こんにちは、しけたむです!
この記事では
- 「戦前の有名な建築やそれらに関わる人物について知りたい。」
- 「昭和初期のインテリアの歴史ってややこしそう。」
とお考えの皆様に向けて、
昭和初期、戦前の建築・家具・工芸・暮らしや建築家について画像付きで解説していきます。
昭和の代表的建築物
出典:三井広報委員会
▲震災直後の東京都日本橋。日本橋三越本店(写真右)は修築・増改築が行われ現在に至る。旧三井本館(写真左)はその後建て替えられた。
大正時代末期の1923年に発生した未曾有の大災害、関東大震災は南関東を中心に多くの建物を倒壊・焼失させました。
しかし、皮肉なことに大震災による倒壊がきっかけとなり耐震性の高い鉄筋コンクリート造の耐震建築物が立ち並ぶこととなります。
震災の復興期に建設された同潤会アパートや旧東京中央郵便局はその代表的な建築物であり、当時としてはまったく新しいデザインセンスを持った先進的な建物として新しい時代の象徴となりました。
▲吉田鉄郎によって設計された『旧東京中央郵便局』(1933年完成)は鉄筋コンクリート造で、ブルーノ・タウトが「モダニズムの傑作である」と称えた
同潤会(どうじゅんかい)アパート
出典:goo BLOG/同潤会青山アパートメント
▲1926年に建設された『同潤会青山アパートメント』は2003年に解体され、現在は表参道ヒルズになっている
同潤会アパートと聞くと、現在の表参道ヒルズがある場所に建っていた『同潤会青山アパートメント』をイメージされる方が多いのではないでしょうか。
そもそも同潤会アパートとは、関東大震災の復興支援のために設立された団体『財団法人同潤会』が、大正末期から昭和初期にかけて東京・横浜の各地に建設した鉄筋コンクリート造集合住宅の総称です。
同潤会アパートは耐久性を高めるべく鉄筋コンクリート構造で建設され、当時としては最先端の都市ガスや水洗式便所、ダストシュート(ゴミ捨て装置)などの住宅設備が採用されていたので、都市部の中間層サラリーマンたちの憧れの居住施設として人気になりました。
出典:青山物産株式会社/同潤会上野下アパートメント
▲1929年に建設された『同潤会上野下アパートメント』は2013年に解体され、現在は『ザ・パークハウス上野』が建っている
鉄筋コンクリート造の同潤会アパートが東京、横浜の都市部に集中して建設されたのは、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で木造家屋が大きな被害を受けたので、特に都市部では不燃の集合住宅の必要性が強く求められた為でした。
同潤会アパートは近代日本で最初期の鉄筋コンクリート造集合住宅として貴重な存在ですが、最も古い例としては1916年に長崎県の離島に建設された『軍艦島(ぐんかんじま)』があります。
軍艦島は日本で初めての「団地(だんち)(※)」でもあります。
出典:軍艦島アーカイブス
▲軍艦島で鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設されたのは狭い島内に多くの住人を住まわせる必要があったからで、昭和35年の人口密度は東京の9倍で世界一だった。
※団地(だんち)とは
「アパート」や「マンション」などのように、建物そのものの特徴で区別される名称ではなく、「同一敷地内に建てられている共同住宅の建物群」のことを指す。
都道府県や市町村が運営している公営住宅や、UR賃貸住宅(旧公団住宅)、公社住宅などが団地にあたる。
また軍艦島のように敷地の中には住宅だけではなく、お店や病院、保育園など生活関連施設が併設される場合もある。
現在、16か所あった同潤会アパートは老朽化による耐震性の問題から全て取り壊され、財団法人同潤会も戦時中に解散しています。
出展:表参道ヒルズ
▲現在の表参道ヒルズ。旧同潤会青山アパートの景観は『同潤館』として再生した。
聴竹居(ちょうちくきょ)
出典:竹中工務店/聴竹居
聴竹居(ちょうちくきょ)とは1928年に京都府大山崎町の山林4万㎡を購入し建てられた、広島県出身の設計士である藤井厚二(ふじいこうじ)の自邸です。
聴竹居は「日本の気候、風土にあった、日本人の身体に適した住宅」をテーマとして設計された木造住宅で、風の気流や太陽の採光など自然の力を生かせるよう、床下に埋めた土管(クールチューブ)に庭の快適な外気を取り込み室内に送り込むなど環境工学に配慮した設計がなされています。
出典:Twitter
▲風当たりの良い西側の木陰からの風をクールチューブから室内へ取り込み、室内の温まった空気は天井排気口から天井裏へ抜け、さらに通気窓から外部へ逃す仕組みとなっている。
『特徴的な日本の気候風土に合わせて自然の力を巧みに利用することで、環境共生を図る』というコンセプトを持つ、環境共生住宅の原点とも言われる建物です。
また、聴竹居は2017年7月に重要文化財として指定されました。
注目すべきは、建築家が「自邸」として建てた昭和の住宅として初めての国の重要文化財となったことです。
出典:竹中工務店/聴竹居
▲手前が居室、右奥が食事室となっていて、板の間から約30cm高くなった3畳の畳の間は、居室で椅子に座っている人と、畳の間で座っている人の目線の高さを合わせる工夫で、その段差を利用して畳の間の下には夏季に地中熱で冷やされた外気を取り入れるクールチューブの出口が設置してある。
出典:jimosumu
▲3方向ガラスに囲まれた縁側は椅子を置いて使用されていて、目の前に広がる河川を眺めることができる。夏季には天井にある排気口から熱くなった空気を屋根裏に逃す工夫がされている。
藤井厚二(ふじいこうじ)
出典:TOTO通信
▲東京大学卒業後、まだ社員数人の中小企業であった竹中工務店に初の建築家として入社した藤井厚二
藤井厚二(ふじいこうじ)(1888年(明治21年) – 1938年(昭和13年))は、日本の気候風土や日本人の感性に適合した「日本人の理想の住まい」を追求した広島県出身の研究者、建築家です。
1888年、藤井厚二は広島県に生まれ、25歳で東京帝国大学工学科建築学科を卒業すると、建設会社『竹中工務店』に入社します。
主にオフィスビルの設計を手掛けましたが、わずか6年足らずの在籍ののち退社。
その後、1919年から1920年にかけての約9か月間、私費でアメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、イタリア、スイスを巡り、当時の日本で特に近代化が遅れていた「住宅」とその「設備」を中心に視察して帰国しました。
帰国後の1920年、京都帝国大学建築学科に招かれて教鞭をとった藤井は、環境工学にいち早く取り組み、1923年の関東大震災の惨状を3週間後に視察して、より一層「日本」という気候風土を意識した藤井は、代表的な著書『日本の住宅』を1928年に発行しています。
出典:LiveAuction
▲明治書房より1930年(昭和30年)に発刊した『日本の住宅』
この著書の中で藤井は
「我々は我国固有の環境に調和し、其の生活に適応すべき真の日本文化住宅を創成せねばなりません。」
と記し、明治維新以降の欧米化・近代化政策で盲目的に欧米の模倣をしまくった結果、和洋折衷と日本の伝統がごちゃ混ぜになっている生活様式、さらに欧米風の住宅に住んでいることがステータスだと信じて思考停止している人々だらけの時代を激しく避難しました。
藤井は環境工学による住宅研究と実践の完成形を『聴竹居』で実現し、その図面と写真と解説からなる「聴竹居図案集」を発刊。
さらにこの英語版である「THE JAPANESE DWELLING-HOUSE」を世界に向けて発刊するなど、日本の住宅の素晴らしさを世界に向けて発信しました。
土浦亀城邸(つちうらかめきてい)
出典:TOTO通信
土浦亀城邸(つちうらかめきてい)は1935年(昭和10年)に東京都品川区に竣工した木造住宅で、建築家として活躍した土浦亀城の自邸です。
モダンな白い箱型の外観、リビングを中心とした機能的な平面構成、吹き抜けやスキップフロアによる空間の連続性、当時としては珍しいシステムキッチンなど、昭和10年に建てたとはとても思えないような現代的なデザインと特徴を備えています。
出典:TOTO通信
▲フランク・ロイド・ライトの助手として活躍した土浦亀城
土浦亀城は、帝国ホテルの建設に携わっていた遠藤新(えんどうあらた)の紹介でドラフトマン(※1)としてフランク・ロイド・ライトの助手をしていました。
(※1:設計図のうち詳細図面を書く人のこと。)
帝国ホテルの建設の途中、建設費がかさみ過ぎて設計の任を解かれてしまったライトがアメリカに帰国することになるのですが、その際にアメリカに誘われたのが土浦亀城でした。
▼帝国ホテル本館って何なん?ならこちらから▼
東京帝国大学工学部建築学科を卒業した土浦亀城は、1923年の26歳の時、妻と娘と共に渡米し、ライトの別荘兼事務所であったタリアセンに入所しました。
出典:UN DIA
▲タリアセンで過ごすフランク・ロイド・ライト(左)と土浦亀城夫妻(中央暖炉両脇)
▼フランク・ロイド・ライトやタリアセンの詳細はこちら▼
タリアセンで3年間を過ごした土浦は1926年に帰国し、大倉土木(現・大成建設)に勤めながら住宅の設計を開始しました。
初期の設計には師匠であるライトの影響が色濃く出ていましたが、1930年後半からはライトの作風とは異なるホワイトキューブに大きなガラス窓を使った、いわゆるバウハウススタイルと呼ばれるモダニズム風の作風が見られるようになります。
▼バウハウスはこちらの記事にてご紹介▼
帰国後、多くの建築を手掛けた土浦亀城でしたが、その集大成ともいえるのがこの土浦亀城邸です。
ホワイトキューブに大きなガラス窓というモダンなデザインは、当時としては斬新で都市住宅の先駆けとなりました。
出典:OKOLO
▲土浦亀城邸のリビング。階段を上がるとギャラリーや書斎がある。
2024年9月より、「土浦亀城邸」が一般公開されることになりました。
詳しくはこちらから!!
昭和の家具・工芸
昭和という激動の時代の中、家具や工芸のデザインにおいても様々な組織が誕生しました。
戦争の影響を受けながら行われた、様々な活動を見ていきましょう。
木のめ舎(きのめしゃ)
出典:黒織部
▲「大正イマジュリィの世界」展にて、千葉県佐倉出身の家具デザイナー森谷延雄が手がけた『「眠り姫の寝室」の腰かけ』(左)と『「鳥の書斎」の肱掛椅子』(右)
木のめ舎(きのめしゃ)は1927年(昭和2年)に家具デザイナーの森谷延雄(もりやのぶお)によって結成されたデザイングループで、ドイツの芸術運動からの影響を受けた独特のセンスで当時の日本のデザインカルチャーに大きな衝撃を与えました。
当時の日本では家具やインテリアの分野でも近代的な生活の提案を強く行われていて、海外への憧れや羨望を強く持っていた時代でした。
そんな中、独自の表現主義的なスタイルで知られるインテリア・家具デザイナーの森谷は『家具デザインの美的効果』、つまりは「家具は美しくなくてはならない」という考えのもと、芸術として家具デザインを始めました。
昭和初期に作られたようには全く見えない、斬新なデザインです。
出典:黒織部
▲『「眠り姫の寝室」の腰かけ』は正面と側面に可愛らしい絵柄が彫られている
木のめ舎は森谷延雄が展覧会開催前に33歳という若さで急遽他界してしまい、残念ながら活動期間としてはごくわずかとなりました。
しかし残ったメンバーたちは、家具研究グループ『型而工房(けいじこうぼう)』(後述)へ移り、形而工房に在籍したデザイナー豊口克平(とよぐちかつへい)から国立のデザイン指導機関『工芸(工藝)指導所(こうげいしどうしょ)』(後述)を経て、やがて剣持勇(けんもちいさむ)ら日本を代表する世界的なデザイナーが生まれます。
型而工房(けいじこうぼう)
出典:monomono
▲豊口克平の代表作『スポークチェア』はイギリスのウィンザーチェアがモチーフとなっている
1928年、東京高等工芸学校の教員をしていた建築家の蔵田周忠(くらたちかただ)を中心に、同学校の卒業生らによって結成された機能主義的、合理主義的なデザイン研究・制作団体を型而工房(けいじこうぼう)といいます。
出典:つれづれ可喜庵
▲蔵田周忠は海外の建築を日本に精力的に紹介し建築史の書籍も執筆した
住宅、室内デザイン、照明器具、などのデザインを主に手がけていて、中でも椅子やテーブルなどの家具がその中心的制作物でした。
出典:monomono
▲形而工房の椅子(初号1935年・武蔵野美術大学美術館図書館所蔵)
型而工房は当時日本デザイン界が関心を寄せていた『ドイツ工作連盟』や『バウハウス』の思想を強く受けていて合理主義的、機能主義的デザインの実践を目指しました。
▼ドイツ工作連盟はコチラの記事にてご紹介▼
▼バウハウスはコチラの記事にてご紹介▼
当時、まだ日本の家具職人たちが一般的に尺貫法(しゃっかんほう)(※)を使用していた中、世界共通の基準に従いメートル法を日本でいち早く採用しました。
(※現在、日本での寸法の単位は1cm、1mが当たり前に使用されています。尺貫法はcmとかではなく1尺(=30cm)、1寸(=3cm)という寸法単位です。『一寸法師』なんかも、それですね。)
また、日本の家屋や家具では一般的でなかったブナ、楢(ナラ)などの入手しやすく、安価な木材を規格化して『低コストで大量生産が可能な設計』を目指しました。
このように形而工房は数々の先駆的な実践を試み、日本の近代デザインの発展に大きく貢献したのです。
▼スポークチェアのモチーフになったイギリスの『ウィンザーチェア』はこちらで紹介▼
工芸(工藝)指導所
出典:Twitter /TSUKAPONG
▲所長の国井喜太郎(写真中央)とブルーノ・タウト(写真中央左)
工芸(工藝)指導所(こうげいしどうしょ)は1928年、仙台に当時の商工省(現在の経済産業省の前身)によって創設された日本初の国立のデザイン指導機関で、日本の伝統的産業の金工、木工、漆工、その他各種工芸産業の育成と輸出振興を目指しました。
1933年には世界的な建築家でデザイナーでもあるブルーノ・タウトを顧問として招き、4ヶ月という短い期間ではありますが、日本の工芸産業の質の向上のため指導や提案を行いました。
▼ブルーノ・タウトはこちらの記事でご紹介▼
1940年には日本の輸出家具の増加を支援するアドバイザーとして来日し、日本各地をまわって工芸産業の視察を行なっていた建築家でデザイナーのシャルロット・ペリアンが工芸指導所を立ち寄り、若手所員たちと懇談しました。
▲ル・コルビュジェの事務所で勤務していた坂倉準三(さかくらじゅんぞう:左)の尽力により1940年にフランスから来日したシャルロット・ペリアン(写真中央)
▼シャルロット・ペリアンがデザインした家具はこちらから▼
その後、工芸指導所は日本のインダストリアル(工業的)デザインの礎を築いた剣持勇(けんもちいさむ)や豊口克平(とよぐちかつへい)らを輩出したりするなど、日本の工芸界、デザイン界をリードする役割を担ってきました。
▼工芸指導所で働いていた剣持勇はこちらから▼
▼工芸指導所で働いていた豊口克平はこちらから▼
工芸指導所で技を磨いた伝習生たちは各地で地域の特産工芸品の維持発展や工芸デザイン教育に力を尽くし、その伝習生の数は800名以上にのぼります。
民芸(民藝)運動
▲ 民藝運動に欠かせなかった実業家たち。右から3人目が柳宗悦。
民芸(民藝)運動(みんげいうんどう)とは、1926年(大正15年)、当時の日本の工業化が進み、生活様式がどんどん西洋化していく状況に危機感を抱いた思想家『柳宗悦(やなぎむねよし)』によって提唱された運動です。
その民芸運動の内容は、美術品ではなく日常的な暮らしの中で使われてきた庶民の日用品である『民衆的工芸(=民芸)』にこそ美があるとして、伝統的な技術を復興し後世に伝えるというものでした。
出典:wazawaza
▲民藝運動の創始者である柳宗悦は、生活道具として使われていた民芸品に新たな価値を見出し『用の美』と称えた。職人たちの手仕事から生まれる民芸品には素朴な美しさがあり、日々の暮らしに潤いと癒しを与える。
出典:cotogoto
▲機械生産にはない日本独特の魅力と、生活道具としての機能性を持ち合わせた民芸品は海外でも高く評価され注目を集めている。
柳宗悦がこのような運動を提唱するに至ったのは、イギリスの思想家であるウィリアム・モリスが1880年代に提唱した美術工芸運動『アーツ・アンド・クラフツ』の影響を受けていると言われています。
ちなみにこのアーツ・アンド・クラフツ運動についてざっくり説明しますと、
『機械生産ができるようになって商品は大量に作れるようになったけど(産業革命)、安くて粗悪な製品がマーケットにたくさん出回ってしまったので、それらを作るのをやめて、熟練の職人がひとつひとつ手作りで仕上げる質の良い美術品や工芸品を広めましょうよ』
という運動です。
▼アーツ・アンド・クラフツについてはこちらから▼
美術界において評価のされていない日本各地にある日用品や、庶民が制作している民衆的工芸品の中に真の美しさを見出し、世に発信・紹介していく、という民芸運動は21世期の現在でも続いています。
▼民芸運動を受け継いだ、柳宗悦の息子「柳宗理」の活躍はこちらから▼
ナンタルカのまとめ
■昭和の建築物
(1)大正時代末期、1923年に発生した関東大震災の影響で鉄筋コンクリート造の建物が多く建てられる様になった。震災の復興期に東京や横浜の各地に建設された(①)は、当時としては先進的な設備を備えていた。
(2)昭和初期の代表的建築である(①)は「日本の気候と風土にあった日本人の身体に適した住宅」をテーマとして1928年に(②)によって建てられた木造住宅で、環境工学に配慮した設計がなされている。1935年にはかつてフランク・ロイド・ライトの助手をしていた(③)の自邸である(③)邸が建てられ、昭和初期に建てられた様には見えないモダンな白い箱型の外観で最新のシステムキッチンなどを備えていた。
■昭和の家具・工芸
(1)家具や工芸のデザインにおいても戦争の影響を受けながら様々な動きが見られ、(①)により設立されたデザイングループ(②)は、家具デザインの美的効果を求め、芸術として家具デザインを行った。(③)を中心として豊口克平らが組織した(④)は「生活を基礎として作る生産工芸家具」を目標として、ドイツ工作連盟やバウハウスの思想を強く受けて合理主義的、機能主義的デザインの実践を目指した。
(2)1928年、仙台に創設された(①)は、日本初の国立のデザイン指導機関で、日本の伝統的産業の金工、木工、漆工、その他各種工芸産業の育成と輸出振興を目指し、(②)やシャルロット・ペリアンが来日して指導を行った。アーツ・アンド・クラフツの思想に共鳴した(③)は、伝統的民衆工芸の保護・育成を目的として(④)を展開した。
お疲れ様でした。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
わからないことや分かりにくい箇所があれば、ぜひお問い合わせよりご連絡ください!
次回もお楽しみに!
▼次回、戦後の住宅事情と建築家はこちらから!▼