたからだと言われています。それは彼が6人の子供を抱える家庭であったことに加え、ライト自身が洋服や車など、贅沢品を好む浪費家というそのライフスタイルにもあったようです。)

 

 

 

 

独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、水平線を強調した『プレイリースタイル(草原様式:Prairie Style)と呼ばれる設計手法の作品で知られるようになりました。

 

 

 

プレイリースタイルの特徴は、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで『建物の高さを抑えた』こと『水平線を強調した佇まい』『部屋同士を完全に区切ることなく一つの空間として緩やかにつないだ』ことなどがあげられます。

 

 

 

1906年のロビー邸プレイリースタイルの代表的作品です。

 

 

ロビー邸

ロビー邸 ライト出典:FRANK LLOYD WRIGHT FOUNDATION

 

 

ロビー邸は1906年、フランク・ロイド・ライトが39歳の時にシカゴに建築したフレデリック・C・ロビー夫妻の為の邸宅です。

 

 

垂直ではなく、水平を強調したデザインは、ライトのプレイリースタイルの代表作世界遺産に登録されています。

 

 

ロビー邸出典:Montecristo magazine

▲屋根を低く抑えて、大きく張り出した特徴的な軒。外壁には横長レンガを使用するなど、とにかく水平ラインを強調した外観となっている。

 

ロビー邸 リビング ダイニング出典:Montecristo magazine

▲居間から食堂方向を見る。暖炉でそれぞれの空間を分けているが、天井を連続させ繋がりを持たせている。また、天井には水平のラインを強調させる為の装飾が見られる。

 

ロビー邸 窓出典:Montecristo magazine

▲1階の両開き窓。無駄な装飾を嫌ったライトの窓にはカーテンもカーテンレールも無い。

 

 

ロビーチェア

ロビーチェア出典:matisse

 

 

ロビーチェアは、ロビー邸に合わせてデザインされたダイニングチェアです。

 

 

特徴的なハイバックの格子状デザインは、フランク・ロイド・ライトが食事の間テーブルに引き寄せた全ての椅子が、その部屋の残りの空間に対する間仕切りとしての機能を持つ様にと考えられました。

 

 

ロビーチェア出典:Teaching Design

▲ロビー邸の食堂に置かれたロビーチェア

 

 

 

不倫事件と低迷期

フランクロイドライト 不倫 低迷期

出典:Zocalo

 

 

フランク・ロイド・ライトは、ヨーロッパの建築様式の模倣である『新古典主義』が全盛であった当時のアメリカにおいて、1906年にロビー邸などの傑作でプレイリースタイルという新しい建築様式を打ち出し、建築家としての名声を高めました。

 

 

 

しかし、この後1936年のカウフマン邸(落水荘)を発表するまでの約30年間、ライトは長い低迷期を迎えることとなります。。。

 

 

 

 

そのきっかけになった出来事が、1903年に竣工したチェニー邸の依頼主の妻『チェニー夫人』との不倫関係でした。

 

チェニー邸出典:Flicker

▲電機技師『エドウィン・チェニー』の邸宅として設計されたチェニー邸(1903年)

 

 

 

 

ライトは「自由恋愛」を実践する恋多き男で、

 

「男には少なくとも、子供を産んでくれる母親の役割を演じる女性と、パートナーとしてのインテリジェンスを持ち合わせた女性の二人が必要だ。」

 

と以前から公言していました。

 

 

 

チェニー夫人と恋に落ちてしまったライトは、妻のキャサリンに離婚を切り出したが、6人もの子供たちを抱えていたキャサリンは、ライトからの離婚の申し出に応じません。

 

 

 

 

この一連の不倫劇は大スキャンダルとなり、シカゴの新聞や教会の牧師(ライトの父親は牧師)たちは、不倫カップルを激しく非難し、それまで住んでいたシカゴのオークパークの町に戻ることはもちろん、シカゴでいっしょに暮らすことも不可能になってしまいました。(当たり前ですが。。。)

 

 

 

 

1909年、42歳だったライトはついに事務所を閉じ、妻と6人の子供たちをも捨てて、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行します。

 

 

 

 

1911年にアメリカに帰国するまでの2年間は、設計活動に従事しませんでした。

(その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版の『フランク・ロイド・ライト作品集』の編集及び監修に関わっていました。)

 

ロビー邸 図面 ライト作品集

出典:PR Newswire

▲ベルギーで1910年に編纂された『フランク・ロイド・ライト作品集』。図面はロビー邸のもの。

 

 

 

 

・・・そんなライトは、母とその祖父母が代々住んでいた地、アメリカのウィスコンシン州で新たなる建築計画を進める為、故郷へいよいよ帰国することになります。

 

 

 

 

帰国、そしてさらなる事件

ライト 殺人事件出典:Amazon

 

 

 

1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声設計依頼の激減という危機的状況でした。

 

 

 

妻のキャサリンが依然として離婚に応じていない状況の中、ライトはチェニー夫人との新居を建築するべく、ライトの母から相続したウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地に別荘兼工房であるタリアセンの設計を始めます。

 

 

タリアセン

ライト タリアセン出典:WRIGHT IN WISCONSIN

 

 

フランク・ロイド・ライトの母親や祖父母が代々暮らしてきた地、アメリカのウィスコンシン州南部の町スプリンググリーンにて1911年に設計し、1914年に竣工したタリアセン

 

 

 

タリアセンは、高さを抑え、水平の線を強調したプレイリースタイルの代表作で、別荘兼工房として使用され、ライトのその後の名作はこの場所で設計されたと言われています。

 

 

 

再建と増築を繰り返し、2019年に世界遺産の文化遺産に登録されました。

 

タリアセン インテリア出典:OPEN CULTURE

▲寄棟屋根の緩やかな傾斜が現れた天井と、大きく開け放たれた窓が印象的なリビング

 

 

タリアセンは、ウィスコンシンの自然の景観に溶け込むように設計されています。

 

 

緩やかな屋根のラインはこの地域の丘や谷を反映し、石材はこの地域で採掘される柔らかい黄色の石灰岩、壁の漆喰には近くのウィスコンシン川の砂が使用されています。

 

タリアセン 全体図出典:FRANK LLOYD WRIGHT FOUNDATION

▲ウィスコンシンの大自然の中にあるタリアセン

 

タリアセン 出展:Pinterest

▲ライトがデザインした照明『タリアセン2』(写真右)は照明の傑作としてあまりにも有名

 

 

 

タリアセンはプレイリースタイルを体現する建築として有名ですが、同時にデザインされた照明『タリアセン1』『タリアセン2』も照明の傑作として有名です。

 

 

 

タリアセン1

 

タリアセン1 照明出典:Maclin studio

▲ライトがデザインした『タリアセン1』。タリアセン以降の様々なライトの建築で使用されている。

 

 

 

『タリアセン1』は、ライトの建築造形のひとつである方形屋根がデザインに取り入れられ、まるでタリアセン内部に小さな建物があるかのように見えます。

 

 

 

素材に選ばれたチェリーやウォルナット材は、アメリカンクラフトデザイン独特の味わいを与え、自然との調和を生み出しています。

 

 

 

タリアセン2

タリアセン2出典:architect Gifts plus

▲タリアセンの施設のペンダント照明がデザインモチーフとなった『タリアセン2』

 

 

タリアセンの敷地内に建設した『ヒルサイド・ホーム・スクール』という体育館を劇場に改修する際、ライトがデザインしたペンダント照明をリ・デザインしてフロアスタンドにしたものが「タリアセン2」です。

 

 

 

なんとも不思議なデザインのフロア照明ですが、電球を覆ういくつもの箱型のブロックが電球の光をまず上下方向に誘導しています。

 

 

 

上下方向に誘導された電球の光は、さらに遮光板に反射し、間接光の心地よい明るさが得られるという仕組みです。

 

 

 

この遮光板は取り外しができて、箱型のブロックの上下どちら方向にも設置が可能です。

 

 

 

下側に遮光板を設置した場合、アッパーライトとして、電球の光は上方向へ放射されます。

 

 

 

ライトは『タリアセン2』を、実際にタリアセンに置いて愛用しました。

 

タリアセン2 照明 ライト出典:Jose manuel juan

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
タリアセンという言葉は、ライトの出自のウェールズ(イギリス)の6世紀の詩人タリアシンという人からとられているんだにゃ〜

 

 

DEATH IN A PRAIRIE HOUSE

タリアセン 殺人 炎上出典:DAILY NEWS

▲炎上し焼け落ちたタリアセン(1914年)

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ここからはフランク・ロイド・ライトの周りに起きたショッキングな殺人事件の内容を含みますにゃ!資格試験には出題されませんので、苦手な方は飛ばし読みをお願いしますにゃ!

 

 

 

タリアセンがようやく完成してから数ヶ月、少しずつですが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲います。

 

 

 

 

その日は、1914年8月15日の土曜日。

 

 

 

 

ライトと同棲していた愛人、チェニー夫人(45)と、夏休みで遊びに来ていた、彼女の夫との間にできた息子ジョン(12)、娘マーサ(9)がタリアセンのテラスでランチの用意ができるのを待っていました。

 

 

 

 

タリアセンのダイニングルームでは、ライトの弟子たちも、やはり食事の支度ができるのを待っています。

 

 

 

 

 

そして住み込みの召使いとして働いていた執事兼料理人のジュリアン・カールトンが、テラスに食事を運んできました。

 

 

 

 

 

驚くべきことにジュリアンは、チェニー夫人と子供たちにスープを給仕したかと思うと、いきなり背後から斧でチェニー夫人の頭を叩き割ったのです。

 

 

 

 

一瞬にしてあたりに鮮血が飛び散り、子供たちの叫び声が響き渡りました。

 

 

 

 

ジュリアンの次のターゲットは長男のジョン。

 

 

 

 

同じように斧を振り下ろし、抵抗もできずに一打でジョンは息絶えます。

 

 

 

 

逃げ惑う長女マーサを追いかけ、華奢な少女をも容赦なく斧で切りつけました。

 

 

 

 

 

 

テラスでの異様な騒ぎに気付いた設計士のエミール(30)、大工のビリー(35)とビリーの息子のアーネスト(13)、庭師のディヴィッド(38)の4人は急いで外に出ようとしましたが、なぜかダイニングルームのドアは外側からロックされていて脱出できません。

 

 

 

 

床に敷いてあったダイニングルームの絨毯にはガソリンが湿らせてあり、ダイニングルームまでやってきたジュリアンが火を点けた瞬間、炎が舞い上がりタリアセンは炎に包まれました。

 

 

 

 

パニックとなり、炎の中を逃げ惑うライトの弟子たち。

 

 

 

 

窓ガラスを割って逃げようとした弟子たちですが、ジュリアンは外で斧を持って待ち構えていたのです。

 

 

 

 

彼らに向かってジュリアンは次々に斧を放ちました。

 

 

 

 

燃え盛るタリアセンを後にして、ジュリアンはボイラー室に隠れ、塩酸を飲んで自殺を図りましたが、喉が焼けただれたものの、死ぬことはできずに一命を取りとめました。

 

 

 

しかし収監されたジュリアンには裁判は行われず、犯行動機も闇に消えることとなります。

 

 

 

喉が焼けただれたジュリアンの食道がつまり、水を飲むのが精いっぱいで事件後2か月足らずの10月7日に収監されていた刑務所で餓死により死亡したからです。

 

 

 

 

その後の現場検証により、チェニー夫人を含む家族3人と使用人4人、合計7人の死亡が確認されました。

 

フランクロイドライト 不倫 殺人事件出典:NY Daily news

▲当時の凄惨な事件の様子を報じた新聞記事

 

 

 

こうしてフランク・ロイド・ライトと不倫相手との「愛の隠れ家」タリアセンは完成してから数ヶ月で焼け落ちてしまったのです。

 

 

 

ライト自身はシカゴで仕事をしていた為、無事でした。

 

 

 

 

 

この狂気の殺戮を行ったジュリアン・カールトンという男は、妻のガートルード・カールトンと夫婦で住み込みの召使いとして、事件の年の4月からタリアセンで働いていたアフリカ系アメリカ人。

 

 

 

 

カールトン夫妻を知り合いから紹介してもらったライトは、彼らの素性を特に調べることなく採用し、料理人兼執事としてライト家を切り盛りさせていました。

 

 

 

 

そして事件の起きた8月15日、この日はカールトン夫妻の最終勤務日で、夫婦は午後の電車でシカゴに帰る予定でした。

 

 

 

 

犯行の動機としては、ジュリアンとライトの弟子エミールとの間に確執があった、とか。

 

もともとカールトン夫妻は離職を希望しておらず、チェニー夫人から解雇通告され、逆恨みした……など、さまざまな憶測が飛び交いました。

 

 

 

ライトはこの事件により大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となります。

 

 

 

 

そのような失意の中で次の依頼が来たのは、日本の『帝国ホテル本館』設計の仕事でした。

 

 

旧帝国ホテル本館(ライト館)

帝国ホテル 本館出典:INPERIAL HOTEL

 

 

フランク・ロイド・ライトは1917年、帝国ホテルの新しい本館設計のために訪日し、1919年より建築がスタートしました。

 

 

以後もたびたび訪日し設計を進めましたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされました。

 

 

帝国ホテルの建設は、弟子の遠藤新(えんどうあらた)の指揮のもとその後も続けられ、1923年に竣工します。

 

 

 

▼旧帝国ホテル本館はこちらの記事で紹介しています▼

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竣工後、1923年9月1日に落成記念披露宴が開かれることになりましたが、ここでまた大事件が発生します。

 

 

未曾有の大災害、関東大震災が東京を襲ったのは、まさに披露宴の準備に大忙しの時でした。

 

 

周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、帝国ホテルの新本館は小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていました。

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
ライトは帰国後だったのでこの大震災を体験しませんでしたが、二週間後に帝国ホテルの無事を遠藤新からの手紙で知り、狂喜したらしいにゃ!

 

 

カウフマン邸(落水荘)

カウフマン邸 落水荘出典:Lady bird

▲カンチレバー(片持ち梁)構造が用いられたライトの代表的傑作

 

 

数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトでしたが、1936年になるとカウフマン邸(落水荘)という代表作を世に発表し、70歳近くになって再び歴史の表舞台に返り咲くことになります。

 

 

 

ペンシルベニア州のピッツバーグから南東に80キロメートルほどの場所にあり、ピッツバーグの百貨店経営者、エドガー・カウフマン氏の邸宅として作られました。

 

 

 

カウフマン邸は、カンチレバー(片持ち梁)構造が効果的に用いられた建築で、滝の流れる方向へ建築が迫り出して、浮いた状態となっています。

 

カウフマン邸 落水荘 エントランス 出典:dazeen

▲カウフマン邸のエントランス。滝とは反対方向の小道の頭上にまで建物が続いている。

 

カウフマン邸 落水荘 CAD出典:CADBlocks

▲写真だとわかりにくいので、CADデーターで。丘のうえの建物と往来が可能。

 

落水荘 リビング出典:dazeen

▲カウフマン邸のリビング。タリアセンと同様、石や土を使用し、自然調和を意識したインテリアに。

 

 

喜劇王チャーリー・チャップリンや、アインシュタインもこのカウフマン邸に宿泊しました。

 

 

また、ある雑誌社の企画投票で『アメリカ建国200年のなかの人気建築ランキング』1位に選ばれています。

 

 

 

ナンタルカ
ナンタルカ
竣工から80年以上が経って、カンチレバーでせり出したテラスが少しづつたわんできているんにゃ。改修工事が行われて現在は鉄骨のフレームで支えられているんだにゃ!

 

 

 

終わりに

フランク・ロイド・ライト出典:Architizer

 

 

1945年の戦争の終結とともに、多くの設計士の見習いたちがライトの元に戻ってきて、再び仕事がスタジオに流れ込みました。

 

 

 

その後、ライトは92歳でその生涯を閉じるまで、計1100件にも及ぶ設計を手掛け、そのうち400件を実現させました。

 

 

 

公共建築、高層建築、美術館、遊技施設、宗教建築、高級住宅から一般住宅にいたる多岐にわたる建築だけではなく、家具や照明、テキスタイル、アートガラス、テーブルウェアもデザインしました。

 

 

 

日本においても旧帝国ホテル本館、自由学園明日館などの作品で、我が国の近代建築の発展、西洋建築の普及に大いに貢献した建築家として知られています。

 

 

 

2019年には、アメリカの建築分野で初めて、ロビー邸、タリアセン、カウフマン邸を含む8つの作品群が世界遺産に登録されました。

 

 

 

波乱万丈なライトの人生は苦難も多かったですが、彼ほどに近代建築発展に寄与した人物はいないでしょう。

 

 

Fin

 

 

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お疲れ様でした!

 

ここまで読んで頂きありがとうございます。

 

分かりにくい点やお気づきのことがあればメールでご連絡ください!

 

 

 

では、次回もお楽しみに!

 

 

 

 

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