どうも、しけたむです。
この記事では
- 「トーネットの曲木の椅子に興味がある。」
- 「アントニオ・ガウディなど、アール・ヌーヴォー(ヌーボー)に活躍したデザイナーについて知りたい。」
という方々に向けて、
19世期から20世紀にかけて流行したインテリア様式の特徴を分かりやすく画像で解説します。
ドイツのモダンデザインの起こり
ミハエル・トーネット
出典:Cultura.hu
アーツ・アンド・クラフツ(後述)に先んじて、ドイツとオーストリアで活躍したミハエル・トーネット(1796 – 1871)は、1830年代にブナやビーチなどの木材を使用した曲木(まげき)技術(※)を完成させて家具の量産化に成功しました。
※曲木(まげき)とは
「ベントウッド (bentwood)」とも呼ばれる、木材を人工的に曲げて曲線的な形状や模様に成形する技法のこと。
1819年頃から家具製作をはじめたミハエル・トーネットは、当時の木はまっすぐな素材という考えが支配的だった時代において、1830年代に曲木の技術の開発に成功した。
1841年にはフランス、イギリス、ベルギーで特許を取得し、曲木の技術による椅子を各地に展示して注目を集める。
椅子などの家具の製造に用いられるほか、かつて木製であったテニスラケットや自転車の車輪も曲木によって製造されていた。
トーネットはドイツで建具職人として修業した後、23歳の時に家具職人として独立して工房を構えます。
工房では木を蒸して柔らかくしてから曲げる曲木の技法の研究を始め、1830年代に曲木技術の開発に成功。
この技術を用いて世界で初めて曲木椅子(ベントウッドチェア)を大量生産しました。
なかでも、1859年につくられたチェア『No.14』は曲木椅子の名作として名高く、フォルムの単純さと生産性のよさで、その後70年間に5,000万脚を売り上げたといわれています。
出典:TORNET
▲ミハエル・トーネットの代表作『No.14』は、19世期に5,000万脚以上販売された名作チェア。
トーネットの曲木椅子は棒状にカットしたビーチ材を100度を超える高熱で約6時間蒸し、手作業で曲げながら鋳型へはめ込むというプロセスで作られていて、当時としては斬新的な技術でした。
出典:THONET
▲現在も変わらぬ工程で一つ一つ製造されている曲木椅子
曲木技術により多くのパーツを結合させる必要が無くなると、最小限の部品でチェアを作ることが可能になります。
組み立ても容易であったことから分解した状態で輸送する「ノックダウン方式」が開発され、現代につながる大量生産・大量輸送を可能にしたトーネット社の家具は「モダン家具の原型」と呼ばれました。
出典:minniemuses
▲ノックダウン方式により1㎥の箱に36脚のチェアを輸送でき、大量輸送・コスト削減を可能にした。
1853年、ミハエル・トーネットは5人の息子たちに事業を譲渡し、社名を『トーネット兄弟会社(ゲブリューダー・トーネット、Gebrüder Thonet GmbH)』と変更します。
そしてミハエル・トーネットの息子のアウグス・トーネットが1870年から1871年にかけてデザインした『ウィーンチェア(アームチェア NO.209)』が発表されるとベストセラーとなり、トーネット社の代表的な椅子の一つとなりました。
ル・コルビュジエが愛用したことでも知られ、「コルビュジエ・チェア」という愛称でも有名です。
出典:BRUTUS
▲簡素で普遍的なデザインの曲木椅子『ウィーンチェア(アームチェア No.209)』
▼ル・コルビュジエはこちらの記事からどうぞ▼
トーネットの曲線的なプロダクトデザインは、やがて来る19世期末のアール・ヌーボー、ユーゲント・シュティールなどの芸術様式の到来を予感させるものでした。
▼ユーゲント・シュティールは次回記事で紹介します▼
アーツ・アンド・クラフツとは?
出典:TRC LEIDEN
▲1890年のアーツ・アンド・クラフツの展示会チケット
19世紀になると、産業革命(※)によりインテリアデザインも大量生産の時代を迎えます。
※産業革命(さんぎょうかくめい)とは
18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のこと。
製鉄業が成長し、蒸気機関が開発されることにより「動力源」が大きく進化したことが重要で、これにより工場の機械化が進んであらゆる製品の「大量生産」が可能になった。
また蒸気機関の交通機関への応用で、蒸気船や鉄道が発明されたことによる「交通・運搬方法の変化」が起こったことも大きな革命である。
19世期のイギリスでは、産業革命の結果としてインテリア製品は安価となりましたが、同時に粗悪品があちこちにあふれてしまいました。
この粗悪品の大量生産に反抗した運動が「アーツ・アンド・クラフツ運動」で、イギリスの詩人でデザイナーでもあるウィリアム・モリス(1834 – 1896)が主導しました。
出典:Novogram
▲ウィリアム・モリスは優れたインテリア製品を開発して「モダンデザインの父」と呼ばれた
アーツ・アンド・クラフツ運動は「美術工芸運動」とも呼ばれ、1880年代から始まります。
これは当時、芸術家たちのパトロン(経済的な支援者)をしていたイギリスの美術評論家「ジョン・ラスキン」の思想に共鳴したウィリアム・モリスが、手工業による良質な製品の製作、販売を実践した運動であり、20世紀のデザイン思想に大きな影響を与えました。
ウィリアム・モリスは、家具・インテリアの製造販売会社『モリス商会』を設立し、美しく装本された書籍やインテリア製品(壁紙や家具、タペストリーやステンドグラス)などの製造・販売を開始します。
出典: AntiqueAtlas
▲ウィリアム・モリスがデザインした椅子には特徴的なデザインのファブリック生地が用いられた
出展:Pinterest
▲モリスは写実的で生き生きとした壁紙をいくつもデザインした
▲鳥や植物をモチーフとしたモリスの美しい壁紙は現代では世界中で人気がある
ウィリアム・モリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーボー、ユーゲント・シュティール、分離派(ゼツェッション)など、その後の各国の美術運動に影響が表れています。
▼ユーゲント・シュティールはこちらで紹介しています▼
▼分離派(ゼツェッション)はこちらで紹介しています▼
ちなみに日本で活躍した柳宗悦(やなぎむねよし)も、ウィリアム・モリスの運動に共感を寄せ、1929年にイギリスを訪れています。
柳宗悦の民芸運動は日用品の中に美しさを見出そうとするもので日本独自のものですが、アーツ・アンド・クラフツの影響を色濃く受けた運動です。
▼覚えていますか?柳宗悦と民芸運動▼
アール・ヌーボーの特徴と作家【前編】
出典:Artsy
▲アルフォンス・ミュシャの『Rêverie(夢想)』(1898年)
アール・ヌーボー(アール・ヌーヴォー)とは「新しい芸術」という意味で、19世紀末のヨーロッパを象徴する芸術運動です。
ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツの影響を受けてベルギーで始まり、フランスを中心に盛んになりました。
アール・ヌーボーの特徴には花やツタなどの植物が絡みつくような曲線的な装飾の多用にあります。
出典:The habitat
▲アール・ヌーボーのインテリア装飾の一例。スズランをモチーフにした照明と曲線の多い室内装飾。
出典:You pic
▲アール・ヌーボーのインテリアは流線的で植物をモチーフにしているものが多く、木の素材感を生かした有機的なデザインとなっているのが特徴的。
また、アール・ヌーボーの特徴を現した文字の書体がいくつもデザインされ、当時の建築物、広告や書籍などの出版物にも使用されました。
出典:DF
▲アール・ヌーボーで使用されていた独特な書体。蛇の様な植物の様な流線型のデザイン。
アントニオ・ガウディ
出典:Pinterest
アントニオ・ガウディ(1852年 – 1926年)はスペインのカタルーニャ地方出身の建築家で、アール・ヌーボー期のバルセロナを中心に活動しました。
『サグラダ・ファミリア(聖家族教会)』や『グエル公園』、そして『カサ・ミラ』などの作品は、スペインを代表する観光地としても有名です。
アントニオ・ガウディは1852年、スペイン・カタルーニャ地方に銅板を加工して鍋や釜を作る銅細工師の5人目の子として生まれました。
ガウディは21歳から25歳までの間バルセロナで建築を学び、学業と並行していくつかの建築設計事務所で働きながら市内の公園や修道院の装飾にも関わります。
26歳で建築士の資格を取得したガウディは、当時のバルセロナ建築学校校長で建築家のアリアス・ルジェンから
「ガウディが狂人なのか天才なのかは分からん、時が明らかにするだろう」
と評価されていて、ガウディがかなりの変人だったことが窺(うかが)い知れます。
同年、ガウディは1878年のパリ万国博覧会に『手袋店のショーケース』をデザインして出展したところ、この作品を見た実業家・政治家の「エウセビオ・グエル」はガウディの才能を見出し、その後40年あまりの間パトロンとしてガウディを支援し、『グエル邸』、『コロニア・グエル教会地下聖堂』、『グエル公園』などの設計を依頼し続けました。
出典:Антони Гауди
▲ガウディがパリ万国博覧会で出展した『手袋店のショーケース』のスケッチ(1878年)
1883年に『サグラダ・ファミリア』の専任建築家にガウディを推薦するなど、ガウディのサクセスストーリーはエウセビオ・グエルの審美眼によるものといっても過言ではありません。
サグラダ・ファミリア
出典:Archdaily
▲1882年着工から100年以上経つも、未だに建設途中の『サグラダ・ファミリア』(2022年1月現在)
サグラダ・ファミリアは日本語に訳すると「聖家族贖罪教会(せいかぞくしょくざいきょうかい)」という正式名称を持つ、スペインのバルセロナにあるカトリック教会のバシリカです。
じつは当初はガウディが設計をする予定ではなく、「フランシスコ・ビリャール」という別の建築家が無償で設計を引き受けて1882年3月19日に着工したのですが、依頼者であるカトリック団体との意見の対立からビリャールは辞任し、スペインの実業家であり政治家の「エウセビオ・グエル」の推薦もあってガウディが2代目建築家に就任しました。
ガウディはビリャールが作った設計を変更し、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組みます。
しかしガウディの死後、1936年に始まったスペイン内戦により、ガウディが残した設計図や模型、ガウディの構想に基づいて弟子たちが作成した資料のほとんどが消滅してしまったのです。
これにより当初のガウディの構想を完全に実現することが不可能となっていて、現在では当時の職人による口伝えや、外観の大まかなデッサンなど残されたわずかな資料を元に、ガウディの設計構想を推測しながら建設が行われています。
出展:Catalan news
▲サグラダ・ファミリアの身廊は独創的でモダンな造り。2026年に完成予定だった教会は、コロナ禍の影響により遅延する可能性がある。
サグラダ・ファミリアには3つのファサードがあります。
ファサードとはフランス語の「façade」を語源とする言葉で、「建築物の正面」のことです。
そのため、通常は大聖堂や教会にはファサードは一つだけしかありません。
しかしガウディはこの固定観念そのものを覆し、サグラダファミリアに「生誕のファサード」、「受難のファサード」、「栄光のファサード(建設中)」と呼ばれる3つのファサードを設けました。
出典:Amazing TRIP
▲丸数字の場所には、全部で18本の塔が配置されており、3つのファサードにはそれぞれ12使徒を表現した4つの塔が設置されています。各塔が表す聖人については以下のとおり。
①イエス ②マリア ③聖ルカ ④聖マルコ ⑤聖ヨハネ ⑥聖マタイ ⑦マタイ ⑧ユダ ⑨シモン ⑩ベルナベ⑪小ヤコブ ⑫バルトロマイ ⑬トマス ⑭フィリポ ⑮大ヤコブ ⑯パウロ ⑰ペトロ ⑱アンデレ
出典:佐渡の翼
▲北東側にある『生誕のファサード』は1894年に着工し、ガウディ亡き後の1932年に工事が完了した。ガウディ本人が細部に至るまで設計した唯一のファサードとなる。主に4本の鐘楼(塔)と3つの門で構成され、ファサード壁面の彫刻にはキリストの誕生から青年期までの成長が表現されている。
出典:Archdaily
▲1954年に着工された南西側の『受難のファサード』は、ガウディの遺言書に添えられていたスケッチを忠実に再現して建築された。しかし彫刻に関しては彫刻家「ジュゼップ・マリア・スビラックス」の作風がガウディが好んだ有機的で柔らかい作風とは全く対照的な角ばった抽象的なものであったため批判されたが、現在は優れたデザインとして高く評価されている。
出典:ばるログinバルセロナ
▲唯一完成していない『栄光のファサード』はイエス・キリストの栄光と人類の永遠の生への道がテーマとなっている。本来のサグラダ・ファミリアのメインエントランスであり、15本の柱と7つの扉を持つ最大のファサードとなる予定。近代的なオフィスビルのようなデザイン。
20世紀には300年かかると予想されていた工事ですが、スペインの経済成長や拝観料収入などに支えられて工事の進捗は大きく加速しています。
さらにITを駆使した新技術を導入することによる2026年の完成が現実となれば、約144年の工期で完成することになる、と大きな期待が寄せられていました。
ところが、2020年から新型コロナウイルス感染症が世界的に大流行した影響で、スペイン国内でも感染拡大防止のためロックダウンが行われ工事中断を余儀なくされたほか、建設のための重要な資金源である「喜捨(きしゃ)」と呼ばれるお布施やチケット収入が大きく減少したことで、完成が遅延するとみられています。
グエル公園
出典:KLM
▲グエル公園の入口に建つ建築を見たスペインの画家サルバドール・ダリは「砂糖をまぶしたタルト菓子のようだ」と評した。
グエル公園はスペインのバルセロナにある公園で、パリ万国博覧会でガウディの展示を称賛したスペイン人の富豪「エウセビオ・グエル」の依頼によって1900年から1914年の間に建造されました。
当時急速な工業化が進んでいたバルセロナに対して、自然と調和を目指した総合芸術を作り上げようとしたガウディは、人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる新しい住宅地を作ろうと試みます。
しかし、ぶっ飛びすぎていた発想と自然の中で暮らす価値観は当時まったく理解されず、広場、道路などのインフラが整備され60軒の住居を売りに出しましたが買い手がつかず、結局売れたのはガウディ本人とグエルが購入した2軒だけという大失敗に終わってしまいました。
出典:Tigets
▲グエル公園中央の大階段。奥にはトカゲの噴水がある。
出典:Twitter
▲ガウディの弟子製作によるトカゲのオブジェはグエル公園のマスコット的存在となっている
グエルの没後に工事は中断、市の公園として寄付されました。
現在はガウディが一時住んだこともある家がガウディ記念館として公開され、バルセロナで人気の観光地となっています。
カサ・ミラ
出典:InSpain
▲実業家ペレ・ミラの邸宅として設計されたカサ・ミラ。直線部分を持たない彫刻のような建築物。
カサ・ミラはバルセロナのグラシア通りにある建築で、1906年から1910年にかけて実業家のペレ・ミラの邸宅として建設されました。
カサ・ミラは直線部分をまったくもたない建造物になっていて、まるで洞窟のような独特の雰囲気を持っています。
▲建設当時、人々はカサ・ミラを醜悪な建物として「石切場(ラ・ペドレラ)」という蔑称をつけた
外観の波打つ曲線は地中海をイメージして作られ、屋上は独特の彫刻が施された煙突や階段室が立ち並び、月面か夢の中の風景にも喩えられています。
出典:Tango&Rakija
▲カサ・ミラ屋上の彫刻デザインはサグラダ・ファミリア『受難のファサード』のモチーフになったとも言われている
カサ・ミラは通常の建築物というよりむしろ彫刻であり実用性に欠けるという批判もありますが、圧倒的な芸術性から今日ではバルセロナを代表する歴史的建造物となっています。
ちなみにご紹介した『サグラダ・ファミリア』、『グエル公園』、『カサ・ミラ』の3つの作品は、アントニオ・ガウディの作品群として1984年にユネスコの世界遺産に登録されました。
ヴィクトール・オルタ
ヴィクトール・オルタ(1861年 – 1947年)はベルギーの建築家で、非対称的な曲線模様を特徴としたアール・ヌーボー様式を装飾芸術から建築へと取り込んだ最初の建築家と言われています。
1861年にベルギーのヘントに生まれたオルタは、12歳の頃に叔父が働いていた建設現場を手伝ったことから建築に興味を持ち、その後芸術学校で建築や絵画を学びました。
卒業後はパリに移り住みインテリアデザイナーとして職を持ちますが、1880年に父の死を機にベルギーに帰郷し、さらに勉学に励むためにブリュッセル王立美術アカデミーに入学します。
この時まだ19歳のオルタは再び学生となった上で結婚し、二人の娘を授かりました。
ブリュッセル王立美術アカデミーを優秀な成績で卒業すると、教授である古典主義建築家アルフォンス・バラットの助手として働き、24歳で独立して住宅、公共建築、彫刻などさまざまな仕事を請け負います。
1892年、アール・ヌーヴォーを紹介する展示会がベルギーで開かれると、31歳になったオルタは大きな衝撃を受け、この時の衝撃を当時依頼を受けていた住宅建築のデザインに随所に盛り込むと、1893年に『タッセル邸』を完成させました。
ベルギーのブリュッセルに建てられたこの『タッセル邸』は、世界初のアールヌーヴォー建築作品です。
タッセル邸
▲華やかで緻密な装飾で飾られた室内とは対照的に、石造りのファサードは街並みに溶け込んでいる。
▲植物をモチーフとした有機的な曲線形状を鋳鉄で作り上げて内装装飾とした『タッセル邸』の階段。古典的な間取りを完全に打破した最初の住宅で、世界遺産に登録されている。
当時のオルタのデザインには批判的な声もありましたが、次第にブリュッセル市内の重要な建築物の設計依頼が舞い込み、『タッセル邸』のような質素な鉄と石のファサードの中に複雑な鉄のインテリアを閉じこめた建築作品を残しました。
現存する4棟の個人住宅は、建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群 (ブリュッセル)として、2000年にユネスコ世界遺産に登録されています。
エクトル・ギマール
エクトル・ギマール(1867年 – 1942年)はフランスを代表するアール・ヌーボーの建築家で、同国におけるアール・ヌーヴォーの代表者でもあります。
1867年、フランスのリヨンに生まれたギマールは、15歳でパリ装飾美術学校で建築家シャルル・ジュニュイに師事し、18歳でパリ芸術学校に入学すると、在学中にベルギーのブリュッセルへの旅行でヴィクトール・オルタの『タッセル邸』を訪れ、大きな衝撃を受けました。
この時の影響を受けてギマールが建築したのが、「パリで初」となるアール・ヌーボー作品の『カステル・ベランジェ』です。
カステル・ベランジェ
出典:Pinterest
カステル・ベランジェはパリの西部にあるアール・ヌーボー建築で、1895年に着工し1898年に完成しました。
ギマールが28歳の時に設計した6階建て36戸のアパートで、ベルギーのブリュッセルにあるヴィクトール・オルタの『タッセル邸』に感銘を受けて建築した、パリで最初のアール・ヌーボー作品です。
出典:Flickr
▲カステル・ベランジェの門扉。この建築物は、36戸すべてのプランが異なり、その部屋割りを反映して外観には砂岩、煉瓦、タイル、鉄と、さまざまな素材を寄せ集めたデザインとなった。
出典:PBase.com
▲ベランダや換気口など、至る所に奇怪な生物の鋳鉄細工が付けられている。
パリの『メトロ入り口』もギマールの代表的な作品として知られています。
出典:Britannica
出典:Pinterest
▲メトロの入り口によってそれぞれデザインが異なる
また、エクトル・ギマールはいくつかの家具デザインも行うと、アール・ヌーボーらしい芸術的なデザインフォルムで評価を受けましたが、家具というより芸術作品に近いギマールの家具作品は、価格があまりにも高価で一部の富裕層向けのものでした。
▲エクトル・ギマールの『Side chair』
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863年 – 1957年)は19世紀末から20世紀始めに活躍したベルギーの建築家で、アール・ヌーボーからモダンデザインへの展開を促した人物として有名です。
ヴェルデはベルギーのアントワープで生まれ、有名なアントワープ王立芸術アカデミーで絵画を学びました。
卒業後はパリの画家に師事し、26歳頃にベルギーのブリュッセルを拠点とするアーティストグループ『LesXX(レ・ヴァン)』のメンバーとなります。
▲アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ によって描かれたパステル画『Seemstress in the Garden』(1891)
29歳になったヴェルデはイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に触発されると、絵画を放棄して、建築とインテリアの道に進むことを決めます。
1894年、31歳のヴェルデはパリで美術商を営んでいるサミュエル・ビングのアートギャラリー『アールヌーボー』の家具とインテリアを担当しました。
出典:topsimage.com
▲アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデがデザインしたサミュエル・ビングのアートギャラリー『アールヌーヴォー』。看板には「ART-NOUVEAU BING(アールヌーボー ビング)」と彫られている。このアートギャラリーが「アール・ヌーボー」という芸術運動の語源となった。
建築雑誌でヴェルデのアール・ヌーボーの建築やインテリアが紹介されはじめると、次第にヴェルデの評判はベルギー周辺国にも知れ渡るようになり、仕事の依頼はフランスだけでは無く、オランダやドイツなどからもやってくるようになりました。
出典:Art Nouveau World
▲アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデがオランダに建てたアール・ヌーボー建築『Villa Seagull』(1901-1903)
特にドイツからの仕事の依頼は多く、ベルリンに渡ってインテリアデザインの仕事に従事していたヴェルデは、1899年にかつてドイツにあった小国『ザクセン大公国』の君主の芸術顧問として雇われるようになり、ザクセン大公国の首都・ヴァイマル(ワイマール)に定住します。
▲ドイツ帝国内での『ザクセン大公国(ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国)』の位置(1871)
1902年、ヴェルデはヴァイマル大公国の支援のもとで、工芸の教育機関である『工芸ゼミナール』をヴァイマルに設立すると、1906年に工芸ゼミナールは『工芸学校』に発展してヴェルデは校長を務めました。
▲現存しているヴァイマルの『工芸学校』の校舎はヴェルデによる設計。1919年にバウハウスが誕生してからは『バウハウス・ヴァイマル校』の校舎として使用される。
そして1907年、ヴェルデが44歳の時にドイツ工作連盟に参加し、中心メンバーとして活躍することになります。
▼ドイツ工作連盟についてはこちらの記事でご紹介▼
しかしデザイナーや作家の芸術性・個性を重要視していたアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデは、製品の標準化・規格化を重要視していた同じドイツ工作連盟の中心メンバーであるヘルマン・ムテジウスに反発し、論争を行いました。(規格化論争)
▲ヘルマン・ムテジウスは日本初のドイツのプロテスタント協会を東京都千代田区に建設するなど、日本の西欧化に尽力した人物。
第一次世界大戦が近づくと、ベルギー国籍を持つヴェルデは校長を辞任してドイツを去ることになり、工芸学校の後継者としてヴァルター・グロピウスに託しました。
こうしてアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデから『工芸学校』を引き継いだグロピウスは、1919年にヴァイマール共和国の国立学校として美術大学と工芸学校を統合した教育機関『バウハウス』を開校するのでした。
▼グロピウスが引き継いだバウハウスの記事はこちらから▼
ナンタルカのまとめ
■ドイツのモダンデザインの起こり
アーツ・アンド・クラフツに先んじてウィーンの(①)は、1830年代に(②)の技術を完成させ、ブナやビーチなどの木材を使用して家具の量産化に成功した。(①)のプロダクトは組み立ても容易であったことから、分解した状態で輸送する(③)方式が採用され、現代につながる大量生産・大量輸送を可能にしたことで「モダン家具の原型」とも呼ばれている。
■アーツ・アンド・クラフツとは?
19世紀に産業革命によりインテリアデザインは量産化の時代を迎えると安価で粗悪な商品であふれた。これらに反抗した運動がイギリスで起こった(①)である。芸術家たちのパトロンをしていたイギリスの美術評論家(①)の思想に共鳴したイギリス人デザイナー(③)が主導し、20世紀のデザイン思想に大きな影響を与えた。
■アール・ヌーボーの特徴と作家
(1)アール・ヌーボーとは「新しい芸術」という意味で、19世期末にベルギーではじまりフランスを中心に盛んになった芸術運動で、植物が絡みつく様な曲線的なデザインが特徴である。スペインでは聖家族教会と呼ばれる(①)や集合住宅(②)を設計した(③)が、ベルギーでは世界初のアール・ヌーボー作品(④)を設計した(⑤)が有名である。
(2)フランスでは、パリのメトロ入り口をアール・ヌーボーでデザインした(①)が代表的である。また(②)はアール・ヌーボーからモダンデザインへの展開を最初期に促したデザイナーで、アール・ヌーボーの語源となるギャラリーのデザインを行い、やがてドイツのヴァイマルにバウハウスの前身となる教育機関(③)を設立した。
お疲れ様でした。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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では、次回に続きます!
▼次回、アール・ヌーボー後編はこちらから▼