こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「フランク・ロイド・ライトの建築、照明についてもっと知りたい。」
- 「ホラー映画は大好きだ。」
という方々に向けて
近代建築の三(または四)大巨匠のひとり、フランク・ロイド・ライトの人生について分かりやすく画像でご紹介していきます。
フランク・ロイド・ライトとは?
出典:Frank Lloyd Wright Foundation
フランク・ロイド・ライトはアメリカの建築家で、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠(※)」と呼ばれる建築界の偉大な巨匠です。
(※ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなすこともあります)
▼ル・コルビュジエって誰なん?て方はこちらから▼
▼ミース・ファン・デル・ローエって誰なん?て方はこちらから▼
ライトはアメリカのウィスコンシン州に牧師の父の第1子として生まれました。
ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学した後シカゴへ移り住み、アメリカの偉大な建築家ルイス・サリヴァンの建築事務所で働き始めます。
出典:Artsology
▲「摩天楼の父」と呼ばれたルイス・サリヴァン(写真左)は、近代アメリカにおいていくつもの高層鉄骨建築を手掛けた。
▼ライトの師匠、ルイス・サリヴァンはこちらから▼
ルイス・サリヴァンにその才能を見込まれたライトは、21歳になる頃には事務所における多くの住宅の設計を任せられました。
ライト自身もサリヴァンを「Lieber Meister (愛する師匠)」と呼んで尊敬していたのですが・・・
サリヴァンの事務所に勤めて7年ほど過ぎた1893年頃、ライトがこっそりと副業として個人的に設計業務を請け負っていた事が師匠であるサリヴァンにバレてしまったのです^^;
ライトはサリヴァンに咎められると、事務所に残る事ができなくなったので辞職し、独立して個人事務所を構えることとなります。
ライトは独立した1893年から1910年までの17年間に、計画案も含め200件近い建築の設計を行い、水平線を強調した『プレイリースタイル(草原様式:Prairie Style)』と呼ばれる建築様式の作品で知られるようになりました。
プレイリースタイルには、
■(屋根裏や地下室を廃することで)「建物の高さを抑える」
■「水平線を強調した佇まい」
■「部屋同士を完全に区切ることなく一つの空間として緩やかにつなぐ」
という特徴があります。
建物の高さを抑えて水平のラインを強調することで、水平線・地平線を眺めたときの視覚的な広がりとともに、大地にどっしりと根を下ろしたよう安心感・安定感を住む人や通りゆく人に与えてくれるというものでした。
▲高さを抑えて水平線を強調した佇まいの外観『Meyer May House』(アメリカミシガン州 1909年)
次に紹介する『ロビー邸』は、プレイリースタイルの代表的作品です。
ロビー邸
出典:FRANK LLOYD WRIGHT FOUNDATION
ロビー邸は1906年、フランク・ロイド・ライトが39歳の時にシカゴに建築したフレデリック・C・ロビー夫妻の為の邸宅です。
垂直ではなく、水平を強調したデザインは、ライトのプレイリースタイルの代表作で世界遺産に登録されています。
▲屋根を低く抑えて、大きく張り出した特徴的な軒。外壁には横長レンガを使用するなど、とにかく水平ラインを強調した外観となっている。
▲居間から食堂方向を見る。壁や柱でそれぞれの空間を分けてはいるが、天井を連続させ繋がりを持たせている。また、天井には水平のラインを強調させる為の装飾が見られる。
▲1階のアール・デコの装飾が特徴的な両開き窓。無駄な装飾を嫌ったライトの窓にはカーテンもカーテンレールも無い。
▼アール・デコって何だっけ?というかたはこちら▼
ロビーチェア
出典:matisse
ロビーチェアは、ロビー邸に合わせてデザインされたダイニングチェアです。
特徴的なハイバックの格子状デザインは、フランク・ロイド・ライトが食事の間テーブルに引き寄せた全ての椅子が、その部屋の残りの空間に対する間仕切りとしての機能を持つ様にと考えられました。
▲ロビー邸の食堂に置かれたロビーチェア。高さのある背もたれが背後との空間の間仕切りとなる。
不倫事件と低迷期
出典:Zocalo
▲フランク・ロイド・ライトの不倫スキャンダルを報じる当時の新聞
フランク・ロイド・ライトは、ヨーロッパの建築様式の模倣である「古典様式」が全盛であった当時のアメリカにおいて、1906年にロビー邸などの傑作で「プレイリースタイル」という新しい建築様式を打ち出し、建築家としての名声を高めました。
しかし、この後1936年の『カウフマン邸(落水荘)』を発表するまでの約30年間、ライトは長い低迷期を迎えることとなります・・・。
そのきっかけになった出来事が、1903年に竣工したチェニー邸の依頼主の妻「チェニー夫人」との不倫事件でした。
出典:Flicker
▲電機技師『エドウィン・チェニー』の邸宅として設計されたチェニー邸(1903年)
ライトは「自由恋愛」を実践する恋多き男で、
「男には少なくとも、子供を産んでくれる母親の役割を演じる女性と、パートナーとしてのインテリジェンスを持ち合わせた女性の二人が必要だ。」
などと以前から公言していました。
チェニー夫人と恋に落ちてしまったライトは、妻のキャサリンに離婚を切り出したが、6人もの子供たちを抱えていたキャサリンは、ライトからの離婚の申し出に応じません。
この一連の不倫劇は大スキャンダルとなり、シカゴの新聞や教会の牧師(ライトの父親は牧師!)たちは、ライトたちを激しく非難し、それまで住んでいたシカゴのオークパークの町に戻ることはもちろん、シカゴでいっしょに暮らすことも不可能になってしまいました。(当たり前ですよね・・・^^;)
1909年、42歳だったライトはついに事務所を閉じ、妻と6人の子供たちをも捨てて、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行します。
1911年にアメリカに帰国するまでの2年間は、設計活動に従事することはありませんでした。
(この期間、滞在していたベルリンで、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなるヴァスムート社出版の『フランク・ロイド・ライト作品集』の編集及び監修に関わっていました。)
出典:PR Newswire
▲ベルギーで1910年に編纂された『フランク・ロイド・ライト作品集』。図面はロビー邸のもの。
・・・そんなライトは、母とその祖父母が代々住んでいた地、アメリカのウィスコンシン州で新たなる建築計画を進める為、故郷へいよいよ帰国することになります。
帰国、そしてさらなる事件
1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と設計依頼の激減という危機的状況でした。
妻のキャサリンが依然として離婚に応じていない状況の中、ライトはチェニー夫人との新居を建築するべく、ライトの母から相続したウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地に別荘兼工房であるタリアセンの設計を始めます。
タリアセン
フランク・ロイド・ライトの母親や祖父母が代々暮らしてきた地、アメリカのウィスコンシン州南部の町スプリンググリーンにて1911年に設計し、1914年に竣工したタリアセン。
タリアセンは、高さを抑え、水平の線を強調したプレイリースタイルの代表作で、別荘兼工房として使用され、ライトのその後の名作はこの場所で設計されたと言われています。
出典:OPEN CULTURE
▲寄棟屋根の緩やかな傾斜が現れた天井と、大きく開け放たれた窓が印象的なリビングルーム。
出典:CYNDIMBLOG
▲ウィスコンシンで採れた石材と砂で壁面を仕上げ、間接照明で光を当てることにより温かくやわらかな雰囲気を演出しているリビングルーム。(上の写真と敷かれているラグが異なるが同じ部屋)
タリアセンは、ウィスコンシンの自然の景観に溶け込むように設計されています。
緩やかな屋根のラインはこの地域の丘や谷を反映し、石材はこの地域で採掘される柔らかい黄色の石灰岩、壁の漆喰には近くのウィスコンシン川の砂が使用されています。
出典:FRANK LLOYD WRIGHT FOUNDATION
▲ウィスコンシンの大自然の中にあるタリアセン
出展:DAMI’S ARCHITECTURE JOURNAL
▲アースカラーでまとめられたナチュラルなインテリア
出典:MADISON.COM
▲暖炉のある空間はフランク・ロイド・ライトが招いた客人たちと団欒する場所だった
タリアセンはプレイリースタイルを体現する建築として有名ですが、同時にデザインされた照明『タリアセン1』、『タリアセン2』も照明の傑作として有名です。
タリアセン1
タリアセン1は、ライトの建築造形の特徴のひとつである方形(ほうけい:四角形のこと)屋根がデザインに取り入れられた、まるでタリアセン内部に小さな建物があるかのように見えるデスクライトです。
素材に選ばれたチェリー材やウォルナット材は、アメリカンクラフトデザイン独特の味わいを与え、自然との調和を生み出しています。
現在は日本の照明メーカー『yamagiwa(ヤマギワ)』がライセンスを取得して販売しています。
タリアセン2
▲タリアセンの施設のペンダント照明がデザインモチーフとなった『タリアセン2』
タリアセンの敷地内に建設した『ヒルサイド・ホーム・スクール』という体育館を劇場に改修する際、フランク・ロイド・ライトがデザインしたペンダント照明をデザインし直してフロアスタンドにしたものが「タリアセン2」です。
なんとも不思議なデザインのフロア照明ですが、電球を覆ういくつもの箱型のブロックが電球の光をまず上下方向に誘導し、誘導された電球の光はさらに遮光板に反射され、間接光の心地よい明るさが得られるという仕組みです。
出典:AUCFREE
▲遮光板は取り外しができて、箱型のブロックの上下どちら方向にも取り付けが可能。電球の下側に遮光板を取り付けた場合、アッパーライトとして電球の光は上方向へ放射される。
フランク・ロイド・ライトはタリアセン2を、実際にタリアセンに置いて愛用していました。
タリアシン1と同様に、日本の照明メーカー『yamagiwa(ヤマギワ)』から販売されています。
DEATH IN A PRAIRIE HOUSE
出典:Amazon
タリアセンがようやく完成してから数ヶ月、少しずつですが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲います。
その日は、1914年8月15日の土曜日。
ライトと同棲していた愛人のチェニー夫人(45)と、夏休みに遊びに来ていた彼女と夫との間の息子ジョン(12)、娘マーサ(9)がタリアセンのテラスでランチの用意ができるのを待っていました。
タリアセンのダイニングルームではライトの弟子たちも、やはり食事の支度ができるのを待っています。
そして、住み込みの召使いとして働いていた執事兼料理人ジュリアン・カールトンがテラスに食事を運んできました。
・・・その時!!
驚くべきことにジュリアンは、チェニー夫人と子供たちにスープを給仕したかと思うと、いきなり背後から斧でチェニー夫人の頭を叩き割ったのです。
一瞬にしてあたりに鮮血が飛び散り、子供たちの叫び声が響き渡ります。
ジュリアンの次のターゲットは長男のジョン。
同じように斧を振り下ろし、抵抗もできずに一打でジョンは息絶えます。
逃げ惑う長女マーサを追いかけ、華奢な少女をも容赦なく斧で切りつけました。
テラスでの異様な騒ぎに気付いた設計士のエミール(30)、大工のビリー(35)とビリーの息子のアーネスト(13)、庭師のディヴィッド(38)の4人は急いで外に出ようとしましたが、なぜかダイニングルームのドアは外側からロックされていて脱出できません。
床に敷いてあったダイニングルームの絨毯にはガソリンが湿らせてあり、ダイニングルームまでやってきたジュリアンが火を点けた瞬間、炎が舞い上がりタリアセンは炎に包まれました。
パニックとなり、炎の中を逃げ惑うライトの弟子たち。
窓ガラスを割って逃げようとした弟子たちですが、ジュリアンは外で斧を持って待ち構えていたのです。
彼らに向かってジュリアンは次々に斧を放ちます。
燃え盛るタリアセンを後にして、ジュリアンはボイラー室に隠れて塩酸を飲んで自殺を図りましたが、喉が焼けただれたものの、死ぬことはできずに一命を取りとめました。
しかし収監されたジュリアンには裁判は行われず、犯行動機も闇に消えることとなります。
喉が焼けただれたジュリアンの食道が詰まり、水を飲むのが精いっぱいで事件後2か月足らずの10月7日に収監されていた刑務所で餓死により死亡したからです。
その後の現場検証により、チェニー夫人を含む家族3人と使用人4人、合計7人の死亡が確認されました。
出典:NY Daily news
▲当時の凄惨な事件の様子を報じた新聞記事
こうしてフランク・ロイド・ライトと不倫相手との「愛の隠れ家」タリアセンは完成してから数ヶ月で焼け落ちてしまったのです。
ライト自身はシカゴで仕事をしていた為、無事でした。
出典:DAILY NEWS
▲炎上し焼け落ちたタリアセン(1914年)
この狂気の殺戮を行ったジュリアン・カールトンという男は、妻のガートルード・カールトンと夫婦で住み込みの召使いとして、事件の年の4月からタリアセンで働いていたアフリカ系アメリカ人です。
カールトン夫妻を知り合いから紹介してもらったライトは、彼らの素性を特に調べることなく採用し、料理人兼執事としてライト家を切り盛りさせていたのです。
そして事件の起きた8月15日、この日はカールトン夫妻の最終勤務日で、夫婦は午後の電車でシカゴに帰る予定でした。
犯行の動機としては、ジュリアンとライトの弟子エミールとの間に確執があった、とか。
もともとカールトン夫妻は離職を希望しておらず、チェニー夫人から解雇通告され、逆恨みした……など、さまざまな憶測が飛び交いました。
ライトはこの事件により大きな精神的痛手を受け、再びスキャンダルの渦中の人となります。
そのような失意の中で次の依頼が来たのは、日本の『帝国ホテル』設計の仕事でした。
帝国ホテル(ライト館)
帝国ホテルとは1923年(大正12年)に東京都千代田区日比谷に建てられたホテルで、設計者の名前をとって「ライト館」という通称でも有名です。
1914年(大正3年)頃、当時の帝国ホテル総支配人で知り合いでもあった林愛作(はやしあいさく)から「帝国ホテル新館の設計をお願いしたい」と相談を持ちかけられたフランク・ロイド・ライト。
何度か打ち合わせを重ね、1916年(大正5年)に当時の建築予算150万円で契約を結び、1919年(大正8年)9月に着工することとなりました。
▲フランク・ロイド・ライト(写真中央)と一番弟子の遠藤新(えんどうあらた)(写真左)、工学博士の伊藤文四郎(写真右)
ライトは使用する石材から家具などの調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制で建築に臨みます。
また、帝国ホテル新館はホテルとしては世界で初めて全館にスチーム式暖房を採用し、鉄筋コンクリート造で耐震性、防火性にも配慮するなどの最新鋭の設備を誇っていました。
こうした完璧主義な設備と設計が大幅な予算オーバーを引き起こすことになり、当初予算150万円が6倍の900万円にまで膨れ上がったのです。
さらに最悪なことは続き、1922年(大正11年)に隣接する初代帝国ホテルが失火から全焼すると、帝国ホテル新館の早期完成がいよいよ経営上の急務となり、設計の変更を繰り返すフランク・ロイド・ライトと経営陣との衝突は避けられなくなりました。
こうして、フランク・ロイド・ライトを設計者として推薦した林愛作は責任を取って総支配人を辞任し、ライトも情熱を注いで設計した帝国ホテルの完成を見ることなくアメリカへ帰国、一番弟子の遠藤新(えんどうあらた)が残りの仕事を引き継ぎ、1923年に帝国ホテルをなんとか完成させました。
出典:LIXIL
▲日比谷にあったころの帝国ホテルのロビー・ホール。内装には彫刻を施した大谷石(おおやいし)と煉瓦を組み合せた陰影に富む造形となっている。3層吹抜けの空間の左右には、大谷石と煉瓦、透かし入りのテラコッタを用い、内部に照明を組み込んだ「光の籠柱(かごばしら)」が立ち上がる。
出典:花椿
▲左右に見えるのが「光の籠柱」で、帝国ホテルは内外装ともに大谷石と煉瓦、テラコッタが多用され、それぞれに施された多彩な幾何学模様が独特な世界観を醸し出している。これらの幾何学模様はもちろん、壁画や彫刻、家具、敷物、照明器具や食器のデザインに至るまで、すべてライト自身が手がけている。
▼帝国ホテルはこちらでも詳しく紹介しています▼
竣工後、1923年9月1日に落成記念披露宴が開かれることになりましたが、ここでまたお決まりのように大事件が発生。
未曾有の大災害、関東大震災が東京を襲い、披露宴の準備に大忙しだった帝国ホテルは大混乱となりました。
しかし周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、帝国ホテルは小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたのでした。
カウフマン邸(落水荘)
出典:Lady bird
▲カンチレバー(片持ち梁)構造が用いられたライトの代表的傑作
数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトでしたが、1936年になるとカウフマン邸(落水荘)という代表作を世に発表し、70歳近くになって再び歴史の表舞台に返り咲くことになります。
カウフマン邸は、ペンシルベニア州のピッツバーグから南東に80キロメートルほどの場所にあり、ピッツバーグの百貨店経営者、エドガー・カウフマン氏の邸宅として作られました。
カンチレバー(片持ち梁)構造が効果的に用いられた建築で、滝の流れる方向へ建築が迫り出して、浮いた状態となっています。
出典:dazeen
▲カウフマン邸のエントランス。滝とは反対方向の小道の頭上にまで建物が続いている。
出典:CADBlocks
▲写真だとわかりにくいので、CADにて。丘のうえの建物と往来が可能。
出典:dazeen
▲カウフマン邸のリビング。タリアセンと同様、石や土を使用し、自然調和を意識したインテリアに。
喜劇王チャーリー・チャップリンや、アインシュタインもこのカウフマン邸に宿泊しました。
また、ある雑誌社の企画投票で『アメリカ建国200年のなかの人気建築ランキング』で1位に選ばれています。
終わりに
出典:Architizer
1945年の戦争の終結とともに、多くの設計士の見習いたちがライトの元に戻ってきて、再び仕事がスタジオに流れ込みます。
その後、ライトは92歳でその生涯を閉じるまで、計1,100件にも及ぶ設計を手掛け、そのうち400件を実現させました。
公共建築、高層建築、美術館、遊技施設、宗教建築、高級住宅から一般住宅にいたる多岐にわたる建築だけではなく、家具や照明、テキスタイル、アートガラス、テーブルウェアもデザインし、日本においても帝国ホテル、自由学園明日館などの作品で、我が国の近代建築の発展、西洋建築の普及に大いに貢献した建築家として知られています。
2019年には、アメリカの建築分野で初めて、ロビー邸、タリアセン、カウフマン邸を含む8つの作品群が世界遺産に登録されました。
波乱万丈なライトの人生は苦難も多かったですが、彼ほどに近代建築発展に寄与した人物はいないでしょう。
ナンタルカのまとめ
■フランク・ロイド・ライト
(1)1922年に日本で(①)を設計したフランク・ロイド・ライトは、『建物の高さを抑える』、『水平線を強調した佇まい』、『部屋同士を完全に区切ることなく一つの空間として緩やかにつなぐ』という(②)を確立し、代表作である(③)をシカゴに建設した。
(2)スキャンダルも乗り越えて、別荘兼工房で世界遺産にも登録された(①)を建築すると照明のデザインも行い、電球を覆ういくつもの箱型のブロックが電球の光を上下方向に誘導するフロアライト(②)は名作として名高い。晩期にはアメリカのピッツバーグに建設された、カンチレバー構造が効果的に用いられた建築(③)はライトの最高傑作である。
お疲れ様でした!
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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