こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「ミッドセンチュリーの有名なデザイナーについてさらに学びたい。」
- 「ミッドセンチュリーの建築についても知りたい。」
という方々に向けて
絶対に覚えておきたいミッドセンチュリーのアメリカン・デザイナーたちを分かりやすく画像で解説します。
ミッドセンチュリーのアメリカン・デザイナーたち
▼ミッドセンチュリー・中編見てない方はこちら!▼
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④ジョージ・ナカシマ
ジョージ・ナカシマ(1905 – 1990)は、正式名はジョージ・カツトシ・ナカシマで日本名は中島 勝寿、アメリカの建築家であり、家具デザイナーです。
アメリカのシアトルの雄大な自然の中で育ったナカシマは、18歳の時にワシントン大学で林学(森林、林業に関する学問分野)について2年間学んだ後、24歳の時にハーバード大学大学院、その後マサチューセッツ工科大学で建築について学びました。
28歳の時に世界一周の旅に出て最初に渡ったパリで、ル・コルビュジエの作品である『スイス学生会館』が建設中で、ナカシマは新しい建築表現を見極めるために毎週のようにコルビジエの建設現場を見学しました。
出典:DIVISARE
▲ジョージ・ナカシマの通ったパリにある『スイス学生会館』。ル・コルビュジエの主張した『新しい建築の5つの要点(近代建築の5原則)』が体現されている。
▼ル・コルビュジエの近代建築の5原則を再確認!▼
翌年の1934年、ナカシマはパリを発ち日本にやってきて、帝国ホテル本館の建設の際にフランク・ロイド・ライトと来日したアントニン・レイモンド(レーモンド)の建築事務所に入所します。
当時の同僚には前川國男(まえかわくにお)と吉村順三(よしむらじゅんぞう)がいました。
▼アントニン・レイモンド、前川國男、吉村順三はこちらの記事で▼
レイモンドの事務所では、『軽井沢聖パウロカトリック教会』(長野県軽井沢町)の設計と家具を担当し、大工の手仕事による素朴でロマンティシズム溢れる作品を残しました。
▲鉄筋コンクリートの外壁と丸太の柱が使用されたポーチを持つ『軽井沢聖パウロカトリック教会』(1935年)
▲この教会のために作られた椅子は丸太を利用したシンプルなもので、後に誕生するナカシマの傑作家具を予見するものだった
1941年、ナカシマが36歳の時に、多くの建築家が次々と新しい建築を試みていた西海岸の建築事情を知るため、カルフォルニアまで視察旅行にでかけました。
しかしそこで見た西海岸の建築は、ナカシマを失望させるもので、この体験をきっかけに建築家という職業に批判的になり、木工家具作家への道を目指すことになります。
そのときのことを、ナカシマは次のように回想しています。
フランク・ロイド・ライトの仕事が、私を特に失望させた。
確かに、使われた形態は興味深く、世界の建築界に対して刺激的効果はあると思ったが、しかし、建築物の構造や骨組みは、どうにも不適当で、また労働者の技能も偽者であると思った。
私は、私が初めから終わりまですべてを統合できる、何か新しい職業を探し出さねばならないと思った。
そして私は、私の生涯の仕事として、木工作業を選ぶ決心をした。
1942年、太平洋戦争開戦により日系人強制収容のため家族とともに抑留されてしまいますが、ここで日系二世の熟練した大工と知り合い、基本的な木工技術の知識を得ることができました。
1943年、アントニン・レイモンドがナカシマ一家の身元引受人となってくれたことからアメリカ北東部のペンシルバニア州へと移住することができ、そこの農場で働きながら木工家具作家としての活動を本格的に開始します。
また、この土地はかつてシェーカー(シェイカー)教徒たちが開拓した場所であり、ナカシマはシェーカーの生き方や家具・工芸に大きな影響を受けました。
▼ジョージ・ナカシマが影響を受けたシェーカー様式▼
ナカシマチェア
出典:hive
そして1946年、ナカシマ41歳の時にニューヨークの家具メーカー『Knoll(ノル)』から量産向けの椅子『ナカシマチェア』を発表しました。
「ナカシマストレートチェア」とも呼ばれ、伝統的なウィンザーチェアに対するモダニズムによるアプローチが行われています。
ナカシマチェアは、自然で光沢のない仕上げと木目模様が特徴でアメリカンウォールナットとヒッコリー(ウォルナットと同じクルミ科の木材)で製作されています。
▼ウィンザーチェアはこちらの記事でも紹介しています▼
ラウンジアームチェア
出典:桜製作所
1964年、61歳になっていたナカシマは、インドへ向かう途中で日本へ立ち寄り、彫刻家・流政之(ながれまさゆき)の招きで香川県高松市の工房を訪ねます。
アメリカで木工作家としての道を歩みだしたナカシマが戦後はじめて日本を訪れるのは実に24年ぶりで、当時アメリカではすでに名声を得ていましたが日本ではまだ『新建築』などの雑誌で何度か紹介されていただけでした。
この時にナカシマは、彫刻家・流を中心に結成された高松の職人たちのグループ「讃岐民具連(さぬきみんぐれん)」の活動に賛同して、メンバーに加わります。
讃岐民具連とは、職人の技を生かしたプロダクトを高松から発信しようとする運動で、木工、石工、瓦、漆などの職人が参加していました。
これを機に、高松の家具メーカー『桜製作所(さくらせいさくしょ)』でナカシマ・チェアの製作がはじまり、1968年には日本での初めての本格的な展示会でラウンジアームチェアなどの家具を発表し、ナカシマは木工作家として日本でも注目されるようになります。
その後は日本での展覧会も回を重ね、85歳で亡くなるまで精力的に活動しました。
⑤イサム・ノグチ
イサム・ノグチ(1904 – 1988)は、ロサンゼルス生まれの日系アメリカ人で彫刻家、造園家、インテリアデザイナーです。
ノグチは3歳の頃に来日して神奈川県の茅ヶ崎市や横浜市で幼少を過ごし、14歳で母の意思で単身アメリカへ帰国させられると、インディアナ州の母親の知人宅に預けられ、寄宿しながら高校へ通いました。
高校を卒業すると19歳でニューヨークへ移り、コロンビア大学医学部に入学しながらも夜間には美術学校の夜間彫刻クラスに通い、この時に初の個展を開催しています。
ノグチは23歳の時に奨学金を得てパリに留学すると、20世紀を代表する偉大な彫刻家『コンスタンティン・ブランクーシ』に師事してアシスタントを務めますが、1年後に奨学金の延長が認められなかった為ニューヨークに戻り、自身のアトリエを構えました。
出典:美術と歴史の旅にでかける
▲コンスタンティン・ブランクーシは、ルーマニア出身の20世紀を代表する独創的な彫刻家。抽象彫刻界に決定的な影響を与え、ミニマル・アートの先駆的作品を残した。写真はパリにある『アトリエ・ブランクーシ』。
その後、ノグチは第二次世界大戦が始まるまで日本やアメリカで個展を開催するなど精力的に活動します。
第二次世界大戦が勃発すると在米日系人の強制収容が行われてアリゾナ州の日系人強制収容所に拘留されてしまいますが、芸術家仲間であるフランク・ロイド・ライトらの嘆願書により出所、その後はニューヨークにアトリエを構えました。
▼イサム・ノグチを救ったライトの人生はこちらから▼
ノグチ・テーブル
出典:MoMA
終戦後の1947年、ノグチはアメリカのデザイナーであり建築家の「ジョージ・ネルソン」の依頼で『ノグチ・テーブル』をデザインしました。
ノグチ・テーブルのデザインには、ノグチの現代彫刻作品に見られる生物を思わせるような有機的なイメージが反映されていて、彫刻のようなフォルムと日常的な機能性を見事に調和・融合させたこの作品は、ノグチの最も有名で代表的なデザインのひとつです。
発売当時から現在まで、アメリカの家具メーカー『Herman Miller(ハーマンミラー)』で製作されていますが、日本市場では販売権利を取得しているスイスの家具メーカー『Vitra(ヴィトラ)』で製作・販売されています。
出典:MoMA
▲1947年、発売当時のハーマンミラーのカタログには「使うための彫刻」というキャッチコピーが記載されていた。
AKARI(あかり)
出典:絵綴り
1950年、ノグチは46歳の時に再来日すると銀座三越で個展を開き、この時に日本では著名な建築家であるアントニン・レイモンド、丹下健三(たんげけんぞう)、谷口吉郎(たにぐちよしろう)らと知りあいました。
▼丹下健三って誰なん?てかたはこちらから▼
翌年の来日の際には、岐阜市長の依頼で岐阜提灯(ぎふちょうちん)をモチーフにした「 AKARI(あかり)」シリーズのデザインを開始します。
出典:BECOS
▲岐阜提灯とは、岐阜県岐阜市で作られている提灯のこと。300年以上の長い歴史を誇っており、1995年には技術力の高さが認められ、国の伝統工芸品に指定された。生産されている提灯のほとんどが、お盆の時期に使う先祖供養具、いわゆる盆提灯である。
日本の伝統産業である提灯産業は、戦後の復興とともに電灯が普及したため低迷の一途を辿り、当時の市長が提灯産業の活性化のためにノグチに協力を求めたのです。
ノグチは提灯工場(現・株式会社オゼキ)を見学すると、製作工程や材料について理解したその晩にさっそくデザインを起こし、10数種類ほどの試作をおこないました。
出典:Noguchi shop
▲イサム・ノグチと当時の株式会社オゼキの社長
その後も度々岐阜に向かい新作に取り組んだノグチの「AKARIシリーズ」のバリエーションは、200種類以上にものぼります。
AKARIシリーズは、竹のフレームに手漉(す)きの和紙を通して暖かな光を放ち、日本の伝統的な素材を使用してモダンデザインを家庭にもたらしました。
1970年代には大阪で行われた日本万国博覧会や東京最高裁判所の噴水の設計などを行い、1980年代には『イサム・ノグチガーデンミュージアム』をニューヨークに建設しました。
出典:イサム・ノグチ庭園美術館
▲『Billy Rose Sculpture Garden』(1965年)
生涯を芸術表現に捧げたイサム・ノグチは、家具やランプだけではなく、彫刻、庭園、家具、陶芸、建築および舞台美術など幅広い作品を残し、世界中でいまも変わらずたくさんの人々を魅了し続けています。
⑥フィリップ・ジョンソン
出典:Phaidon
フィリップ・ジョンソン(1906 – 2005)は、ミッドセンチュリー期に活躍したアメリカのモダニズムを代表する建築家です。
ジョンソンはハーバード大学で哲学を専攻し、在学中に弁護士の父から譲られた株式が高騰して巨万の富を手にすると、卒業後はヨーロッパを巡って古典建築、及び近代建築に触れました。
1932年、26歳の若さでニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代建築部長(キュレーター)となり、近代建築の紹介と評価の確立に大きな足跡を残します。
しかし、評論活動に飽き足らずに自ら建築家となることを決意したジョンソンは、再びハーバード大学に入学すると、大学院でヴァルター・グロピウス、マルセル・ブロイヤーという建築界の巨匠たちに建築学を学びました。
卒業後はアメリカ軍技術師団に志願入隊して、第二次世界大戦の終戦まで過ごしています。
▼フィリップ・ジョンソンが師事した巨匠はこちら▼
グラスハウス(ガラスの家)
出典:DIVISARE
フィリップ・ジョンソンの建築家としてのデビュー作は『グラスハウス(ガラスの家)』(1949年)とよばれるコネティカット州に建築した自邸で、ミース・ファン・デル・ローエの『ファンズワース邸』を思わせるような、プライペートも何も無いようなスケスケの建築でした。
▼ミース・ファン・デル・ローエとファンズワース邸もこちらの記事から▼
グラスハウスを見ると「こんなスケスケの家なんて住めないよ!」と思われるかもしれませんが、ジョンソンの父親の遺産で購入した東京ドーム約4個分という広大な敷地のほぼ中央に建てられている為、外からの視線に怯える必要はありません。
出典:DIVISARE
▲ジョンソンはガラスに囲まれた家について「私は最も高価な壁紙を持っている」と語っている。彼にとってのガラスは、ただの「緑色の壁紙」という感覚だった。
また、グラスハウスは鋼鉄などの産業資材を住宅に使用した初期の例で、ジョンソンはパートナーと共に、このガラスの家に58年間も住み続けました。
▲美術評論家のデービッド(デヴィッド)・ホイットニー(右)は、フィリップ・ジョンソン(左)のパートナーとして生涯連れ添った
室内に置かれている『バルセロナチェア』などの家具のほとんどは、ジョンソンがグラスハウスに引っ越してくる前のニューヨークのアパートから持ってきたものです。
ちなみにバルセロナチェアと同じデザインのデイベッド『バルセロナデイベッド』は、ミース・ファン・デル・ローエが愛弟子であるジョンソンのためにデザインしたもので、後にニューヨークの家具メーカー『Knoll(ノル)』より販売されました。
出典:DIVISARE
▲リビングに置かれた2脚のバルセロナチェアとバルセロナデイベッドは、ニューヨークのアパートで使っていたものをそのまま持ってきたもの。
出典:DIVISARE
▲左にあるカウチがジョンソンの為にミース・ファン・デル・ローエがデザインしたデイベッド『バルセロナデイベッド』(1930年)
AT&Tビル
出典:Archdaily
AT&Tビルはニューヨーク州マンハッタンに1978年に着工し、1984年に完成した超高層ビルです。
「AT&T」とはビル完成当時の所有者であるアメリカ企業の名称で、現在は『550 マディソン・アベニュー』という名称になっています。
1984年の完成当時、特徴的なビル最上部の装飾が議論の的となりました。
それはこのビルの最上部が、18世期の有名なイギリス人デザイナー『トーマス・チッペンデール』がデザインした家具に酷似していたからです。
出典:Incollect
▲18世期のチッペンデール様式の本棚。頂部の装飾は確かに・・・似ている。
▼トーマス・チッペンデール?となったらこちらから!▼
エントランスには約七階分もの高さを持つ壮大なアーチ状の装飾がデザインされています。
このように構造としても機能としても無意味な装飾をデザインすることは、合理的で機能主義的だったモダニズム建築には見られないものでした。
出典:dazeens
▲7階分もの高さがある壮大なアーチ状のエントランスはポスト・モダンを象徴するデザイン
フィリップ・ジョンソンはビルにデザイン性や装飾性を与えることで、味気のない機能主義や純粋に効率的な設計を求めたモダニズム建築に対して疑問を投げかけたのです。
このような1980年代を中心に流行した「合理的で機能主義的なモダニズム建築に対し、その反動として現れた装飾性、折衷性、過剰性などの回復を目指した建築のこと」を『ポスト・モダン建築』といいます。
当初は、ポスト・モダニズムという語で使われましたが、のちに『ポスト・モダン』という呼び方で定着しています。
▼ポストモダンについてはこちらの記事でご紹介▼
AT&Tビルが世間一般に与えた影響は大きく、世界全体のポストモダン建築運動を正当化するものと見なされています。
ナンタルカのまとめ
■ジョージ・ナカシマ
ジョージ・ナカシマは(①)の事務所で『軽井沢聖パウロカトリック教会』などの案件を担当し、建築家として大工の手仕事による素朴でロマンティシズム溢れる作品を残した。(②)の仕事のやり方に失望すると、木工家具作家に転向。モダンデザインに対して手工業的な手法の木製家具で人気を得て、シェーカー様式に影響を受けた(③)を『Knoll』から、高松の『桜製作所』からは(④)を発表した。
■イサム・ノグチ
イサム・ノグチはロサンゼルス生まれの日系アメリカ人で、20世紀を代表する偉大な彫刻家(①)に師事した。ジョージ・ネルソンの依頼でデザインした(②)や、岐阜提灯をアレンジした照明器具(③)シリーズの作者としても有名。
■フィリップ・ジョンソン
フィリップ・ジョンソンはアメリカの建築家で、自邸「(①)」で行った内部空間を完全に開放する試みで注目された。ニューヨーク州マンハッタンに建設した(②)のデザインは、1980年代を中心に流行した(③)の流れを作った。
お疲れ様でした。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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では、次回もお楽しみに。
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