こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「19世紀以降の近代の建築やデザインに興味がある。」
- 「家具のデザインは芸術性よりも機能性を重視します。」
という方々に向けて
19世期から20世紀にかけて流行したドイツのゼツェッション(分離派)とアメリカのシカゴ派の建築と特徴について画像で解説します。
ゼツェッション(分離派)とは?
▲ゼツェッション(ウィーン分離派)の初期メンバーの集合写真。左から2番目の腰掛けている男が中心人物の「グスタフ・クリムト」(後述)
ゼツェッション(Scession) は、19世紀末にドイツのミュンヘン・ベルリン、オーストリアのウィーンなどで流行した芸術や建築の革新運動のことです。
過去の芸術様式から「分離」して、生活や機能と結びついた今までに無い新しい造形芸術の創造を目指しました。
ちなみにゼツェッションとは「分離」を意味するドイツ語で「分離派」、「ゼツェシオン」、「セセッション」とも呼ばれます。
ゼツェッションを受けて、1892年にまずドイツのミュンヘンで『ミュンヘン分離派』というグループが結成されます。
ミュンヘン分離派は、芸術運動ユーゲント・シュティールの1グループでもありました。
▼ユーゲント・シュティール知らんという方はこちらから!▼
次いで、オーストリアのウィーンでは1897年に『ウィーン分離派』というグループがオーストリアの画家であるグスタフ・クリムトを中心に結成されます。
ウィーン分離派は自分たちの作品を展示するための展示施設を独自に建築し、そこで展覧会を開催していました。
出典:Pinterest
▲ヨゼフ・オルブリッヒが設計したウィーン分離派の展示施設『分離派会館(セセッション館)』
グスタフ・クリムトらはウィーン分離派での活動を通して、芸術や建築において新しい造形表現を追求しました。
グスタフ・クリムト
▲装飾的・官能的な女性画を多く残したクリムトは、日本や東アジアの文化の影響を強く受けている
ちょっとヤバめな雰囲気を醸し出しているグスタフ・クリムト(1862年 – 1918年)はオーストリアの画家で、ウィーン分離派を結成した人物です。
グスタフ・クリムトは1862年にウィーンに生まれ、14歳で工芸学校に入学、石膏像のデッサンや古典作品の模写を中心とした古典主義的な美術教育を受けて育ちました。
17歳になったクリムトはすでに美術やデザインの請負の仕事を始めていて、26歳になる頃にはウィーン市からの依頼で描いた絵画で皇帝から賞を頂くなど数々の賞を総ナメにし、ウィーン美術界での名声を確立しました。
出典:musey
▲クリムトが26歳で皇帝賞を受賞した『旧ブルク劇場の観客席』(1888年)
まさに若き天才画家としてウィーン美術界で華々しく活躍していたクリムトは、1891年に『クンストラーハウス』と呼ばれる古典的な芸術を重んじる、なんだかお堅い保守的な芸術団体に加入することになるのですが・・・。
1894年のクリムトが32歳の時、国からの依頼でウィーン大学の講堂に天井画の制作を依頼されたのですが、クリムトによって描かれた3枚の絵画『医学』、『哲学』、『法学』が当時としてはかなりぶっとんだ作風で描いたことによって、大学関係者から批判を浴びてしまいました。
クリムトの作品の是非を巡って大論争になり、依頼主の文部大臣までバッシングを受けて辞職するのかしないのかというとんでもない事態に・・・。
あまりの事態の拡大により「いい加減やべえぞ」となったクリムトは、契約の破棄を求めて事前に受け取った報酬を国へ返却しました。
出典:Pinterest
▲クリムトによって描かれた問題の3枚の絵は、後にナチスによって没収されると放火により焼失した。『哲学』と『法学』は白黒写真が、『医学』は習作(練習として描いた絵)が現存している。(上の画像は、習作の『医学』)
この作品を見て分かるように、クリムトはすでに古典的な作品(昔からある古い作風)から抜け出し、独自の革新的な芸術の追求を求めていたのが分かります。
そして、1897年に保守的な芸術団体であるクンストラーハウスにいいかげん嫌気がさしたクリムトは「もうやめるわ」と言って脱退し、同じように革新的な芸術を追求する芸術家達を集めて『ウィーン分離派』を結成した、というわけです。
ウィーン分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たしました。
出典:Europosters
▲グスタフ・クリムトの代表作『接吻(せっぷん)』。クリムトの金箔の使用は日本画の「琳派(りんぱ)」から、そして「浮世絵」からも多大な影響を受けている。
▲グスタフ・クリムトの代表作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』(1907年)
オットー・ワーグナー
オットー・ワーグナー(1841年 – 1918年)はオーストリアの建築家で、グスタフ・クリムトとともにウィーン分離派の中心人物として活躍し、機能性・合理性を重視する近代建築の理念を表現しました。
「芸術は必要にのみ従う」
と一見なんだか訳のわからない主張をしたことで有名なワーグナーですが、これは
「芸術的な装飾とか何だか知らねえけど、まずは必要な機能がしっかりあること前提でやってくれよな。」
というような主張で、とにかくワーグナーは機能性・合理性を重視していました。
「芸術的な装飾をするなよ」という意味ではありません。
1841年、ウィーンで生まれたワーグナーは、わずか16歳でウィーンの工科大学、19歳で新古典主義建築の中心地だったドイツにあるベルリンの建築アカデミーで学ぶという、圧倒的な天才ぶりを発揮していました。
卒業後に再びオーストリアに戻って『ウィーン美術アカデミー』に進学し、22歳で卒業します。
同年、ウィーン市立公園に建てる会館の建築コンペに応募し1等賞を獲得するなど、社会に出るなりさっそく類稀なる才能を発揮し、主に公共建築物を中心に設計を行いました。
出典:Twitter
▲ワーグナーが27歳の時に設計したブダペストにあるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の外観(1868年)
出典:Pestbuda
▲イスラム風の複雑な模様の壁紙と金色の装飾で飾られたシナゴーグの内装
彼の建築作品はヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(後述)、ヨーゼフ・ホフマン(後述)などの、後に偉大な建築家となる学生たちに多大な影響を与えていて、かなり尊敬されている存在でした。
ワーグナーが53歳になる頃、かつての母校である『ウィーン美術アカデミー』の教授に就任し、1897年にグスタフ・クリムトがウィーン分離派を結成すると、ワーグナーの教え子だったヨゼフ・マリア・オルブリッヒやヨーゼフ・ホフマンたちはウィーン分離派に参加します。
やがてワーグナー自身も遅れて分離派に加わると、ワーグナーの建築は次第にアール・ヌーヴォーの影響を受けた流線的なデザインの建築様式に移っていきました。
出典:Wien.info
▲オットー・ワーグナーはウィーンの市営鉄道シュタットバーンの駅舎や案内板のデザインを担当した『カールス・プラッツ駅』(1899年)
出典:Wien.info
▲白い大理石と金色の縁取り装飾が美しいアール・ヌーボーの影響を受けたカールス・プラッツ駅のパヴィリオン
1905年、ウィーン分離派の内部の対立から、グスタフ・クリムト、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ、ヨーゼフ・ホフマンらとともにウィーン分離派を脱退すると、1913年まで建築を続け、家具のデザインなども行いました。
出典:Live Auctioneers
▲ワーグナーがデザインしたチェア『721』は、彼の最も有名なプロジェクトであるオーストリア郵便貯金銀行(1904-1906)のために設計されたもの。いくつかのバリエーションも制作された。
ヨーゼフ・ホフマン
出典:Google Sites
▲ウィーン分離派の中心メンバーとして活躍したヨーゼフ・ホフマンだが、1905年に脱退。
ヨーゼフ・ホフマン(1870年 – 1956年)は、オーストリアの建築家、デザイナーでウィーン分離派の中心メンバーの一人として活躍しました。
チェコに生まれたホフマンは国立工芸学校で建築を学び、卒業後はドイツの軍事施設建設局に勤め、その後ウィーン美術アカデミーでオットー・ワーグナーに建築を学びます。
1897年にヨゼフ・マリア・オルブリッヒとともにウィーン分離派に参加し、中心メンバーの一人として活躍しながらも、1899年からは母校である『ウィーン美術アカデミー』でオットー・ワーグナーとともに教鞭を執り、1903年には自身の建築事務所である『ウィーン工房』を設立しました。
1905年にウィーン分離派を脱退した後はウィーン工房で建築活動を続け、1911年には世界遺産となる『ストックレー邸』を完成させます。
出典:UNESCO world heritage centre
▲世界遺産に登録されたヨーゼフ・ホフマンの『ストックレー邸』。ベルギーの金融業者アドルフ・ストックレーの私邸として、1911年に完成。
出典:REGNO CURVATO
▲ストックレー邸のインテリアや絵画はグスタフ・クリムトが手掛けた。直線的なデザインはアール・デコの到来を感じさせるものだった。
▼アール・デコって何だろう?って方はこちら▼
出典:Rita Bucheit
▲ホフマンは家具デザインも手がけた。ブナ材に塗装をかけた幾何学的なデザインのチェア 『Cafe Fledermaus Chair』(1907)
ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ
▲オットー・ワーグナーに建築を学んだオーストリアの建築家『ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ』
ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ(1867年 - 1908年)はオーストリアの建築家で、ウィーン分離派の中心メンバーの一人として活躍した人物です。
オルブリッヒは1867年にチェコで生まれ、ウィーン美術アカデミーでオットー・ワーグナーに建築を学ぶと、在学中に様々な賞を受賞して建築家としての才能の片鱗を示しました。
1893年、卒業したオルブリッヒはワーグナーのもとで働き始め、1897年にはヨーゼフ・ホフマンとともにウィーン分離派に参加します。
オルブリッヒは、1897年にウィーン分離派の活動の中心となった『分離派会館(セセッション館)』を設計したことで有名です。
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▲1898年に完成したウィーン分離派の展示施設『分離派会館(セセッション館)』
出典:Pinterest
▲分離派会館の正面エントランス 。白亜の直線基調の建築に、金色の植物の装飾と人面の彫刻が施されている。正面上部の月桂樹のドームは、その見た目から「黄金のキャベツ」と呼ばれる。
オルブリッヒは40歳という若さでこの世を去るのですが、最後の仕事はドイツ某所でおこなわれた、ちょっとヘンテコな建築をたくさん作るというプロジェクトでした・・・。
▼オルブリッヒ最後のプロジェクトはこちらの記事にて▼
シカゴ派とは?
▲シカゴ派のダニエル・バーナムによって設計された『フラットアイアンビルディング』(1902年)は、ニューヨーク州マンハッタンにおいて現存している最も古いビル。
アーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーボーは、アート志向を唱える運動であったのに対して、機械生産を前提とする大量生産で合理的な造形を追求し、デザインよりも機能性を重要視した『機能主義』の傾向も、建築・家具デザインの主流として発展しました。
このような機能主義を唱えた建築家の一派を『シカゴ派』と呼びます。
シカゴ派は1880年代から1890年代にアメリカのシカゴから生じた一派で、その背景としては1871年に起こった「シカゴの大火」があります。
シカゴの大火とは1871年にシカゴで発生した大火災で、2日間にわたって市街地のほとんどを焼き尽くして街は焼け野原となりました。
▲ホテル、銀行、新聞社などのビジネス街が一掃され、10万人(市の人口の3分の1)が自宅を失った
大火災前のシカゴはめざましい発展を遂げている最中だったので被害は甚大でしたが、シカゴの産業基盤が鉄鋼業ということもあり、復興による再開発で次から次へと鉄骨造による高層ビルが建てられて、あっという間にシカゴは活気を取り戻しました。
出典:history
▲1871年に発生した大火災により、焼け野原となったシカゴ。復興するにあたり木造での建築は禁止され、レンガ造または石造で建てることが義務づけられた。
また、高層ビルが普及するためには鉄骨造と安全性の高いエレベーターが不可欠でした。
1853年のニューヨーク万国博覧会にて、落下防止ブレーキを取り付けた蒸気エレベーターが発表されました。開発したニューヨークの「OTIS社」は、来場客の目の前で吊り上げたエレベーターの綱を切ってみせ、その安全性をアピールしました。
▲エレベーターメーカー「OTIS社」の落下防止ブレーキのデモンストレーションのイラスト(1854年)
このような高層建築はこれまでの宮殿や教会といった建築にとってかわり、20世紀の建築の中心となりました。
そしてその先駆者が「シカゴ派」という建築家達であり、その中心的人物となったのがルイス・サリヴァンです。
ルイス・サリヴァン
出典:Britannica
▲ルイス・サリヴァンはアメリカの建築家。フランク・ロイド・ライト、ヘンリー・ホブソン・リチャードソンとともに「アメリカ建築の三大巨匠」とも称される。
ルイス・サリヴァン(1856年 – 1924年)はシカゴ派を代表する建築家で、
「Form ever follows function.(形式は常に機能に従う。)」
というなんだか謎めいた言葉を残し、後にシカゴ派をはじめした合理的モダニストたちの共通の合言葉になりました。
この合言葉についてはいろんな解釈が生まれていますが、簡単にいうと
「例えばデスクチェアはデザインであんな形になってるんじゃねえ、座り心地という機能を追い求めたらあんな形になったんだ。アメリカ軍の戦闘機だって見てみろ、あれはスピードという機能を追求したらあんな形になったんだ。デザインありきじゃねえぞ。 」
とまあ、難しいことは考えずこんな感じなんだとだけ覚えておいてください。
1856年、サリヴァンはマサチューセッツ州ボストンで生まれ、わずか16歳でマサチューセッツ工科大学に入学します。
しかし1年後にはフィラデルフィアに移り、建築家フランク・ファーネスの事務所に入ったかと思うと不景気の影響もありすぐに退所して、シカゴに移ると今度は建築家ウィリアム・ル・バロン・ジェニーの事務所に入りました。
当時のシカゴは1871年のシカゴ大火からの復興による空前の建設ブームの中にあったので、雇ってくれる建築事務所はたくさんあったようです。
ジェニーの事務所を退所後、念願だったパリの美術学校の名門『エコール・デ・ボザール』で1年間建築を学びます。
この時期に、ルネッサンス期の天才建築家ミケランジェロらの影響を受けました。
▲350年間以上にわたる歴史のある『エコール・デ・ボザール』は建築、絵画、彫刻の分野で多くの芸術家を輩出してきた。ボザールでの教育は伝統的、古典主義的な作品が理想とされていて、これらの理想化された様式を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムだった。
▼ルネサンスの三大巨匠ミケランジェロはこちらから▼
『エコール・デ・ボザール』を卒業して再びシカゴに戻ってきたとき、サリヴァンはまだ18歳でした。
シカゴに帰ってきたサリヴァンは、ジョセフ・S・ジョンストン&ジョン・エデルマン事務所で製図係として働いた後、23歳になる頃に建築家のダンクマール・アドラーに雇われて働きます。
サリヴァンの才能を見抜いたダンクマール・アドラーは、サリヴァンを雇ったわずか1年後に、共同で『アドラー=サリヴァン建築設計事務所』を立ち上げました。
▲破竹の勢いでビルの建築を請け負い大成功を収めた若かりし頃のダンクマール・アドラー(左)とルイス・サリヴァン(右)
1889年にはシカゴの中心街にある代表作のひとつ『オーディトリアム・ビル』の最上階に事務所を構えた2人は大成功を収め、サリヴァンは33歳にしてアメリカンドリームを掴みました。
出典:WTTW
▲サリヴァンの初期の代表作『オーディトリアム・ビル』(1889年)の最上階にアドラー=サリヴァン建築設計事務所があった。この事務所では、14年間で100棟以上ものビルを設計した。
当時のサリヴァンの事務所には、後に偉大な建築家となる若かりし頃のフランク・ロイド・ライトが所属していました。
ライトはサリヴァンのことを「Lieber Meister (愛する師匠)」と呼んで尊敬していましたが、サリヴァンに内緒で副業として住宅設計のアルバイトをしていたことがバレてしまい、サリヴァンに咎められたライトは逃げるようにしてこの事務所を退職したというエピソードがあります・・・^^;
▼サリヴァンの事務所から逃げ出したライトはこちら▼
アドラーとサリヴァンの事務所は、まず劇場建築の設計で名声を得ました。
この時期の代表作はサリヴァンの事務所が入っている『オーディトリアム・ビル』(1889)で、ビル内には4200席の劇場があるだけでなく、ホテルやオフィスからなる大規模な複合商業施設でした。
▲オーディトリアムビル内にある『オーディトリアムシアター』では、今日もいくつものイベントで賑わっている。
▲シカゴにある『カーソン・ピリー・スコット百貨店』(1899年)は2007年まで営業するが、閉鎖に伴って『サリヴァン・センター』と改称された。サリヴァンのビル建築で多く用いられた長方形の窓は「シカゴ窓」と呼ばれ、多くの採光を得るため用いられた。
その後も多くのビル建築に携わったサリヴァンは、1924年にシカゴにあるホテルの一室で息を引き取りました。
サリヴァンはかつての弟子、偉大な建築家となったフランク・ロイド・ライトの資金援助によって葬式が出され、シカゴにある墓地に葬られています。
ナンタルカのまとめ
■ゼツェッションとは
(1)ゼツェッションは、19世紀末にドイツのミュンヘン・ベルリン、オーストリアのウィーンなどで流行した芸術や建築の革新運動のことで、(①)とも呼ばれた。過去の芸術様式から分離して、生活や機能と結びついた今までに無い新しい造形芸術の創造を目指した。分離派の提唱者は、画家の(②)で、理論的主柱となったのは「実用主義」訴えた(③)である。
(2)ゼツェッションの作家としては、1911年にベルギーで完成した世界遺産「(①)」を手掛けた(②)や、1897年に設計されたウィーン分離派の活動の中心となった「(③)」で有名な(④)が代表的である。
■シカゴ派とは
アーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーボーは、アート志向を唱える運動であったのに対して、機械生産を前提とする大量生産で合理的な造形を追求し、デザインよりも機能性を重要視した『①』の傾向も、建築・家具デザインの主流として発展した。このような建築家の一派を『②』と呼び、代表的な建築家にオーディトリアムビルを手掛けた(③)がいる。
お疲れ様でした!
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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