こんにちは、しけたむです。
この記事では
- 「世界で活躍した日本人の家具デザイナーについてざっくり知りたい。」
- 「金田一少年の事件簿にも同姓同名のキャラクターが出てきますよね?」
という皆様に向けて、
世界で活躍した有名な日本のモダンデザイナー剣持勇について分かりやすく画像で解説します。
剣持勇(けんもちいさむ)
剣持勇の経歴
出典:Pen online
剣持 勇(けんもちいさむ)(1912年 – 1971年)とは日本を代表するインテリアデザイナーで、第二次世界大戦後に柳宗理(やなぎそうり)らと共にジャパニーズモダンと呼ばれるデザインの礎(いしずえ)を創ったと言われる人物です。
▼柳宗理は前回の記事にて▼
乳酸菌飲料として知らない人はいないであろう「ヤクルト」や「ジョア」の容器をデザインしたのが剣持勇というのは、あまり知られていません。
出典:Twitter
▲持ちやすい上に頑丈で、中に入れられる飲料が「65ml (ヤクルトの場合)」となるよう緻密に計算し、デザインされた容器。ヤクルトレディの皆さんも軽くなって喜んだらしい。
剣持勇は1912年に東京に生まれ、20歳で東京高等工芸学校木材工芸科(現・千葉大学工学部デザイン学科)を卒業し、卒業後は仙台にある『工芸指導所(こうげいしどうしょ)』に入り技師となりました。
出典:データ検索サイト
▲笑顔が眩しい剣持勇さん。東京高等工芸学校時代(右)と工芸指導所時代(左)
▼何度もくどいようですが『工芸指導所』はこちらから▼
工芸指導所では来日していたドイツの建築家「ブルーノ・タウト」に師事して、椅子に求められる機能性の研究を行ないました。
出典:データ検索サイト
▲左から2番目が剣持勇(要拡大)。中央でポケットに手を入れている外国人がブルーノ・タウト。
▼ブルーノ・タウトについてはこちらの記事でご紹介▼
1950年には、仕事の為に来日していたアメリカ人の彫刻家でデザイナーの「イサム・ノグチ」と出会います。
出典:クーリエ・ジャポン
▲1950年に来日したノグチ・イサムは銀座三越で個展を開き、その時に建築家である丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知り合いになった。翌年に再来日し、当時の岐阜市長の依頼で岐阜提灯をモチーフにした「あかり (Akari)」という照明シリーズをデザインする。
▼ミッドセンチュリーのデザイナー「イサム・ノグチ」はこちらから▼
二人の「イサム」はすぐに意気投合し、イサム・ノグチの友人でもある建築家「丹下健三(たんげけんぞう)」指揮のもと、イサム・ノグチがスケッチを描き、剣持勇が製図を行い、日本の伝統的な素材である竹を使用した『Bamboo chair(バンブーチェア)』をデザインしました。
出典:Sumally
▲二人のイサムは家具デザインを通して、日本家具の伝統文化とモダニズムスタイルを統合した新しい日本モダンスタイルを開拓した
▼偉大な建築家、丹下健三はこちらから▼
▲イサム・ノグチと一緒にバンブーチェアに座り、ちょっと恥ずかしそうにしている剣持勇(1950年)
1952年、剣持勇は柳宗理(やなぎそうり)やプロダクトデザイナー「渡辺力(わたなべりき)」ら25名の内の1人として『日本インダストリアルデザイナー協会(※)』に参加します。
(※柳宗理の記事で紹介しています)
▼柳宗理、日本インダストリアルデザイナー協会はこちらから▼
また、同年の1952年にはイサム・ノグチの紹介でチャールズ&レイ・イームズ夫妻と直接会うことができるアポイントを取り付け、戦後間もない時期でありながらアメリカへモダンデザインの視察出張に向かいました。
▲剣持勇とチャールズ&レイ・イームズ、イームズ夫妻の自宅にて
▼チャールズ&レイ・イームズ夫妻についてはこちらから▼
出張とはいえアメリカに渡ったことで日本国内からは痛烈な批判も浴びた剣持勇でしたが、日本のモダンデザインを世界レベルへ上げるため、他国から良い点を取り入れつつ、日本特有のデザインや素材を活かした「ものづくり」との融合を願った剣持勇は、多くの収穫を得て日本に帰国しました。
1955年、帰国した剣持勇は自身の個人事務所である『剣持勇デザイン研究所』を設立し、後の代表作のひとつである『スタッキングスツール(202)』をデザインしました。
剣持勇の代表作品
スタッキングスツール
出典:TABROOM
1955年に剣持勇によってデザインされたスタッキングスツールは、1958年に秋田県にある『秋田木工株式会社』より「202」という品番で販売が開始されました。
当時、高度経済成長期に突入して、団地などの集合住宅が立ち並びはじめた日本の居住スペースは決して広くはありませんでした。
そのような都市生活向けの家具として設計され、省スペース化を実現するため「かなり狭い範囲でのスタッキング」が可能になっています。
出典:TABROOM
▲202のデザインの特徴である美しい曲線は曲木の技法によるもの。軽くて子供でも簡単に持ち上げることができる。
2013年に「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」を受賞したスタッキングスツール「202」は発売から60年以上が経ち、累計125万脚を超える大ベストセラー商品として、現在も販売されています。
▼グッドデザイン・ロングライフデザイン賞はこちらから▼
ラタンチェア(ラウンジチェア)
出典:YMK長岡
ラタンチェア(ラウンジチェア)とは、1960年に剣持勇が「ホテルニュージャパン」のラウンジ用にデザインし、新潟県にある藤家具メーカー『YMK長岡(ワイ・エム・ケーながおか)』によって製造されたチェアです。
当時、日本は1964年の東京オリンピックを控え、世界中のゲストを迎え入れるべく高速道路や宿泊施設などの建設ラッシュが続いていました。
「ホテルニュージャパン(現在は廃業)」も外国客を迎えるホテルとして東京都千代田区に建設され、内装を剣持勇が担当することになります。
出典:水谷幹治
▲ホテルニュージャパンの経営者である横井英樹は、日本人ラッパーZEEBRAの祖父にあたる
いくつかデザインされた家具の内、ラウンジ用にデザインされたチェアがそのまま「ラウンジチェア」と呼ばれるようになりました。
出典:TABROOM
▲現在も少し大ぶりサイズの『C-3160』(右)と小ぶりな『C-3150』(左)という2つの品番で販売されている。体の大きい欧米人でもゆったり座れるようにワイドが広くなっているという親切設計。
ラタンチェアは、「籐(とう)」(※)を使用して繊細に編み込むことにより、日本の技術力の高さを世界に向けてアピールし、1964年に日本の家具デザインとしては初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)のパーマネントコレクション(永久所蔵品)に選定されました。
※籐(とう)とは
籐は、広義にはヤシ科トウ亜科の植物のうち、つる性の茎を伸ばす植物の総称(約600種類)で、英名では「ラタン」という。
籐の繊維は植物中で最長かつ最強ともいわれ、家具や籠などの材料として人気が高い。
出典:Landmark
▲籐の茎は樹木に比べて成長が早く5~10年で家具などに使用できる大きさに成長するため、地球にやさしいエコ素材として注目されている。
柏戸イス
出典:天童木工
柏戸(かしわど)イスとは剣持勇が1961年にデザインした重厚な木製椅子で、山形の家具メーカー『天童木工(てんどうもっこう)』より製品化されました。
柏戸イスはもともと丹下健三が設計した「熱海ガーデンホテル」のロビー用の椅子としてデザインされましたが、その後山形県出身の第47代横綱「柏戸関(かしわどぜき)」に横綱昇進を記念して贈られたことから柏戸イスという名称が定着しました。
杉の木の根元部分の荒々しい木目を選び、ひとつひとつ手作業でブロック状に積み重ねて削り出しを行い、表面は「うづくり加工」と呼ばれる木目を浮き立たせた加工を施して手触りをよくしています。
▲柏戸イスの座面部分に丁寧にうづくり仕上げを施す天童木工の職人。この繊細な手仕事は機械には真似できない。
剣持勇は、いつしか「世界のケンモチ」と呼ばれ、その後もさまざまな建築や航空機「ボーイング747」のインテリアや乳酸菌飲料「ヤクルト」、「ジョア」の容器デザインを行うなど活躍をしましたが、1971年に東京都新宿区の「剣持デザイン研究所」二階所長室にてガス自殺により亡くなってしまいます。
一説ではうつ病を患っていたそうです。
ナンタルカのまとめ
■剣持勇とは
剣持勇は日本を代表するデザイナーで、仙台にある(①)で技師として働き、(②)の紹介でアメリカのチャールズ&レイ・イームズとの交流を図ると、多くの傑作と呼ばれるプロダクトをデザインして日本のモダンデザイン向上に貢献した。
■剣持勇の代表作
1955年にデザインされた(①)は秋田木工株式会社より販売され、日本の居住スペースを考慮したコンパクトなスタッキングが可能でベストセラーとなった。1960年に「ホテルニュージャパン」のラウンジ用にデザインされた(②)は、新潟県にある藤家具メーカーYMK長岡によって製造され、ニューヨーク近代美術館に永久所蔵されている。1961年にデザインされた重厚な木製椅子(③)は天童木工より製品化され、もともと丹下健三が設計した「熱海ガーデンホテル」のロビー用の椅子としてデザインされたものである。
お疲れ様でした。
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では、次回もお楽しみに。
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